<注意>
この記事は読む人によって不快感等を与えるかもしれません。
抵抗がある方はこの注意書きを読んだうえでご判断をお願いします。
たまにはこんな内容の記事も悪くないかと思う。
私小説・・・一般的には著者自身の経験から書かれた事や、著者と登場する主人公等の目線や一人称が一致している事をいう。
ちなみに私は後者の私小説に近い形である。
心境小説という呼ばれもあるが、これと私小説は若干違いがあるが、私の場合心境小説の方が的を得ているかもしれないが、ここでは私小説という意味合いで記すことにする。
要は、登場する主人公と著者である私の思考などが共通のものであり、性格等もすべて共通の存在として描くことを素に書いていることが多い。
私という著者が、客観的に見た際の心境と、主人公自身が見た際の心境は違いがある。
この場合は両方の立場になって進める必要があるが、大して難しいことはない。
私が考え、思ったこととは真逆の答え、もしくは中立、賛同になるような答えを導けばいいのだ。
しかし、自らと主人公が共通の存在であるからには、自身をよくわかっていなければならないと思われる。
だが、そうでなければいけないということはない。
いつ何時、その都度同じ考えと行動をするわけがないのが人間だ。
ある意味自身の感情などランダムで選ばれると思うのが妥当だろう。
完全に自身をコントロールできている人間などいないからだ。
これは私が思うだけであり、「私はコントロールできている」というのであれば文句は言わないしそのままで結構だ。
話を戻そう。
別にある程度自分という者がどんな人物なのかわかっていればいい。
その都度様々な人物になるという意味では、私は自身と主人公を同一化することが容易になる。
どういう意味かわからないと言われてしまえばそれまでだが、誰に対しても、どんな時でも、同じ自身でいられる人はいい。
そうではなくて、一人ひとり違う顔を振りまいているような人は、逆に主人公という人物を書くには適している。
当たり前だが、一人ひとりに違った顔を持つなんて普通のである。
だから別に特別なことは言ってない。
それだけではなく、あらゆる思惑をもち、あらゆる想定ができている・・いわば相手を信じることをしない人、疑いの目を常にもっているという人は私小説を書くにはあらゆる面で有利になると思う。
「詭弁と方便は生きる上で必要不可欠」と豪語できるなら、その人は会話の流れを自分に優位に進められる。
これが良いか悪いか・・と問われたら私はなんとも言えない。
だが結局は人を欺くことで自分を救うことになるならそれでも構わないし、自分が欺瞞的人間と言われてもそれを肯定するしかない。
こういったことに平気でいられるならば、きっと自己理解した上で主人公の人物像が描ける。
私の場合は・・・という意味なので、他の人が違うというならそれはそれで良い。
少なくとも、詭弁と方便に対して罪悪感を持ち続けるような人はこの見解に理解することは無理だろう。
大方、こういう意見は認められると思う。
それだけ世の中ウソが蔓延っているからだ。
そんなの受け入れたくはないというのはある意味で正しい意見だ。
だが、そうでもしなければうまくいかないのだろう。
なら人より上の欺瞞者になろう。人より賢い者になろう。
ただ忘れてはならない主人公の内面がある。
それは「優しさ」と本当の意味での「信頼」をわかる人物だ。
どんなにクソに成り下がっても、この二つを感じ、その時にしっかりとわかればいいと思う。
綺麗ごとなら綺麗ごとでいいと思う。何が悪い?
ま、私小説ってある意味自分の理想を書いているだけなのかな。