「キリストは彼のためにも、死なれたのである。」

             ローマ 14章 15節

パウロは、ここでは「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と言っています。

 

これは、その人のうちに価値があるということではなく、「キリストの価値がある」ということです。

 

その人を見ることは、キリストがご自身の命をかけたその価値が置かれているということです。

 

ですから、その人に罪を犯させて、躓かせて、滅ぼすことは、キリストが命を捨てられたその価値を無駄にすることに他なりません。

イエスの十字架のあがないは例外なく全ての人々のためです。それは主がすべての人を大切なものとしておられるからです。

 

主の死によって生かされていると信じるなら、当然自分以外の人々もその恵を頂いていることを信ずべきです。そうなると、人の事をあれこれあげつらうことはイエスのみ心に添わないことです。

 

キリストの死を通して他者を見るとき、何も言えなくなります。そればかりか、ある種の連帯感が生まれます。

1 コリント 13:2
「またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」