午後、栞が座敷の前を通る。誰もいないと思ったら、入り口の近くに足が少し見えて、中を覗くと、丈瑠が座ったまま壁にもたれて目を閉じていた。
「丈瑠様?」
声をかけても動かない。眠ってるのだろうか。
丈瑠は規則正しい生活をしている。その上気配に敏感だから、居眠りなどしないはずなのに。
「丈瑠様?」
栞がもう一度声をかける。
やはり動かない丈瑠に、栞はそっと近づいた。丈瑠の寝顔を見る事など、きっと最初で最後だろうと思いながら、丈瑠の整った顔を見つめる。起きている時は、恥ずかしくてあまりじっと見られない。そしてためらいながら、そっと手を伸ばして髪に触れた。ずっと触れてみたかったクセのある髪は、思ったより柔らかくて、栞はそのまま、丈瑠が起きないように祈りながら、丈瑠の頭をそっと抱きしめて、愛おしそうに包み込んだ。
丈瑠は、栞が座敷へ入った時から気配で目が覚めていた。でも、栞だと分かっていたので、そのまま目をつむっていて、抱きしめられて驚く。栞はいつも、最後の一歩を近づかない。少し距離を置いていて、普段なら栞から触れてくる事は絶対ないことだ。
丈瑠が起きるに起きられなくなって、栞の鼓動を聞いている。
しばらくしてから、栞が体を離して、丈瑠も今目覚めたみたいに目を開けた。
「丈瑠様、眠っていたんですか?」
そこに立っていたのは、いつもの栞だった。
「丈瑠様が居眠りするなんて」
何事もなかった様に、笑顔で言う栞に、丈瑠が人差し指を口に当てる。
「滅多にしない。内緒だ」
丈瑠が、栞を見上げて悪戯っぽい目をして、栞も笑顔で頷いた。
寝ている丈瑠を抱きしめる栞が、何事もなかったような顔をするのを見ると、不思議になる。栞は何故自分の気持ちを隠そうとするのだろう。栞に憎からず想われている事くらいは、いい加減丈瑠でも分かる。許嫁なのだから、支障もないはずなのに、栞はそれを必死に隠す様に丈瑠から距離を置こうとする。
栞が丈瑠を見下ろす格好になっているので、後退りをしようとした時、丈瑠がそうさせないように栞の手首を掴んだ。栞が驚いたように身を竦ませて、戸惑った顔になる。
「丈瑠様?」
栞が困った顔をして視線を泳がせてから、ふっと真顔に戻ってじっと丈瑠を見つめた。
「ことは様がお帰りになって寂しいのですか?」
拗ねた様な棘のある言い方に、丈瑠が驚いて栞を見つめる。
「どうした?」
栞が目を逸らして唇を噛んだ。そのまま何も答えず、丈瑠の手を振り解こうとする。このままそばにいたら、言ってはいけない事を口走りそうだった。
「栞の気配は安心する」
丈瑠が掴んだ手を緩めずにそう言うと、栞は諦めたように離そうとしていた手を下ろして、揺れる瞳で丈瑠を見つめた。
背の高い丈瑠に下から見つめられるのは初めてで、ほんの少し身を屈めたら、丈瑠の唇に届きそうで、栞が吸い込まれるように丈瑠に近づいていく。もう少しで唇が触れそうになった時、廊下から足音がした。
二人が一瞬で離れる。
「殿」
座敷に入ってきた彦間が、二人を交互に見る。
栞は赤くなった顔を見られないように彦間に一礼すると、逃げるように座敷から出て行った。
「お邪魔でしたか?」
彦間がその後ろ姿を見送りながら丈瑠に聞く。
「いや」
答えながら丈瑠も驚いていた。栞がキスしようとしていた。自分からは決して近づかない栞が。
栞は、自分の部屋に逃げ帰ると座り込んだ。自分は今何をしていたんだろう。丈瑠の瞳を見つめていたら、何も考えられなくなっていた。ことはにはあんな事を言ったけど、本心ではなかった。丈瑠の隣に他の誰かがいるなんて嫌だ。丈瑠に他の女性に触れて欲しくない。丈瑠を自分だけのものにしたかった。・・・無理なことは頭で理解しているのに、心が付いていかない。たっぷりと自己嫌悪に陥ってから、もう一度自分の気持ちにふたをする。そして、深呼吸してから部屋を出て行った。