7月10日は、青山にて「生誕110年 町田康とよむ太宰治」第二弾へ。
文学表現の新しい可能性を常に探求する作家・町田康氏。作家と共に、創作の源となっている太宰文学を味わいます。太宰治の小説を読みながらその人と文学について考えます。
というわけで、町田先生の文学講座でした。第一回目では主に太宰の生涯と作品の傾向。太宰文学の骨頂たる内なる問いを太宰の抱えた四つの苦しみからうまれた「自己破壊→道化→キリストへの投影→逆ギレ」サイクルで説いてくださいました。途中、品川ナンバーの外車に劣等感を感じつつも言い訳を重ねに重ねた伊豆ナンバーの軽爆走し、なんやかんやでもう全部持っていかれたりなどしつつ……

本日四杯目の珈琲を、恒例エルグレコで。
第二回目となったこの日の講座では、前回の太宰の生涯をかるくおさらいしつつ「乞食学生」「ろまん燈籠」「姥捨」等から、一部朗読。
姥捨初読の衝撃を思い出させてくれるような「道化」「逆切れ」「自己犠牲」各々冴えわたる音のひびきに聞き入ってしまいました(稀代の作家の声で再生される珠玉の文学作品のことばのつよさたるや、これまさに贅の極み)。 太宰の生い立ちやそこから涌き出た哲学を照すと、より一層おもしろく、町田先生の声で再生される太宰の文章は、飄々とした語りやそこはかとない哀愁とが 引き立ち、大変魅力的でした。
お話の中では、果てない自己への言及、果てない自己の切り下げが太宰治作品の面白味であることを確認しながら、老若男女どのような登場人物においても、何であっても何をやっても太宰感の脱ぐえぬさま、太宰の分身であることに触れ、折々みられる息苦しさ、異様の影のあるさまを指摘。人の光のために死ぬ、みたいな、キリストに重ねた太宰なりの自己犠牲と、如何に倫理で越えられようとも決して耐えられない「感覚」の矛盾、押し下げるに下げきれない感情、個人の苦しさに寄り添う真摯な姿勢などについても、存分に語ってくださいました。拭いきれぬうしろめたさゆえの、苦しみを突き詰めて考えざるを得なかった果てしない自己の掘り下げ、みたいなえぐさまでもが面白味に変わるって一体どんなメカニズム…
終盤では、「風のたより」から「肩書や資格等を得るためではなく」「作家は歩くように書かなければならない」「生活と同じ速度で描かなくてはならない」などといった創作についてのことばもご紹介くださり、我が日々のささやかで重大なたのしみでもある「書くこと」を、励ましていただけたかのような、ありがたく誇らしい気持ちになりました。折々、垣間見えるご自身の本音的なものにも大きくゆさぶられる思いがし、たいへんに聴きごたえのある、ありがたい講座でした。
ノートを取るのが好きでたまりません。
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SNSでさりげなくフォローさせていただいている方々とお話させていただく機会も得(ありがとうございました)、終わってからもほこほこたのしく、帰り道には松浦寿樹「人外」。自分にしてはめずらしく、ものすごくゆっくり、大事に、大事に、大事に読んでいる。今ほど気づいたのだけれど、同氏「花腐し」は、町田康「きれぎれ」と同年に芥川賞を受賞しているらしく、なんか、ちょっと勝手に興奮したりなんかしつつ。
すごく、しあわせな夜でした。
