<13回のナゾの電話/シンガポール>

*発生時期: 2002 年 6 月

*発生地点: シンガポール

*事件分類: 失踪事件

*類似する事件: ネパール邦人女性失踪事件
            ロシア人女性失踪イクトカ17番地事件
 

 いまを遡ること 19 年前の 2002 年 6 月、林欣瑩 (以下、名前の 「欣瑩」 と呼ぶことにする) は シンガポール の 協和中学 の 2 年生で、学校では Tina と呼ばれていた。  両親はすでに離婚しており、Tina は 父と娘の二人 で 蔡厝港 (Choa Chu Kang) 4 道第 462 座 のフラットに住んでいた。 
14 歳という いちばん友達たちと騒いだり賑やかに過ごしたい時期だったろうか? 



 同年 6 月 22 日 (土) 16:00 頃、欣瑩 はぼんやりとしながら自宅のソファーに座っていた。 父親の 林文枝 (Lim Boon Kee : 綴りから見て 福建人 である) は 欣瑩 が自宅ですることもなく退屈そうにしているのを見て、彼女に祖父の見舞いに行ってみるよう話しかけた。

 欣瑩 の祖父は ガン を患っており、もうずいぶんと長い間 自宅で療養していた。 
そこで父親は娘に 「おじいちゃんが一人で寂しくしているから、暇だったらお見舞いに行ってそばにいておやり」 と言ったのである。



 素直な 欣瑩 は父親からの サジェスチョン にすぐに身を起こし、祖父に電話をかけたみた。

電話に出た祖父は 孫である 欣瑩 が見舞いに来るというのを聞き、とても喜んだ。

それを見た父親がさらに 「おじいちゃんの家に一晩泊っておいで。 明日、お父さんが車で迎えに行ってあげるよ」 と勧めたことで、欣瑩 はかんたんな荷物をまとめ、自宅を出る前に 父親に手を振って、一人で ジュロン にある祖父の家に向かったのである。 
そしてこれが父親が娘を見る最後になってしまった。



 数時間が過ぎ、夜になった。
欣瑩 の自宅の電話が鳴り、林文枝 が出た。 祖父からであった。 しかし電話の内容は 「欣瑩がまだこちらに来ていないが、どうしたんだ?」 というものであった。 途中で何か起きたのだろうか? と心配してかけてきたのである。

父親はこれを聞いて、欣瑩 はどこかに寄り道をして時間がたつのを忘れているのだろうと思い、彼女が好きだった場所の ロットワン・ショッパーズモール や ジュロン・ポイント に行ってみた。 しかし見当たらない。 
すぐに他の親戚や友人らに電話して 欣瑩 が遊びに行っていないか尋ねて廻ったのである。
しかし誰も 欣瑩 の行方を知っているものはいなかった。
 

 林文枝 は非常に危険を感じ、血の気が引く思いがした。 最終的には警察に通報するしかなく、その後さらに 欣瑩 の通う学校にも連絡したのである。

警察で 失踪届け、捜索願 を出すための供述が記録されている際、林文枝 は 欣瑩 が自宅を出る前に 数十シンガポール・ドル しか所持しておらず、また着替えの衣服も持っていないこと、パスポートも自宅内に置かれたままであることを告げた。 家出の形跡はまったくなかったのである。

 欣瑩 が失踪した後、林文枝 は 約 1500 シンガポール・ドル (約 11 万 5 千円) をかけ、《新報》、《ストレーツ・タイムズ》、《新民日報》、《聯合晩報》 などの大手新聞社に"探し人"の広告を出し、さらに 7 千枚 の チラシ を印刷して街頭各所に貼り出したのである。
 しかしそれでも警察も 林自身 も 欣瑩 の行方に関するリード (事件解決につながる導線) を入手することはできなかった。



 シンガポール国内 で発見されないことから、父親は 近隣国 に連れ出された可能性を懸念し、マレーシア の イポー、ペナン、さらには タイ との国境にも行って探し、言葉も通じない中で チラシ を配るなどして情報を求め、心身ともに疲労困憊であった。 林 自身の仕事にも大きな影響が出るような状態になっていた。

"探し人"のチラシには 林文枝 の電話番号を掲載してあるため、欣瑩 失踪後の約 3 ヶ月間、毎日数十件に及ぶいたずら電話がかかって来ていた。 そして当然のことながら、捜索の助けになるものは 一件もなかった。

中には故意に虚偽の証言・・・"欣瑩 はすでに事故に遭って死亡している"などを言ってくる者もいて、林文枝 の 精神状態 はさらに悪化していった。

                                        (明日に続きます)