(昨日の投稿より続きます)

 

 陳諾雯 の両親と 元朗警区重案組 はこの 映像 を発見して 大きな救い を感じた。 

ここから付近の CCTV を一つ一つチェックしていけば 陳諾雯 のその後の足取りを追え、居場所が分かると確信したからである。
 しかしそれでもなぜか付近の CCTV からはまったく 陳諾雯 の姿が発見されなかった。 まるで歩道橋で蒸発してしまったかのように。。。
 重案組捜査員 と 陳諾雯 の両親がどう思おうと、元朗広場 から 壽富街 にある 陳諾雯 の自宅に帰るならば、この歩道橋を渡る必要はない。 この歩道橋を渡るということは、当初の予定になかったどこか別のところに行こうとしていたことを物語っているはずだ。



(赤い矢印が陳諾雯の失踪場所である元朗広場、緑のラインが歩道橋、紫の枠が陳諾雯の自宅がある一帯、右下のグレイのアンダーラインが嚴佩珊がよく遊びに行っていた合益広場)

 一日、二日、、、こうしている間にも 陳諾雯 は監禁されているかもしれないし、虐待や暴行を受けているかもしれない。 
 家族は焦っていた。 
 さらに一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、、、それでも 陳諾雯 の行方に関して何のリードも得ることができなかった。 当時、元朗の住民らはガクブルであった。 恐ろしくて子供たちを一人で外出させられず、子を持つ親たちはどんなに忙しくても時間を作り、自身で子供の送り迎えをするようにすらなった。
 元朗警察重案組第三隊 は 陳諾雯 の失踪14日目・・・つまり 2002 年 12 月 18 日の 19:30頃、再度 元朗広場 に行き、外見、体形が似た 子役モデル に 陳諾雯 失踪当時と同じ服装 を着せ、事件の再現ビデオを撮影した。 当時テレビ・プログラム に 警察広報枠で 《警訊》 という番組 が オンエア されており、その中で放送して 市民からの情報提供 を呼びかける予定であった。

(陳諾雯)

 しかし ・・・ このビデオ撮影が完了した翌日である 2002 年 12 月 19 日 21:43、元朗警察署 は別の市民から 「10 歳の娘が失踪した。探してほしい」 との 助けを求める電話 を受けたのだった。

 失踪した女児は 嚴佩珊、1992 年 9 月 27 日生まれで 10 歳、元朗・鶏地 の 鳳琴街 にある佛教榮茵小学校下午(午後)校 の 5 年生、中学生の姉が一人いる。 失踪当時は"赤の体操着姿"であった。 通学はいつも父親が送っていたが、18:00 の下校時には徒歩で帰宅していた。 そしてそれは失踪した 今日 も同じであった。 
 失踪当日、嚴佩珊 は 19:00 になっても帰宅せず、家族は初めのうちはまだ学校で復習や宿題をしているのかと思い、学校に電話して確認したのだがすでに下校したとの返事があった。 そして 2 週間前の少女失踪 を思い出して不安になり始めた。 それでもうしばらく待ってそれでも帰宅しなければ 警察に相談する ことにしたのだった。 その後さらに 2 時間経ち、21:30 を過ぎても帰らなかったため、もうこれ以上待てなくなり通報したのである。
 嚴佩珊 の母親は言った。 「娘は下校後 いつも同じ時間に帰ってくる。 どこかに行くことはほとんどないし、出かけるにしても事前に私に言う」
 陳諾雯 が失踪してからわずか半月後、今度はまた別の女児が失踪したことで警察の緊張は高まった。 通報を受けたのち、大きなヤバさを感じたため、今度は 48 時間を待たずすぐに捜査を開始した。 

 捜査員らは 嚴佩珊 と 2 週間前に発生した 陳諾雯 の失踪に非常に似た印象を受けた。 連続犯罪の犯人 というのは 「クリミナルDNA」 とでもいうべき独特の クセ を持っている。 

 性犯罪を繰り返す者なら 「犯人の好み」 のタイプ といううか、似通った年齢、似た外見の女性 をターゲットにする傾向があるし、また、犯罪者は 居住している地点 や 職場 から 半径約5km の範囲内 で犯行に及びやすい、とも言われている。 環境・地理に熟知しており、警官に職務質問された場合にも 「帰宅途中だ」「買い物に来ました」「ちょっとふらっと散歩です」 で説明がつくからである。

 嚴佩珊 の 外見・条件 は 元朗広場で失踪した 陳諾雯  と いくつか共通点が見られた。

 11 歳 と 10 歳という年齢、うりざね顔 (香港では美人の条件の一つとされる)、肩まで伸ばした髪、元朗地区 に居住、失踪時は 赤い上着 を着用していた・・・・・
( この顔の形 や 髪形に関する指摘はあとで納得していただけることになると思われる )


(嚴佩珊)
 

 いずれにしろ、こうしている間にも 嚴佩珊 に危険が迫っていることは明らかである。 一刻の猶予もなかった。 捜査員らは深夜になってしまう前に 入手できる情報は入手し、確認できる部分 は 確認しておく必要があり、まず、嚴佩珊 が通う 佛教榮茵小学下午校 の 校長・李玉芝 の自宅を訪ね、嚴佩珊 の日常生活に関する話を聞いた。 
 李校長によれば、嚴佩珊 の成續は普通だが 素行や礼儀は模範的で、学校の 風紀委員 にもなっている。 活発で運動が得意であり、学校を代表する 陸上選手 であるだけでなく、校外の活動にも興味を持ち、同年 11 月 に郊外の都市で行われた トレーニング・コース では ロッククライミング の際に頂上までたどり着けたのは 嚴佩珊 ただ一人で、その忍耐力と運動神経にみな驚かされたという。

 一方、下校途中に事故や犯罪に巻き込まれた可能性 も否定できないことから、捜査員は 嚴佩珊 の同級生で近所に住む仲のいい生徒に、下校のようすを尋ねたところ、「今晚 6 時に阿珊 (嚴佩珊 : 親しい間ではこのように名前の一字をとって呼ぶ) と一緒に学校を出たがその後はわからない。 普段の下校ルートは学校から約 10 分歩いて 教育路 のバス停から 軽鉄循環バス 656 号で 朗屏邨 (公共団地) まで帰って来る。 5 分から 10 分程度の道のりで、その後は 邨 (団地) の入り口で別れるが、いつも彼女のお母さんは 喜屏楼 (フラット名) の下で待っているわ」 とのことだった。 
 捜査員は 嚴佩珊 の 生活習慣 を調べることにし、家族や親しい近所の友人に 嚴佩珊 が普段どこに遊びに行くか聞くと、「阿珊 は 『暴龍樂園』 でゲームするのが好き」 との証言を得た。
「暴龍楽園」 というのは 元朗 の 合益広場 の 一樓 (日本式には 2 階) にあった 遊戯施設 である。 (現在はもうすでに取り壊されている)

(合益広場)

 嚴佩珊 の行動が映っている可能性を考えた 重案組と重案支援組 は、すぐに 暴龍楽園内 と付近の CCTV の映像を集め、嚴佩珊 の痕跡がないか調べることにした。
 夜が明けた翌 12 月 20 日、嚴佩珊 の安否が気遣われることから、朝一番で 機動部隊 H 班 160 名 + 新界北総区重案組、元朗重案組、人口失蹤組、制服警官、私服警官 の合計 200 名以上が 嚴佩珊 の通う学校がある 鳳琴街 に設置された 移動式コントロールセンター に集まり 捜索活動 を開始し、聞き込みや 下校コース付近 での 絨毯式捜査 を開始した。
そしてこの日、すべてが 氷解する意外な事件 が発生する。

                                         (明日に続きます)