(昨日の投稿より続きます)

 

 「これは口喧嘩で興奮して 刃物を振り回したような争いではない」

路上にあふれた大量の血を見て、陳聯勝 は老人の覚悟と事態の深刻さを悟った。 老人が次に何をするか予測できないとみた 陳聯勝 はお客様係の職員に店内に戻って来させ、正面玄関にカギをかけたのち、ポケットに入れてあったスマホで通報し、店内にいた客たちには裏口から逃げるように案内した。


 路上に横たわっていた男は目を見開いたまま、もがくのをやめて動かなくなった。
老人はホッとしたかのように穏やかな顔になり、ナイフを足元に捨てて カバンから携帯電話を取り出すと、ゆっくりと番号を押し始めた。
バーの入り口付近で見ていた人々にはその会話の一部始終が聞こえた。


 「もう終わったよ…..ずっとこうしようと思っていた…..ああ、刺してやったよ…..お前が泣くことはない。 私はもう充分年をとった。 いまさら刑務所に入ったってかまわないよ」
 老人は電話を切ると静かにその場に立ち、通りの景色を見納めるかのように眺めながら 警察が到着するのを待っていた。




 路上に倒れている男の出血は止まらなかった。
顔面はもはや紫色で、唇はチアノーゼになっている。
 そこに警察と救急車が駆けつけてきた。 警官らは 二人がかりで老人を背後からとり押さえ、マレー系の女性警官が背後から手錠をかけたが、この間老人はまったく抵抗しなかった。

 一名の救護員が血まみれで倒れている男の前にしゃがんで呼びかけた。
男にまだ意識があり、弱いが呼吸をしているのを確認すると救護員らは男を担架に乗せて素早く人工呼吸器をとりつけ、心臓マッサージを開始し、救急車に運び込んだ。

 逮捕班の警官らが老人を連行したが、老人はうしろ手錠されたまま、しっかりした足取りでパトカーに向かって歩いて行った。



 のちに目撃者たちはこの時のようすを次のように語っている。

「老人は終始落ち着いており、逃げようともしませんでした。 警察が現場に到着したとき 特に抵抗もせず、静かに逮捕を受け入れていました。 すべて準備ができていたようでした」
 サイレンを鳴らして署に急行するパトカーを見送りながら、客らはたった今間近で見た惨劇に関して語り始めた。 同時に何人かはその老人をどこかで見たことのある顔だと思っていたが、誰であるのか? どこで見たのか? は思い出せなかった。


 鑑識が現場を封鎖し、証拠物などをさがしはじめた。 捜査班現場担当の警官は市民らに呼びかけ、事件の経緯や情況に関する聞き込みを開始したが、現場となった “A Poke Theory” 入り口付近にいた目撃者から、加害者が自分と被害者の関係を ”義理の親子“ であると話していたことを聞き、非常なショックを受けると同時に異様な胸騒ぎを感じた。
 担架にのせられ救急車に運び込まれていったあの男からも、うしろ手錠をかけられ自ら連行されていったあの老人からも、カジュアルな服装でありながら どこかそこらの庶民ではないようなオーラを感じていた。 そしてやはり記憶のどこかにあった顔のような気がしていたのである。
 血まみれになっていたあの男・・・どこかで見たような・・・モデルであったか? 何かの芸能人だったか?
 老人も・・・有名人ではないかもしれないが、どこかの区の議員だったか? やはり思い出せなかった。

 情況や事件の動機についてさらに調査を行わなければいけないと感じながらも、原因と本質は現場とかけ離れたところにあるような予感がした。


 

 やがて被害者に同行して中央病院に到着した捜査員から 逮捕班と現場捜査班に入った無線連絡は、先ほど運びこまれた男は輸血が間に合わず、救助に最適な時期を逃したため 最終的に 14:13 に死亡したという、芳しくないものであった。

 どのような背景や動機があったかはまだ分からない。 しかし被害者が死亡し、なお且つ情況的に明確な 故意の殺人である場合、シンガポールの法律では “謀殺罪” が適用され、その刑罰は “死刑” 一択である。

 逮捕班の警官は連絡を受けて うしろ手錠をかけられ パトカーにいる老人の横顔を見た。

今自分のとなりにいるこの老人は、死刑に面している運命であった。

 

                                     (明日に続きます)