(昨日の投稿より続きます)

 

・インターネット

 「この不思議なものは全世界とつながることができる」 という言葉が頭の中でよみがえった。 当時使われていたのは bitnet と呼ばれる化学研究に利用されていた e-mail グループの BBS に似た一種の掲示板だった」 と 貝志城 は回想する。

 

 協和医院 はあらゆる可能性を考慮し、HIV検査、脊髄穿刺、核磁気共鳴、免疫系統、化学物質中毒、抗核抗体、核抗原抗体、ライム病など多項目の化学検査を実施した。 しかしライム病を除いて、他の検査の結果はいずれも明確な陰性であった。 (ライム病とはダニ、ネズミ、鳥などから感染する細菌性のもので、これは抗菌薬を投与することで治療できる)

 朱明新 はその後インタビューで回想している。
当時あらゆる方法を使い果たしても状況が好転する目途も立たなかった彼女はすでに絶望を感じていた。
 貝志城 からインターネットを使用してみると言われても、何のことだかわからなかった。 疲れきった 朱明新 には、貝志城 の説明自体が頭に入ってこなかった。
「もちろん治療の機会をもう一つ提供できるなら、それに異論はありませんでした。 もし娘を助けることになるのならぜひやってみてください、と頼みました」

 

 このようにして 貝志城 は 朱令 の病例カルテのコピーを入手し、すぐに寮に戻って 蔡全清 を探し、Unix を使用してインターネットにアクセスできることを確認し、協力を頼みこんだ。
 担当の教授の許可がなければできないことだが、蔡は話を聞いて快く引き受けてくれた。

 貝志城 にはもう一つやらねばならないことがあった。
“中国医療の最高頭脳” と呼ばれる医師たちが判断・解決できないケースなのである。 満足な設備のない地方の病院や大学に聞いて実証的なアドバイスをもらえることはあまり期待できなかった。 そもそも端末自体も備えられていないだろう。 当然、海外の医療機関や研究所の厚意と “好奇心・興味” にすがるしかないはずだ。
 文革の頃と時代が違うとはいえ、外国でどんな人たちが見るのかもわからない。 そして、本当に外国人に厚意を期待できるものなのか?


 同時に投稿するメッセージ・ファイルは最後まで注意して読んでもらえるものでなくてはならなかった。 どのような機関でも対外的な連絡窓口は組織のトップではなく、対応を割り当てられた研究助手や学生が受け持っている。 意味が通じにくかったり、解読困難と見られたらそのままゴミ箱行きになるかもしれない。 また間違いや誤解があればそれはとりもなおさず治療法そのものに影響する。

 貝志城 は英語の辞書を引き引き 文面の作成と各種資料の英文訳を開始した。 書いては破り、破っては書き、まる二日間寝ずに 朱玲 の病状の説明、これまでに実施された各検査項目の結果、協和医院 の医師たちによる知見・診断 と 治療措置 の 経緯と経過 を英文に訳し、各機関・医院 への支援・協力を要請するレターを作成して添付した。
 

 貝志城 自身、親しい欧米人の友人もおらず、自分が書いた内容が正確で充分だとは自信をもって断言できなかったが、こうしている間にも 朱令 の 生命 は一歩一歩終わりに近づいてゆく。 有効な治療が可能ならば、間に合わせなければいけないと思うと一刻の猶予もなかった。


 研究所や寮の英語が得意な仲間内で 内容を確認し、おそらくこれでいい と思える最後のアメンドメント (修正) をしたのち、4月10日、「北京大学力学系 92級 学生・貝志城、蔡全清」 を代表者名にして、北京大学 のコンピューター室から Usenet の sci.med  (医療関連グループ)  とその他の 関連 ニュース・グループ、さらに Bitnet にアクセス可能なすべての 医学研究 と 医療関連のメール・グループ に 《緊急支援を要請するレター》 として送信した。

 「ここは中国の 北京大学、自由と民主主義の夢が満ちた場所です。 (注:この 6年前 になる 1989年 6月4日 の天安門事件の際、矢面に立って抗議したのは 北京大学・清華大学 などの学生らであったことを言っている)

 しかし今、一人の若い女性がその命を終えようとしています。 中国で最高の医療施設とされる 協和医院 の医師ら が最善を尽くしても 彼女の 疾病を診断することができないでいます」

「彼女は 1994年 12月5日 に腹痛を感じた後、激痛は全身にわたるようになりました。 3日後、脱毛、顔面神経麻痺、中枢眼筋麻痺、呼吸障害が始まり、現在は自主呼吸能力が失われました」


 1995年 4月10日夕刻、貝志城 が送信した “緊急支援を要請するレター” が送信されてからわずか数分後であった。 最初の返信が届いたのである。
 それはアイルランドからのものであった。 「拝読しました。 朱令さんの早い回復をお祈りします」 というものであった。 直接的な解決方法を提示したものではなかったが、藁にもすがる思いであった 貝志城 はインターネットでの情報収集に期待がもてるという確実な手ごたえを感じた。
 すぐに届いた二通目の返信には “——Thallium―” この言葉が提起されていたのである。

 “タリウム” は英語でも 滅多に使用されることのない 専門的な単語である。 のちに 貝志城 の眼前にあるコンピューターの スクリーン上 に高頻度で表示され始めるようになっても、彼にはまだそれが何を意味するのか分からなかった。

 

 1995年12月 の 《US Medicine》 誌のレポートによると、アメリカ海軍軍医、生物測定学及び予防医学 の助教授であるスティーブ・カニオン (Steve Cunnion) 博士 は 4月10日 に 貝志城 らが送信した 《緊急支援を要請するレター》 を受け取っていた。 そして彼の返信は最も早く、正確な診断をしたものであったことがのちに分かっている。

 

 さらに当日晩遅く、中国駐在アメリカ大使館で医師として勤務した経験があり、当時すでにワシントンのアメリカ国務省に帰任していた医師 ジョン・アルディス (John Aldis) 博士 とカリフォルニア州の医師 ロバート・フィンク (Robert Fink) 博士 も 貝志城 らからのレターを受け取っていた。
 

                                          (明日に続きます)