(昨日の投稿より続きます)

 唐永強 はなぜここまで異常なのか? 考察する前にまず 唐永強 の成長過程と背景を知る必要がある。 
 事件当時の取り調べに際し、唐 は自分の出生を明かすことを拒み、1964 年 12 月 24 日生まれの 37 歳を自称していた。 実は 唐 は 香港 生まれではなく、また 大陸 で生まれて 香港 に逃げてきたわけでもない。 
 本名は Duong Vinh Cuong、ベトナム人 で 1959 年 11 月 3 日、台湾生まれ。 少年時代に両親に連れられ ベトナム に戻り、父親は工場を経営、母親は主婦、三人の姉がいて唐は一人息子であったが、姉の入浴をのぞくなどして 家族との関係はすこぶる悪かった。 
1975 年に米軍が南ベトナムから撤退する際、両親は三人の姉を連れてアメリカに密入国したが、16 歳の唐は ベトナム に置き去りにされた。 よほど嫌われていたのだろう。 
 唐はその後 タイ に行き霊媒・祈祷師に弟子入りし"霊術"を学び、1979 年に再度 ベトナム に戻るとすぐ アメリカ に密入国するボートに乗ったが、密航途中に 香港水域 で 香港海上警察 に逮捕され、屯門 の 開放式難民キャンプ に収容された。 その際、未成年の方が難民申請が通りやすかったため 5 歳年齢をごまかした。。。。。 
香港警察 が 台湾、ベトナム、タイ、アメリカ の関係方面に問い合わせ、まとめたのが上のような経歴である。 

 難民キャンプ内でも 喧嘩や傷害事件 を複数回起こしたが、当時の 難民政策 で難民らが他国に移住する機会をつぶさないよう 刑事犯逮捕 はされなかった。

 戸籍は取得できないが 3 年後に 「行街紙」 という難民身分での滞在許可を取得し、香港 での定住を始めたがその後多くの犯罪を犯している。

 

1985 年 1月,恐喝で前科がつく

1985 年 6月,無銭飲食で逮捕

1985 年 7月,理由なしに女子トイレ付近をうろつき逮捕

1993 年 7月,職務質問。逮捕拒否で逮捕

1996 年 7月,居留條件違反で前科がつく

1996 年 以後のデータなし。 

 唐 は 1985 年 から 86 年冬まで1年以上収監され、出てきた直後にまだ 14 歳だった 雷 (広東語では"ロイ"、ベトナム語では"レ"、どちらにもある苗字なので、なに人かは不明) と知り合い同棲を始めて 1989 年に結婚、すぐに子供が生まれた。 
 このころ 唐 は電子部品工場の雑役、屋台の経営などをし、結婚に伴い 「元朗・朗屏邨雀屏樓」 に引っ越した。
(朗屏邨 という公共団地は 二人目の死者・嚴佩珊 の住所と同じである。 唐 と 嚴 はここの公園で出会った)

 しかし 唐 は家庭を持ちながら、家出少年を泊めてやったり、未成年少女と不適切な関係になったりしてある意味有名人だった。 朗屏邨 の少年たちには 「昔は 九龍・廟街( テンプル・ストリート) の黒社会の顔役で 『下山豹』 と 呼ばれ ヘロイン を売っていたが、今は足を洗って、青少年が道を誤らないよう話して聞かせているんだぜ」 などと語っていたらしい。 よく食べ物をおごり少年・少女たちから慕われていた、との証言がある。 当時まだ 10 歳だった"失学少女"樊柳珊 もその中の一人だった。

 なんと 唐 は結婚の翌年には 樊柳珊 に好意を打ち明け、団地内でも夫婦気取りで知らぬ者はいなかったほどであった。 そして 14 歳になった 樊柳珊 をも 団地の自室で一緒に住まわせたのである。 唐 は"両手に花"のつもりかもしれないが、当然 雷 は受け入れられず、また 樊柳珊 の両親も激怒して通報した。 香港 でも未成年との性的関係の発生は重罪だが、両親が訴えても 樊柳珊 が証言を拒否したため警察も 唐 を逮捕できなかった。 結局、1992 年に 雷 は 唐 と離婚して子供を連れて出て行き、その後 唐 は 1997 年に 朗屏邨 を出て 白沙村 の村屋に引っ越し、樊柳珊 が 18 歳になるのを待って 1998 年に 二人は入籍、その後 三人 の子供が生まれた。 子供が 三人 いれば出費はどんどん大きくなる。 唐 はそのころ トラック の助手をしていたが、収入が良くなると賭け事に走り仕事もしなくなった。 この時点ですでに 唐 は生活が行き詰まり、樊柳珊 も外に出て仕事を探したが、樊 自身も学歴が低く、技能も持っていないため 旺角 で カラオケのホステス を始めるしかなかった。 しかし 樊 はそこで多くの人を知り、多くの物事を見るようになる。 
 樊柳珊 は世の中というのはこんなに大きいものなのか、という衝撃があった。 10 歳の時から 唐永強 と二人の世界しか知らなかった。 ホステス を始めて複数の男性と知り合い、交際も始まった。 一度世の中の大きさを知ってしまったらもう 唐永強 だけがいる世界には戻れなかった。 それ以上に、あんな辺鄙で不便な田舎・元朗の 白沙村 に留まっているべきではなかった。 時には 朗屏邨 の母親のもとに戻ったが、唐永強 と三人の子供が待つ 白沙村 の村屋に行くことはまったく無くなった。 唐 にしてみれば 樊 と三人の子供たち と自由に暮らしたかったから 白沙村 に家を借りたのにもかかわらず。
 これまですべて自分を信じ、言いなりだった 樊柳珊 が 別人のようになってしまったのを見て、 唐 はどうしたらいいのかわからなかった。 そして 社会福利署 に相談し、当時まだ 社会福利署長 だった 林鄭月娥 (現・香港特首 2019年の抗議デモを弾圧した) も、「12 月11 日に家庭訪問をして一家五人と逢い、唐 と 樊 の感情問題をフォローしたい」 と前向きに取り組んだが、唐 はこれを断った。 

 ここまで見るとただの家庭トラブルである。 ではなぜ二人の無関係の少女は殺害されたのか? 

先に述べた通り、唐 は青年時代に タイ で 霊術を学んだという。 
樊 が家を出て浮気に走った時、唐 は報復することを決意した。 警察は立てこもり事件発生当日の現場検証の際、嚴佩珊 の遺体が隠されていた 洋服ダンス内 に 樊柳珊 の全身像の写真が 5 本の釘 で板に打ちつけられ、その上に 「樊柳珊,生忌一九八零年八月一日」 と書かれているのを発見している。

 唐の報復とは 樊柳珊 が永遠に三人の子供に会えないようにするだけでなく、一生自分たちを裏切った報いを受け続けることであった。 そして 唐永強 は 「五鬼報仇」 という 秘術 を計画した。 それは五つの血縁者の命を奪えば、これらが邪霊となって 樊柳珊 に生涯にわたってまとわりつづけるというものであった。 唐 が血縁者として殺害できるのは三名の子供たちしかおらず二人足りない。 陳諾雯 と 嚴佩珊 に狙いを定めたが、しかしやはり血縁者ではない。 そこで 屍姦をすれば血縁関係ができる のだという。
もちろんこれは 唐 の一方的供述である。 

(陳諾雯)

 陳諾雯 の遺体は発見されたとき全裸であったし、さらに、唐 の子供が 「パパはお姉ちゃん (最初の被害者・陳諾雯) のお尻にオイルを塗っていた」 と 肛門性交 を証言したぐらいである。 嚴佩珊 も同じ被害に遭っていた。 
唐 が本当に 樊柳珊 に報復したかったのは事実だろうが、異常な性癖を満足させたかった可能性はなかったのか?

それは本人にしかわからない。 しかし 唐 自身、経歴や犯罪歴を見ると 異常な性的関心があったことは確かだ。

唐 が二人の妻と知り合ったり、同棲した年齢が ローティーン、結婚した歳がやっと 18 であったことから考え、ある種の嗜好は感じ取ることができる。 
「第二百九夜」 では 「嚴佩珊 の外見・条件は元朗広場で失踪した 陳諾雯 といくつか共通点が見られた」 と書いてその共通点を指摘したが、同じカテゴリーに入る美人ではあっても、似ているというほどではない。

(陳諾雯)(嚴佩珊)

では、間に 樊柳珊 を入れてみるとどうだろうか?
 そしてこの時点で 22 歳の 樊柳珊 の10 歳、11 歳の頃をイメージしてみていただきたい。



 おそらく 12 月 4 日の晩に TWINS の閃カードを見せた時 「それを売ってもらえませんか」 と聞いた 陳諾雯 は、自分だけを信じてくれた 11 歳の時の 樊柳珊 に見えたのだろう。 
だから 唐 も優しく答えた。 「キミにあげるよ」 と。
そして 「暴龍楽園に行くより、うちでゲームしようよ」 というと嬉しそうについてきた 嚴佩珊 も 10 歳の頃、誘われるまま団地の自分の部屋に泊まりに来た 樊柳珊 そのものだったのかもしれない。
しかし、彼女らを見て  樊柳珊 を思い出し電話をかけてみると、現実の 樊柳珊 はもはや自分と子供たちを放棄するどころか邪魔な黒歴史としか思っていない。
 唐 は電話でこれから殺害する少女の名前を言った。 殺害後に再度、どう殺害したかも聞かせた。 そして 「五人の霊が生涯お前を苦しめる」 と伝えたが、樊 は信じずバカにして鼻で笑っていた。 

 2004 年 2 月 25 日、唐永強 が引き起こした 2 件の殺人罪と 1 件の殺人未遂に関する裁判が開審され、唐永強 は犯行を全面的に認めた。 しかし、屍姦に関しては 「霊術」 の解釈をめぐってなのか、検察の主張を否定した。 唐 の代表弁護士は、犯行当時 唐 は中度のうつ病で心神喪失状態であり、妻・樊柳珊 との電話の直後に自分を見失って犯行に及んだと主張し、殺人罪を回避しようとしたが、精神科の医師が 「中度のうつ病であったとしても、殺人を犯して分からなくなるほど理性を失うことはない」 と証言した。
また、検察側は 唐永強 は 陳諾雯 と 嚴佩珊 を殺害したのち屍姦したことや 被害者の名前をその都度 樊柳珊 に電話して伝えていたことを指摘、計画的犯行であったことを強調した。 最終的に 2 件の殺人罪に関し、終身刑判決が 2 回、三人の子供への 殺人未遂罪で 懲役 8 年追加、という判決が下された。

唐 は 現在ランタオ島 の 石壁監獄 に収監されている。

事件が発生した 白沙村 278 号 の村屋は、最強の心霊スポットとなってしまい、付近の住民からは、「少女の笑い声、すすり泣く声が聞こえた」「女の子が歩く姿が見えたが、近づくといなくなる」 などのうわさが広がったが、近年、この村屋の家主は除霊儀式を行ったのち 和尚・ラマ に 5年間無料 で貸し出し、今はそういった 怪奇現象 も徐々になくなってきているといわれる。 
その際のインタビューのようすが報じられている。


【極兇案調查】孌童屠夫白沙村屋成和尚之家 石屎封屋黑布遮窗 - YouTube

 

唐 自身は監獄の中でも霊現象に悩まされ続けている、といわれるが。


・筆者が思うこと
 自信のないゆがんだ男を甘く見てはいけない。
自分にはもう次はない、と考えている人間を、遊び半分に追い込むと、このように周囲の無関係の人々を巻き込む暴挙を犯す。 日本でいえば宮崎勤や秋葉原歩行者天国事件の加藤だ。
 しかし殺害された少女たちも、裏切った奥さんに似ているということで目をつけられたのだったらたまらないはずだ。
 子どもとは言え、どこでどんな災難が降りかかるかわからないことは肝に銘じておくべきだろう。 性善説は通じない世の中になった。

                                             (終わり)