彦間の仕事を済ませ、戸締まりをしてお風呂に入ると、十二時前だった。
もう丈瑠も休んでいるだろうと思いながら座敷の明かりを落とそうとしていると、丈瑠の部屋へ通じる襖が開いて、栞が驚いて手を止める。
「終わったか?」
丈瑠が出てきて声を掛ける。
「まだ起きていたんですか?」
「ああ」
頷いた丈瑠が、上座に足を下ろしたまま座り、栞は、入り口に立ったまま丈瑠に向き直る。
「彦間殿はやっぱりすごいですね。私だと、全部終わらせるのに、こんな時間になってしまいました」
タイミング良く出てきた丈瑠は、自分を待っていたのだろうかと思いながら、その理由を聞くのが怖くて、話を逸らす。
「年の功だからな」
「今日は、楽しかったです」
栞がしみじみという。
「ジイの仕事がか?」
「はい」
変なやつだな。と言う風に丈瑠が栞を見る。
「変ですか?」
「いや。お前はいつも楽しそうだ」
丈瑠に言われて、栞が笑顔で頷く。
「ここのお屋敷は楽しかったです。来てよかった」
丈瑠が栞をじっと見つめた。
「いなくなるみたいな言い方だな」
栞がはっとしたように笑顔を消して、目が泳ぐ。
「この間言ったことを覚えているか?」
やはりその話をするために、栞を待っていたのだと、栞が唇を噛む。
「俺は、許嫁が栞で良かったと思っている」
丈瑠に静かに言われて、栞は声が震えないように気を付けて、用意していた答えを口にする。
「・・丈瑠様は、自由に好きな人と結婚する事が出来ます」
それでも丈瑠を直視できず目を逸らす。丈瑠がその言葉の意味を考える様に、しばらく間をおいて答えた。
「それは、栞ではないという事か?」
栞が、両手を強く握りしめた。
「丈瑠様は、私を可哀想に思ってくださっているだけです。私が孤独だから」
「栞?」
泣かない様に急いで続ける。
「ずっとそばにいたので、情が移っただけです。私がいなくなれば、またすぐ元の生活に戻れます」
必死に、目を逸らしたまま言う。
「なら、どうして」
丈瑠が立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
「俺を好きになった?」
栞が、何かが刺さった様に一瞬身を竦めて、両手で胸を押さえる。
「・・・・好きでは、ありません」
俯いたまま、切れそうな程噛みしめた唇をようやく開いてそう言った。
「ならばどうして」
丈瑠が栞の目の前に立つ。
「俺を見ない?」
栞がまた全身に力を入れてから、ゆっくりと顔を上げる。でも、丈瑠を見た途端、涙が零れた。
「・・・・っ」
丈瑠が、栞を強く抱きしめる。
「お前が嘘を付く時、目を逸らす事くらい知っている」
栞は丈瑠の腕の中で、呆然と、ただ涙を流している。
「何故嘘を付く。父親のせいか?俺を当主にしておくためか?」
何も答えず、されるがままの栞を引き離し、両腕を掴む。
「俺を見て本当の事を言え。他の事はどうでもいい。栞の本心だ」
栞が、定まらない視線で、ようやく丈瑠を見つめると、ゆっくり首を振った。丈瑠の顔が怒りで歪み、掴んでいた手に力を込めて、栞が痛みに顔をしかめた。
「栞に守ってもらわなくても、当主の座くらい自分で守れる。その上で、栞も守る。だから俺のために苦しむな。出て行く事は許さない」
栞は、ただ苦しくて、もう腕の痛みも感じない。
「ここにいると約束しろ」
初めて見た感情的な丈瑠を、栞は濡れた瞳でじっと見つめて、そして、僅かに頷いた。
丈瑠がまた、掴んでいた手で栞を抱きしめる。栞は、ゆっくりと丈瑠の胸に体を預けた。
全ての嘘はばれたけど、栞はその日一番の嘘を付いた。
翌日早々に彦間が戻ってきた。
「もう少しゆっくりしてこい」
丈瑠が呆れる。
結局彦間も、丈瑠のそばが一番安らげるのかもしれない。栞は二人のやりとりを見ながら、そう思った。
「して、殿、何か進展はございましたか?」
彦間が丈瑠と二人になると、切り出した。
「何の話だ」
丈瑠が睨み、彦間が大げさに嘆いた。
「殿、せっかくの機会を」
「何もするなと言ったのはジイだろ」
「申しましたが、まさか本当に何もせぬとは」
「うるさいっ」
横を向いた丈瑠は、小さくため息をつく。栞は普段と変わらない。昨夜何もなかったかの様に。
あの後、栞をしばらく抱きしめてから、丈瑠が栞の腕に触れると、栞が小さく身動ぎした。
「痛かったか?」
丈瑠の腕の中で、栞は小さく首を振ってから、ゆっくり体を離すと丈瑠を見上げた。
「おやすみなさい」
もう涙も乾いていて、感情のない笑顔だった。
ここにいろと言った丈瑠に、栞は確かに頷いたのに、まるで幻の様に腕の中から消えてしまった様だった。
彦間のいない夜も明けて、出て行く決意を固めたらしい栞と、それを望まない丈瑠。果たして二人が望む結末が来るのでありましょうか。殿様御家騒動恋模様、第十三幕、まずはこれまで。