「また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。」
マタイ 13章 22節
イエスは無駄になる種があっても気にされなかった。良い種は芽を出し、成長し、豊かに実をつけることを知っておられたからだ。だから、失われていく種があっても平気であり、むしろ豊かな収穫を予期しながら、希望に満ちて種を蒔かれた。このイエスの楽観論を私たちも共有したい。
一度教会に来られても二度目は来られない人もいるし、何度か来られてもやがて姿が見えなくなる方もおられる。バプテスマを受け、共に礼拝を守った方が、教会から遠ざかる場合もある。しかし、私たちは、福音の種は力を持ち、豊かな収穫をもたらすことを信じている。
御言葉を受け入れると、生活の中で自分が大事にしているものを捨てなければいけない、自分を変えなければいけないという部分が増えてきます。つまり、心に茨が、雑草があるような状態です。そして、そうした思い煩い、自分の安定した生活というものを崩したくないので、御言葉を受け入れて信じて行くということを放棄してしまいます。あるいは放棄していないように見せかけて、表向きはクリスチャンを見せるのですが、実質的にそれが生活に影響を与えていないという状況です。
しかし、聖書の言葉、み言葉は種のようなものです。見た目にはなんの特徴もありませんが、その中には命が満ちています。それと同様に、神の言葉も、私達の日常の言葉と変りません。しかし、そこには命があります。ただ、その命から新しい実を結ばせるには、肥沃な耕された畑が必要です。雑草が生い茂った中では育ちません。あなたの心は良き地でしょうか。
マタイ 6:31-33
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」