愛されていないと感じる瞬間というのは

誰にでもあるものです

 

裏切られたとき
一人ぼっちだと思ったとき
誰からも必要とされていない気がしたとき

 

 

それは、たとえ今までどんなに

前向きに生きてきた人でも

ふとしたきっかけで落ちる深い穴のようなもの

 

 

「愛されていない」という感覚は

思考の中でも特に根強く、冷たく、人を無力にさせます

 

 

スピリチュアルな世界ではよく

「あなたはすでに愛に包まれている」

「絶対に大丈夫」と言われます

それは間違ってはいないのでしょう

 


でも、現実で傷ついている人の目の前に

その言葉だけを差し出しても

ただの理想論に聞こえてしまう

 

 

実際に苦しんでいるときこそ

「本当は愛なんだよ」なんて言葉には

反発したくなるものです

 

 

それでもあえて、こういう視点を持ってみるとしたら…

もしかすると人間という存在は

「愛とは何か」を思い出すために

ここへ来ているのかもしれません

 

 

言い換えれば、「愛がないように見える現実」を

体験することで、愛の存在を知ろうとしている

パズルを解くように、自分の人生を通して

「愛というテーマ」を解析している存在

 

 

もしそうだとしたら「愛が欠けているように感じる現実」

もまた、その学びの一部なのだと言えます

とはいえ、だからといって

「傷つく必要がある」とまでは思いません

 

 

学び方は人それぞれであって

痛みや悲しみは、必ずしも通らなければならない道ではない

ただ、人はどこかで「何かが欠けている」と感じやすい
愛されていないというのも、その欠け感のひとつです

 

 

でも、本当は私たちはすでに満ちていて

足りないと思っているのは

思考が作り出した幻かもしれません

 

 

それでも、悲しいときは悲しいし

寂しいときは寂しい

だから私はこう思っています

 

 

人間のレイヤーでドラマを感じている自分と
もっと俯瞰した視点で

「それでも大丈夫」と知っている自分

どちらの視点も同時に持っていいのです

 

 

どちらかに偏らずに
傷ついた自分に優しさを向けながら
でもどこかで「もう一人の自分」が

静かに見守っているのを思い出す

そこから少しずつ、自分の中心が戻ってくる

 

 

「幸せ」とは、努力して手に入れる特別な場所ではなくて
実は、もともとそこがスタート地点だったと気づくことなのかもしれません

 

 

愛されたいと願うのは自然なことです
でも、その願いにすがり続けなくても大丈夫です

 

誰かの愛で満たされなくても
自分の中にある静かな満ち足りた感覚に気づけたとき
それが、なにより深い安堵をくれる

 

 

この世界に生まれてきた時点で
本当はもう、許されていたし、認められていた

そんな感覚が、ふとした瞬間に顔を出すようになるまで
焦らず、急がず、ただ自分とともにいてみてください