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皆様、おはようございます。
 

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2021年はそろそろ終わりますが特別な年でした。

特にポーランド人及び科学者にとってです。

丁度110年前、ポーランド人であるキュリー夫人がノーベル化学賞を受賞しました。1911年12月10日でした。もらった理由は次の通りです:
「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」。2回目ノーベル賞を受ける初めての人でした。

 

以上の写真はウィキペディアのものです。

 

 

今年は記念の切手ができていないですが2011年のものがあります。ノーベル化学賞受賞100年記念のために発行されました。私は切手の収集家ではないですが大事な出来事を記念するものだと思ったら、買います。
 
 
 
ラジウムとポロニウムの発見を記念する切手もあります。1998年、発見の100年後に作られました。マリアとご主人が載っています。
 
 
 

11月は、キュリー夫人の誕生日でした。母国の有名人なので、彼女について少し書きたいと思います。生涯はあっちこっち書いてありますので、詳しくは書きませんが写真をご覧になっていただきたいです。

マリア・スクウォドフスカ・キュリーは1867117日、ワルシャワのフレタ通り16番地にある長屋で生まれました。【誕生に関連する違う説もあります。たぶん、長屋の後ろで建っていた小さい裏ビルで生まれたでしょうとも言われています。表の建物(現在は博物館)は戦争中壊されて、復元されました。裏の建物は再建されなかったです。】

マリアの家族はシュラフタ szlachta *(「高貴な家柄」という意味)でした。 彼女の両親は土地を所有していましたが、その土地を放棄してワルシャワに移住しました。 マリアのお父様は数学、物理学と化学の教師であり、お母様は当時ワルシャワの第一位女子校の校長でした。

幼い頃から、マリアは理科も人文科学も両方で才能を示しました。 6歳で学校教育を始めました。 当時としてはとても早かったです。

1月蜂起 * の敗北後、ポーランドの学校はより強制的なロシア化されはじめました。 教育活動を開始するための卒業証書は、公立学校でのみ取得できました。 マリアとお姉さんは勉強に熱心でした。 姉妹は、姉が最初にパリに行って医学を勉強することを決心しました。 その間、マリアがポーランドで家庭教師として働いて、お姉さんに学費を送り、それからマリアもパリに行き、勉強することになりました。

パリ在住のお姉さんの状況は改善し、1891年に妹を招待することができました。 マリアは、ソルボンヌ大学の自然科学・数学部で勉強を始めました。 当初、お姉さんと義兄と一緒に暮らしていました。 しかし、アパートは大学から遠く離れていたので、マリアは“学生地区”に小さな屋根裏部屋を借りることにしました。 彼女はそこで学生時代を過ごしました。

マリアは物理学(1893年)と数学(1894年)の学士号を取得しました。 さらなる勉強用の十分なお金がなかったが、ワルシャワでは返済不要の奨学金を確保されました。 【卒業後に完済しました。】

夫のピョトル(ピエール・キュリー)に出会ったのは友人のところでした。すぐに仲良くなりました。ピョトルがマリアとデートしたかったが彼女は科学関係の仕事しながら研究を続けたいと思い、ポーランドに戻りました。 クラクフ市にあるヤギェウォ大学に応募したが、女性であったため、就職できなかったです。 いろいろ悩んで、結局パリに戻り、ピョトルと結婚することに決めました。

1903年にマリアとピョトルは放射能の研究でノーベル物理学賞を受賞しました。 同じ年にマリアは博士号を取得しました。

3年後の1906年には、ピョトルは馬車にひかれ、亡くなりました。 マリアは彼の後、ソルボンヌ大学の物理学部を引き継ぎました。

次のノーベル賞は1911年に獲得しました。ラジウムとポロニウムの発見でノーベル化学賞でした。

1916年にマリアは運転免許を取得した世界で最初の女性の一人でした。

1934年に白血病で亡くなりました。

キュリー夫人のお棺はパリのパンテオンの中です。そちらに1995年に移されました。パンテオンで埋葬された初めての女性だと言われていますが実は2番目です。最初の女性は1907年に埋葬され、ソフィー・ベルテロ(化学者のマルセラン・ベルテロの婦人)でした。ただし彼女は“妻”としてパンテオンに葬られました。キュリー夫人は自分人身偉人としてパンテオンに祀られている初めての女性です。

夫と一緒に“休みたい”という彼女の最後の意志を尊重し、ピョトル・キュリーのお棺もパンテオンに置かれました。

* szlachta に関連するリンクです:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%BF

* 1月蜂起に関連するリンクです:
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%88%E8%9C%82%E8%B5%B7

 

1月蜂起関係の話ですが、ヴェルヌの本の主人公であるネモ船長は当初の案ですとポーランド人でした。変更になりました。以下のリンクをクリックなさってお読みください:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%A2%E8%88%B9%E9%95%B7


キュリー夫人の博物館のリンクです:
http://www.mmsc.waw.pl/
ポーランドにいらっしゃる際、ぜひ訪れてください。

 

この記事を書いて、すごく懐かしくなりました。ポーランドに住んでいたときは、長~い間、キュリー夫人の博物館で案内や説明したり、通訳したりしました。

 

残念なことは一つあります。キュリー夫人が有名なポーランド人ですがポーランドの学校は彼女の日記は読みません。キュリー夫人については勉強しますが、もしかすると日本人のほうがポーランド人より詳しいかもしれません。

 

 

ワルシャワの新市街にある、修復前と修復後のキュリー夫人博物館
(生家と呼ばれている建物)

 

 

 

 

”この家でキュリー夫人が生まれた”と書いてある記念碑

 

 

 

キュリー夫人が洗礼を受けた聖マリア教会(ワルシャワの新市街)

 

 

 

マリアが初聖体の儀式に参加した聖ヤツェク教会(ワルシャワの新市街)

 

 

 

キュリー夫人が使っていた服です。

 

 

 

キュリー夫人が使用したものです。その中に日本製の漆塗りの箱もあります。

 

 

 

以下の写真は、キュリー夫人の生家で置いてあったテーブルだそうです。

 

 

 

キュリー夫人が初めての実験を行っていた建物及びそのビルにつけてある記念プレート

 

 

 

真上の写真の奥に見えているビルは、ドム・ポロニィ Dom Polonii といいます。
キュリー夫人が1925年に化学・物理学会の教授達と会った建物です。