*発生時期: 1995 年 4 月

*発生地点: 中国・北京市

*事件分類: 厳重傷害事件

*類似する事件: 名古屋大学女子学生タリウム殺人事件

 


 これは中国でインターネットが人の命を救うために使用された最初の例かもしれない。 北京の名門大学に在籍する ある才色兼備の女子学生に次々に原因不明の症状があらわれ、彼女は全身に障害を抱えるようになり、身体も精神も、そして知能も破壊されてしまう事態となった。 元同級生や友人らの  「インターネットでなら、この病気を治療することができる医師を探せるかもしれない」  との藁にもすがる思いの呼びかけに、中国全土のみでなく海外からも医学、薬学、病理学、生物学などに通じた良心ある人々が原因を探索し治療を試みた、暗闇の中に射しこむ一条の光明である一方、中国当局はいまだに真相を完全究明せずに隠蔽し、容疑者が法の外に逃げきることを許した 非常に暗澹とした事例である。
美人の女子学生にいったい何が起きたのか?


・再会

 26年前 の 1995年 4月10日 は月曜日であった。 北京大学力学系 の学生であった 貝志城 (当時 21歳) はまだインターネットというものがもつ可能性を理解できていなかった。 

 中国では紹介・導入されたばかりのまったく未知の領域で、国家が重点的に取り組もうとしていることは聞いていたが、「全国で 清華大、中科院、化工大 の 三ヶ所 に 256K のリンクがある」 との説明を聞いたところで、何のことかすらわからなかった。

 しかし公開された一通の情報に対して返信されてきた  100件近い メッセージ を見て、その驚異的なコミュニケーション量をいとも簡単に可能にするシステムに 衝撃を受けると同時に、大きな可能性を感じざるを得なかった。
 

 貝志城 は疲労しきってはいたが、翌日の 朝 5 時 まで研究室のパソコンから離れられず、たった一晩で返信された 100件近い メッセージ を緊張し、また興奮しながら、1件 づつ丁寧に フロッピーディスク にコピーして寮に持ち帰った。

 貝志城 と数名の有志が、各界学者の集う掲示板サイトに投稿したのは、ある患者の奇怪な症状に関し、他の学者たちに分析や見解を求めたものであった。 患者の名は “朱令” といい、貝志城 の 北京第二十六中学 (のちに “匯文中学” に名称変更された) 時代の同級生だったのである。 

 貝志城 と 朱令 は 初級中学 (日本でいう中学校) の三年の時に 一年間クラスメートで、 高中 (日本でいう 高等学校 )に進学してからも同じ “二十六中” の友人であった。 

 1992年 になって 貝志城 は 北京大学力学系 に、朱令 はもう一つの 北京の名門である  清華大学化学系 に進学し、平日はあまり連絡が取れなくなってしまったが、協和医院 の 重症者看護室 で偶然の再会をしたのである。

 再会できた 朱令 はすでに 意識不明のこん睡状態 で、息も絶え絶えであり、まさに死の直前であった。

 

 この女性、朱令 は実の名前を 朱令令 という。 中国では親しい者がだれかを愛称で呼ぶ際に 名前をショート・カットすることがあり、「朱令」 と呼ばれることが一般的になったといわれる。 中国のメディアがそれに倣って報道したため 「朱令」 で知られることになってしまった。

 

 朱令 は 1973年 11月24日、北京の知識分子家庭に生まれた。 温州人で上海育ちの 父親・呉承之 と 母親・朱明新 はともに 1959年 に 中国科学技術大学 地球物理系 で学び、大学内で知り合って卒業後に家庭を築いていた。 父親・呉承之 の定年前の職位は 中国国家地震局 の 高級工程師(エンジニア) で、母親の朱明新 も 中国遠洋公司 (現在のCOSCO) の 高級工程師であった。


 朱令 は 北京光明小学を卒業後、初級中学 と 高級中学 は 北京第二十六中学 で学んだ。

 本来なら 朱令 には “呉今” という姉が一人いた。 長女・呉今 は 父親姓 につき、妹である 朱令 は 母親姓 についたことになる。 姉の 呉今 は大変優秀な児童で、北京市内の学力テストで 上位10名 に入り、北京崇文区 の 理科・状元 (きわめて優秀な成績を収めた者) を取得し、1987年 に 北京大学生物系 に進学した。 バレエ、ピアノも得意で、英語を流ちょうに話し、北京に来た外国人客を案内するようなこともあったという。


 ところが 呉今は 1989年4月 に同級生らと 河北省保定市淶水縣 にある有名な景勝地で原始林保護区でもある ”野三坡” にハイキングに行った際に失踪し、3日後 に遺体で発見されるという悲しい事故が起きた。 死因は 崖から落ちての転落死で、朱令 が 初級中学 3年、まさに 貝志城 と同級生だった時期である。   

 優秀だった姉の死は 朱令 にとって大きな打撃であった。 貝志城 によればこの時から 朱令 は 内向的な性格に変わっていったという。 
(テレビ番組 「東方時空」 では、姉の件もあって 貝志城 は 朱令 に同情しずっと友だちであったと紹介している)
 その後、姉の事故の件もあり、本人も両親も進学に際しては志望校を 北京大学 ではなく  清華大学 に絞った。
 1992年 に 清華大学化学系 (“系” は “学部” とか “コース” のような意味) に進学し、物理化学と機械分析を専門にする “物化二班” というクラスで学んだ。

                                          (明日に続きます)