筆が踊るから直後はあれこれと感想を書くものではないらしいが、
今日アカデミー劇場で観た演劇
メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」について。
こちらでの観劇はブルク劇場でのファウストで観たのがもう7年まえくらいになるがオペラ同様日本人の私が期待するクラシックなコスチュームや演出を観ることはおそらくあまり多くないのだろうと思われる。
脚本は原作通りなのではないかと思うが
演出は予想にたがわずアヴァンギャルドで
ドビュッシーのオペラというフィルターを通して観ていた本作品がどういう演出であろうとどう私に響くのか見てみたい、という興味があった。ドビュッシーのみならずフォーレやシベリウス、シェーンベルクなどの大作曲家を虜にした脚本である。
メーテルリンクはドビュッシーのオペラに対して良い印象をもたなかったらしい、その理由についても知りたいと思った。
如何にキテレツ演出であろうと基本保守的なウィーン、心理的な分析はいかに演出家の主観であろうときっと大陸を同じくする文化的土壌のポイントは外さないと思ったので是非観てみることでドビュッシーとは違う角度で味わえるものと期待した。
そして.....
批評めいたことを書くときには筆者の知識レベルを公開するのが正義だと思うので書いておくが私は演劇全般に云々できる知識と素養は皆無に等しいし、演出の意図も把握できているわけではない。という状態で感じた個人的な意見を書くと.. 。
この青い鳥の作者、のみならず翻訳文学全般を私は今まで激しく誤解していたかもしれない、という件が事実らしいことに気付いた。
いままで翻訳文学では堀口大学で愕然とした経験がありながら翻訳家の欧州文学に一種の憧れの衣を一枚まとわせたいという意思がかいまみれていたにも関わらず、私も読み手として今までまさにそれを欲していた一人であった。何かヨーロッパ的なもの、悲劇であろうと醜悪であろうと洗練されているに違いない、という何か得体の知れないヒラヒラしたものを纏わせて受け取ろうとしていた。
今日の演出は結論から言えばそれを粉砕してくれた。あり体に言えば登場人物が現代のあらゆる DV、 ハラスメントの象徴であるように描かれ、目を背けざるを得ない場面もかなりあった。というのはこちらに住んでみてそれが絵空事でないような、確かに存在するだろうと思われるような城郭、住まい、人物を垣間見た記憶がそれによって繋がりリアリティをもって3D化してきたからだ。一言でいえば皆アタオカ、通報もしくは搬送対象に価する人物として描かれる。
なぜ法治、ジェンダーが意識的に行われねばならないかよく分かりましたヨーロッパの歴史という感じである。阿部勤也氏の本よりさらにさらにシュールであった。
コメディやハッピーエンドという意思を持たない舞台作品は大抵は皆不幸という結末で終わるがこれはその最たるもので、憎悪、恐怖、コンプレックス、欺慢のオンパレード、各自にとって可能な最大の妄想あるいは横暴という額縁を纏って交錯した所に物語(問題)が生じるという案配。
私は時おり嫌悪を催す、目を背けざるを得ない舞台にとまどったが憎悪はしなかった。嫌悪と感じる部分こそ、いままで自分が見てこなかった部分であるかもしれないことに気づかされた。
源氏物語における王朝で縁取られる優雅さを外したところの心理的なリアリズムを思い出した。
この演出を施された作品がなぜ
今
石の建造物の文化の
フロイトを排出した都市で
伝統ある劇場で
予算を得て上演されうるか
などを考えるとき
その都市ドラマにこそゾッとし
また感動もするのだ。