4才のある日の夜中。
突然吹き出した大量の鼻血。
血の味がして母を起こし、
タオルでおさえてもらっても
みるまる血がタオルににじんで
絞れるほどの多量出血。
母の手が震えていて、
姉や隣のおばちゃんが駆け付けてきて
とにかく何が起こったのか…
恐くて泣きだすと
母が、「泣いたらいけん!」
と怒鳴った。
泣くと更に血が溢れる。
救急車を呼ぶ前に
タクシー運転手で
夜勤をしていた父に電話したところ、
ちょうど近くにいるから待てと、
すぐに迎えに来てくれた。
市民病院で治療を受けながら、
母と医者が何を話していたのかは
さすがに4才だった私は覚えていない。
ただ、周りがみんな深刻だった。
お尻に注射を射たれて痛かった。
そこから記憶がないから、
きっと寝てしまったんだろうなぁ。
夜中だったし。
検査結果は
「突発性血小板減少性紫斑病」
やたら病名が長い。
そして、血液の病気だからと
生活のなかでの影響が大きく、
気をつけなければならない
沢山の制限を課された日々。
出血するとなかなか止まらない。
一度ケガをしたら、
1ヶ月はかさぶたになりきらない。
鼻血が出だすと3日は止まりきらない。
余りにも止まらないからと
耳鼻科で止血手当てを受けた。
左の鼻に大量に詰め込まれた綿。
息がしにくい。
逆流する血で味がする。
パンパンになった鼻の出口に
押さえておくためのテープを貼られた。
1週間したら取り替える。
それを4度行った。
それは小学2年生のときで、
それが原因ていじめに拍車がかかった。
仲のよかった友だちのおかげで、
辛い日々も乗り越えられた。
最後の治療のときに、
医者が鼻の奥の綿を取り忘れてしまい
それから悲劇が増した。
鼻の奥で腐った綿。
異臭を発することであだ名がついた。
「うんこ。」
子どもは容赦ない。
今思えば笑えるけれど、
当時の私にとっては傷付くだけの
辛い日々だった。
1ヶ月くらいして
我慢できず母に泣きながら伝えた。
「なんで早く言わんかったんね!」
いじめられているなんて、
学校ではうんこと呼ばれているなんて、
ただ悲しませるだけだと分かってるから
言いたくないに決まってる。
母に連れられて病院へ行き、
腐った綿を取り出してもらった。
医者のミス。
母は医者に訴えてくれた。
取り忘れた一つの綿が
どれだけ私を傷つけたか。。
また、学校の先生にも話してくれて
一時期ついた最悪のあだ名は消えた。
でも…
あの頃に感じた胸の痛みは
今でも忘れられない。
私の心を支えてくれた
沢山の優しい手があったから
私は生きてこれたんだと思います。
そうでなければ
生きることを諦めたかもしれない。
医者から告げられた
「18才くらいまでしか生きられないかも…」
それは子どもだった私にも
強く残った言葉だった。
毎日眠るのが怖かった。
そのまま目覚めないかもしれない。
夜目を閉じるのが怖かった。
死んだらどこに行くんだろう…。。
私はどうなるんだろう…。。
死を意識しながら生きる毎日は
小学生ながらに重苦しくて、
何よりも、母の心の葛藤が見てとれて
自分のことで苦しまないでほしかった。
この病のおかげで
つかんだものも大きいのだけれど…。
幼稚園、小学生時代は
体育は全部お休み。
ケガする可能性があるから。
体育の見学中に
グランドに白線を引くのを手伝った。
その途中で鼻血が出て保健室行き。
石灰の粉を吸ってしまったからだと
見学中は保健室で待機命令が出た。
森林学校に行く当日の朝、
鼻血が出て行けなかった。
出席日数の関係で、
特別教室を保健室で設けられた。
校長先生自らの授業。
鼻血を止めながらの授業は
全く頭に入らなかった。
ドッジボールが好きで、
よく隠れてみんなの中に入り込んだ。
最後まで残って驚かれた。
それがたまらなく楽しかった
(笑)
地域のバレーボールを始めて3日目、
鼻血が出たから無理だと言われた。
悲しかった。
運動という運動はほとんど許されず、
苦手な水泳だけはやれと言われ、(笑)
泳げるようになるために、
父に市民プールへ連れて行かれて
初めて泳ぎを教えてくれた。
小学3年生だったと思う。
内向的で反発できない私は
ただ父の言われることを聞いてがんばった。
1ヶ月後、泳げるようになった。
幼少期の父との思い出の中では、
一番思い出深い出来事かな~。
小学4年生のときに、
イギリスで開発されたという薬を
入院して試してみることになった。
1本 200万円。
1日 4本の点滴。
2週間ぶっ続け。
難病指定の病気だからできる治療。
薬が効いて治ることを期待して
挑んでみたけれど結果には繋がらず…。
このときに
母の腹が決まったと聞きました。
医者も薬もダメなら、祈りしかない。
ここからが母の真剣勝負だったと。
私はただただ、
18才までをどう生きるか…。
毎日が不安との闘い。
小学5年生になって、
初めて親に反抗した。
理不尽な怒られ方に堪忍袋の緒が切れた。
ハタキで私を叩く母を蹴って転ばせた。
大嫌いだけど大好きな母。
でも、すごく気が晴れてスッキリした。
それから思うようになったのは、
いつ死んでも後悔はしたくない。
やりたいことをやろう。
言いたいことは言おう。
我慢は最低限にしよう。
嫌だとちゃんと言えるようになろう。
好きなことを大事にしよう。
自分の人生は自分で決めよう。
親にとっては最悪な日々への扉。
私にとっては自由を勝ち取るための
勇気と希望に繋がる扉。
全てのスタートはあの日から。
今もあの日のことは忘れない。
でも、その日から父が私の躾をするように…。
更に試練は大きくなったけど、
通ってきた道に
今のところ悔いはないかな

現実の生活を守るためには、安定を勝ち得るためには、何らかの犠牲を払うこともある。
ただ… それはあくまでも、目標を達成するための道としていたい。辛くても苦しくても、それが勝ち得たいもののためだとしたら… 全てが楽しみに変わる
