煩悩はなかなか消えない。生きた人間である以上欲を無くすことは仏教では不可能としている。しかし私は人の欲は好きだ。浅ましいほど欲望に素直な人間の創り出す創作物は素晴らしい。あまり欲に素直に成りすぎると破滅するが、人生、ある程度欲はあった方がいいと思う。


 私は文章でスランプ宣言をしたが、絵はそういえばあまりスランプというものに陥ったことはない。絵はいい。私は下手くそながら絵を描くことが好きだ。休みの前の日など朝まで描いていることもあったほどだ。ただひたすら夢中に手を動かす。それだけで時間がさらさらと流れる。天性の絵描きには勝てないが、絵はある程度才能より努力がものをいう世界だという。

絵を描いていると心穏やかであれる。ただ熱中できるのだ。


 しかし私にとって文章は違った。常に書けなくて苦しい。文章をこうして書くことは楽しい。しかし常に私のアイデアは枯渇していて、何も思い浮かばない日は苦しくて堪らない。

上手い人の文章を読んでは、どうしてこう書けないのだろうとため息を吐く毎日だ。

散々言ったようにこんな事で悩めるのは暇な証拠だ。ある意味幸せなことなのだろう。

文章を書くとき、私の頭は常に煩悩でいっぱいだ。こう書きたい、あのシーンはこうしよう、この表現は不味いのではないか、ここはこれを付け加えてみよう。絵は違う、ただよく分からないまま無心で書ける。


 こんなことになる理由は絵と比べて、文章に対して私はかなり拘りがあり、ハードルが高いのだろう。幼い頃から、本ばかり読んで育った。今考えると読書量が足りないのだが、それでも人と比べると読んできた方だと思う。それが好きで、目が肥えている分、期待してしまう。そう言えば私は絵に対してこう描きたいという欲や理想がない。その違いなのだろう。


 文章は才能の占める割合が大きい。あの努力家の村上春樹ですら文章は才能と認めている。村上春樹はその作家の文章を読めばこれから文壇に残っていけるかわかるらしい。

 私は一生上達しないかもしれない。私が私に文章の才能が無いと自覚したのは小学校低学年の頃だ。一生自分にはない才能と才能ある人たちへの嫉妬と向き合い、生きていくのだ。そう幼心に悟った。そこで諦めて30歳になった今また書き出した。所詮趣味、そう心から思える日が来ますように私は祈ってやまない。