人間としておるから。
これは、ワタシの中にある部分のはなし。
どこかの感覚が、目の前に現れた人の何かをキャッチするとワタシのある部分が起動する。
自分を超えてそこに速攻起動する。
容易いのだ。そこに起動するのは。
ワタシからアクセスなんてしない。
これがまた、人間であろうと、動物たちや植物であろうと一緒だ。
自分が生きてて目の前に現れたのだ。
自然なことだし、ないがしろにできない。
自分に確認もせず、起動した相手をゆっくりとみていく。
そのうち全て樹木に見えてゆく。診断するように。
これは、起動した相手が、解れていき、見つけて、手放していき、光っていくのを見ていくまで完了しないのだ。
その間、自分のココロは一番にこない。
しかし、人はワタシのような存在に対して「依存」したり「コントロール」したくなっていく。
自分が変わるのが怖いからだ。
それを感じると、ようやく自分のカラダが反応する。
ココロが反応する。
ハッと我にかえる。
ワタシはただ、その人に芽生えていくもの全てが愛おしいのだ。美しいから見ていたいのだ。
その人だけではなく、全てのものに対等に。
しかし、これは自分をないがしろにしているらしい。
そして、相手のためにもなっていないかもしれない。
生きてきて、当たり前にやってきたことだけど、
自分を一番にしようと決めたから、
これは必要ないものにしようと思う。
そんな自分の一部。
これも自分のたったひとつの側面だ。
うじかわ的に言うと「ひと枝」だ。
「ひと枝」は「ひと枝」だ。
過度に意味を持たせようとしてはいけない。
なのに、たった「ひと枝」なのに、
自分を一番にしようと決めてから、この「ひと枝」がとんでもなく太く重くなっていることに気付いた。
ここに比重を置きすぎていた。
バランスがとれなくなってしまった。
このままでは、根幹が揺らいでいく。
そして、根っこは大地に張っていないと思う。
たぶん、大地からではないエネルギーを受けて生きていける樹木だ。
今、剪定をしているところだ。
カタチ良くする刈り込みではなく、剪定。
枝を落とす。
切り口はよくしないといけない。
迷いは鈍い痛みが残るから、断ち切る。
随分と剪定していなかった枝だった。
とても痛みが伴う。
迷ってしまったからだ。
でも、迷ったのも自分だ。
まぁ、いいじゃない。
断ち切り、痛いが、とても清々しい。
また、そんな自分も愛おしく思う。
たった「ひと枝」のこと。
ちょっと大きくし過ぎたな。
だいじょうぶ。
春だから、新芽が出てくるさ♪
感じる
感じる
自分を感じる。