14段の階段 (自分が出来ることに気づく感動の物語)
人生のステージというのは、何も考えなければ他人が決めたレールの上を移動していくだけです。
しかし、時に人生はそういうレールの上を歩かせない出来事を用意したりします。
たとえば、病気、事故で、人生が暗転し涙なしには生きていけない状況を与えられた時に、自分で考えざるを得ない状況に出会うことがあります。
そんな状況にであったある男の述懐です(アメリカの物語です)。
お休みの日ですので、少々長いですがお付き合いください。
(引用ここから)
猫は9回生まれ変わるという。そんなこともあるかもしれないと、三つ目の人生を生きている私は思い始めている。
私の第一の人生は、11月のある晴れた日に始まったらしい。8人兄弟の6番目の子として農家に生まれたのだ。父は私が15歳のときに亡くなったため、残された家族は生きていくのに必死だった。
母は、肉類のとぼしい食卓にジャガイモや豆をせっせと料理し、とうもろこしパンを焼いて出してくれた。私たち子どもはわずかな稼ぎでも、家計の足しになることならなんでもやった。
やがて兄たちが大人になり結婚して家を離れた後は、残った姉と私とで、母の面倒を見た。母は晩年半身不随になり、まだ60代の若さで亡くなった。その後間もなく姉は結婚し、私も同じ年に結婚した。
ことは私が第一の人生を楽しみ始めたころに起こった。私は健康に恵まれ、スポーツが大好きだった。二人の美しい娘に恵まれ、いい職につき、美しい家も持った。毎日が快適で、夢のようだった。
だが、その夢は悪夢に終わり、夜中に冷たい汗をかいて目覚めるようになった。私は進行性の運動神経障害にかかった。まず、右腕と右脚、それから反対側が冒されていった。
こうして第二の人生が始まった。
病気とはいえ、私は毎日車で通勤した。車に特殊な装置をとりつけ運転したのである。14段の階段のおかげで、私はなんとかがんばり続けることができた。
そんなばかな、と思われるだろう。
だが、本当なのである。
我が家は中二階のある建物で、車庫から玄関まで14段の階段でつながっている。この階段の昇り降りというのが、たいへんな苦行だった。
この階段は私が生き続けていく意志と力を計る尺度となり、チャレンジとなった。
階段に片足をかけ、もう片方を痛みに歯を食いしばりながら引き上げる。それを14回繰り返して、へとへとになって着くのだが、それができなくなったら、そのときこそ負けを認めて横たわり、死ぬだろうとさえ思った。
こうして私は仕事を続け、階段をあがり続けた。そして、何年もたった。
娘たちは大学を出、幸せな結婚をした。
14段の階段のある美しい我が家には、私達夫婦だけが残った。
こう書いていくと、いかにも勇気と力にあふれた男の話のように思われるだろう。
いや、いや、そんなものではない。
人生に幻滅し、自分の正気と妻と仕事にしがみついて、脚を引きずって歩いていただけなのだ。
それも変わり映えしない14段の階段だけを頼りに。
その階段をひと足、ひと足、のろのろと痛みをこらえ、始終立ち止まりつつあがっていきながら、私はときどき、元気だったころを懐かしんだ。キャッチボール、ゴルフ、ジムでのトレーニング、ハイキング、水泳、ランニング、ジャンプ。それがいまでは、階段をあがるのが精いっぱいだ。
歳をとるにつれ、私はさらに落ち込み、不平不満をかこつようになった。
妻も友人たちも、私が人生論をぶち始めるたび、さぞかし嫌な思いをしただろうと思う。
私はこの広い世界で自分だけが苦しんでいるのだと思い込んでいた。これでもう9年間、この十字架を背負ってきたが、あの14段の階段をあがることができるうちは、この先も苦行が続くのだろうと。
私は新約聖書にある「コリント人への手紙」の中の慰めのことばなど無視することにした。
「一瞬のうちに、死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます」(第15章52節)
やがて1971年8月のある暗い夜に私の第三の人生が始まった。
その朝、家を出る時には、こんなに大きな変化が起きようとは夢にも思っていなかった。それどころか、その朝は階段を降りるのさえいつも以上につらいと感じたほどで、帰ってきてまた階段をあがるかと思うとぞっとした。
その夜、家に帰ろうとしたら雨が降ってきた。
強い風と横なぐりの雨が車をたたく。
私はふだんは通らない道をゆっくりと運転していった。
と、急にハンドルが手の中で踊って、車は急激に右にそれた(注、アメリカは右側通行)。
とたんに、タイヤがバーンとパンクした。車は横滑りしながらもなんとか道路の端で止まった。
とんでもない事態に茫然となって、私はただそのまま座っていた。パンクしたタイヤを替えることなど、できるわけがない。絶対に無理だ!
通りがかりの車が止まってくれるかもしれない。いや、そんなうまいことにはなるまい。誰がわざわざ止まってくれるものか。私だって止まらない。
と、その時、脇道をちょっと行ったところに家があるのを思い出した。
エンジンをかけ、ゆっくりと進み、舗装されていない道に出たところで曲がった。
助かった!
前方の明りのついた窓が迎えてくれているようで、私はその家の前まで車を乗り入れると、クラクションを鳴らした。
ドアが開いて、幼い少女が顔を出した。
私は窓を開け、大声で言った。
「パンクしちゃってねえ。タイヤを取り替えようにも、おじちゃんは足が悪いんだ。助けてもらえないかなあ。」
少女は家の中に引っ込むと、すぐにレインコートを着、帽子をかぶって出てきた。後ろに男が元気にあいさつを言いながらついてくる。
私は車の中で濡れることもなく楽に休みながら、嵐の中で懸命に働いている少女と男のことをちょっと気の毒に思った。
まあ、いいさ。二人にはお金を払おう。
やがて雨が少し弱まってきたので、窓を下まで開けて二人の様子を見た。作業はおそろしくもたついている。私はだんだん苛立ってきた。車の後ろから金属がカチンカチンとぶつかる音がし、少女の声がはっきりと聞こえてきた。
「はい、これ、ジャッキよ。おじいちゃん」
男が低く何やら答えるうちに、車体はジャッキで揚げられてゆっくりと傾き始めた。
それからも、また雑音と、揺れと、車の後部で小声のやりとりが長いことあって、やっとタイヤの交換が終わった。
ジャッキが外されて、車がドンと落ち、トランクのふたがバシンと閉まった。
二人が窓のところに立っていた。
男は年寄りだった。
腰は曲がり、痩身でいかにも頼りない。
少女は8歳から10歳といったところか、私を見る朗らかそうな顔はにっこりと笑っている。
年寄りは言った。
「こんな晩に故障しちゃ気の毒だったが、これでもう大丈夫だ」
「いやあ、ありがとう。助かった」と私は言った。「で、いくらお支払すればいいかね?」
彼は首を振った。
「いや、けっこうさ。シンシアがあんたは足が悪い、松葉づえの人だって言うもんでね。力になれてよかったよ。あんただって、同じことをしてくれたさ。お金なんていいよ、仲間じゃないか」
私は5ドル札を差し出した。
「いや、ぜひとも払わせてもらいたい」
だが、老人は手を動かそうともしなかった。
その時、少女が窓に近づいて、そっと言った。
「おじいちゃんは、目が見えないの」
続く数秒のうちに、私を襲った恥ずかしさと身の縮むような思いは、吐き気がするほど痛烈だった。
なんと、目の見えない老人と少女だったか!
二人は冷え切って濡れた指でナットや道具をまさぐっていたのだ。
とりわけ老人は暗闇の中で、――死の瞬間まで果てしなく続くだろう暗闇の中で。
二人はタイヤを替えてくれた。
雨と風の中で。
私は松葉づえを小脇に、車の中でぬくぬくと楽な思いをしていたのに、私が障害者だと?・・・ハッ、大笑いだ!
二人が「おやすみ」と言って家に戻った後も、いったいどのくらい座っていたろうか。
私は、自分の心の奥を見つめ、長い間深い反省に沈んでいた。
私は自己憐憫と身勝手に甘え、まわりの人々の願いや思いやりに対しても冷淡で無関心だったことに気がついた。
私は座ったまま、声に出して祈った。謙虚に祈った。
「もっと力をお与えください。
もっとまわりの人たちを理解できるようにしてください。
私自身の欠点に気づかせてください。
そして、それを克服するために助けをお与えください。
日々、祈り求める信仰をお与えください」
あの老人と孫娘のためにも祈った。
ようやく、私は運転してその場をあとにした。
心は洗われ、魂は謙虚になっていた。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは、なんでも、人にしなさい。」(マタイ伝)
あれから何か月もたったが、いまの私にとって、この言葉は単に聖書の一節というだけでなく、こうありたいと努力している生き方なのである。
もちろん実践するのは生易しいことではない。なかなか思い通りにならないし、ときには時間もお金もかかる。しかし、何事にも代えがたい価値がある。
いま私は毎日14段の階段を昇るだけでなく、少しでもまわりの人の力になれるよう心掛けている。
いつの日か、私も目の見えない人のためにタイヤを替えてあげよう。
かつての私のように目があいていても見えない人のために。
(引用ここまで)(愛を見つめる死を見つめる、こころのチキンスープ3より)
では、よい休日を。
しかし、時に人生はそういうレールの上を歩かせない出来事を用意したりします。
たとえば、病気、事故で、人生が暗転し涙なしには生きていけない状況を与えられた時に、自分で考えざるを得ない状況に出会うことがあります。
そんな状況にであったある男の述懐です(アメリカの物語です)。
お休みの日ですので、少々長いですがお付き合いください。
(引用ここから)
猫は9回生まれ変わるという。そんなこともあるかもしれないと、三つ目の人生を生きている私は思い始めている。
私の第一の人生は、11月のある晴れた日に始まったらしい。8人兄弟の6番目の子として農家に生まれたのだ。父は私が15歳のときに亡くなったため、残された家族は生きていくのに必死だった。
母は、肉類のとぼしい食卓にジャガイモや豆をせっせと料理し、とうもろこしパンを焼いて出してくれた。私たち子どもはわずかな稼ぎでも、家計の足しになることならなんでもやった。
やがて兄たちが大人になり結婚して家を離れた後は、残った姉と私とで、母の面倒を見た。母は晩年半身不随になり、まだ60代の若さで亡くなった。その後間もなく姉は結婚し、私も同じ年に結婚した。
ことは私が第一の人生を楽しみ始めたころに起こった。私は健康に恵まれ、スポーツが大好きだった。二人の美しい娘に恵まれ、いい職につき、美しい家も持った。毎日が快適で、夢のようだった。
だが、その夢は悪夢に終わり、夜中に冷たい汗をかいて目覚めるようになった。私は進行性の運動神経障害にかかった。まず、右腕と右脚、それから反対側が冒されていった。
こうして第二の人生が始まった。
病気とはいえ、私は毎日車で通勤した。車に特殊な装置をとりつけ運転したのである。14段の階段のおかげで、私はなんとかがんばり続けることができた。
そんなばかな、と思われるだろう。
だが、本当なのである。
我が家は中二階のある建物で、車庫から玄関まで14段の階段でつながっている。この階段の昇り降りというのが、たいへんな苦行だった。
この階段は私が生き続けていく意志と力を計る尺度となり、チャレンジとなった。
階段に片足をかけ、もう片方を痛みに歯を食いしばりながら引き上げる。それを14回繰り返して、へとへとになって着くのだが、それができなくなったら、そのときこそ負けを認めて横たわり、死ぬだろうとさえ思った。
こうして私は仕事を続け、階段をあがり続けた。そして、何年もたった。
娘たちは大学を出、幸せな結婚をした。
14段の階段のある美しい我が家には、私達夫婦だけが残った。
こう書いていくと、いかにも勇気と力にあふれた男の話のように思われるだろう。
いや、いや、そんなものではない。
人生に幻滅し、自分の正気と妻と仕事にしがみついて、脚を引きずって歩いていただけなのだ。
それも変わり映えしない14段の階段だけを頼りに。
その階段をひと足、ひと足、のろのろと痛みをこらえ、始終立ち止まりつつあがっていきながら、私はときどき、元気だったころを懐かしんだ。キャッチボール、ゴルフ、ジムでのトレーニング、ハイキング、水泳、ランニング、ジャンプ。それがいまでは、階段をあがるのが精いっぱいだ。
歳をとるにつれ、私はさらに落ち込み、不平不満をかこつようになった。
妻も友人たちも、私が人生論をぶち始めるたび、さぞかし嫌な思いをしただろうと思う。
私はこの広い世界で自分だけが苦しんでいるのだと思い込んでいた。これでもう9年間、この十字架を背負ってきたが、あの14段の階段をあがることができるうちは、この先も苦行が続くのだろうと。
私は新約聖書にある「コリント人への手紙」の中の慰めのことばなど無視することにした。
「一瞬のうちに、死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます」(第15章52節)
やがて1971年8月のある暗い夜に私の第三の人生が始まった。
その朝、家を出る時には、こんなに大きな変化が起きようとは夢にも思っていなかった。それどころか、その朝は階段を降りるのさえいつも以上につらいと感じたほどで、帰ってきてまた階段をあがるかと思うとぞっとした。
その夜、家に帰ろうとしたら雨が降ってきた。
強い風と横なぐりの雨が車をたたく。
私はふだんは通らない道をゆっくりと運転していった。
と、急にハンドルが手の中で踊って、車は急激に右にそれた(注、アメリカは右側通行)。
とたんに、タイヤがバーンとパンクした。車は横滑りしながらもなんとか道路の端で止まった。
とんでもない事態に茫然となって、私はただそのまま座っていた。パンクしたタイヤを替えることなど、できるわけがない。絶対に無理だ!
通りがかりの車が止まってくれるかもしれない。いや、そんなうまいことにはなるまい。誰がわざわざ止まってくれるものか。私だって止まらない。
と、その時、脇道をちょっと行ったところに家があるのを思い出した。
エンジンをかけ、ゆっくりと進み、舗装されていない道に出たところで曲がった。
助かった!
前方の明りのついた窓が迎えてくれているようで、私はその家の前まで車を乗り入れると、クラクションを鳴らした。
ドアが開いて、幼い少女が顔を出した。
私は窓を開け、大声で言った。
「パンクしちゃってねえ。タイヤを取り替えようにも、おじちゃんは足が悪いんだ。助けてもらえないかなあ。」
少女は家の中に引っ込むと、すぐにレインコートを着、帽子をかぶって出てきた。後ろに男が元気にあいさつを言いながらついてくる。
私は車の中で濡れることもなく楽に休みながら、嵐の中で懸命に働いている少女と男のことをちょっと気の毒に思った。
まあ、いいさ。二人にはお金を払おう。
やがて雨が少し弱まってきたので、窓を下まで開けて二人の様子を見た。作業はおそろしくもたついている。私はだんだん苛立ってきた。車の後ろから金属がカチンカチンとぶつかる音がし、少女の声がはっきりと聞こえてきた。
「はい、これ、ジャッキよ。おじいちゃん」
男が低く何やら答えるうちに、車体はジャッキで揚げられてゆっくりと傾き始めた。
それからも、また雑音と、揺れと、車の後部で小声のやりとりが長いことあって、やっとタイヤの交換が終わった。
ジャッキが外されて、車がドンと落ち、トランクのふたがバシンと閉まった。
二人が窓のところに立っていた。
男は年寄りだった。
腰は曲がり、痩身でいかにも頼りない。
少女は8歳から10歳といったところか、私を見る朗らかそうな顔はにっこりと笑っている。
年寄りは言った。
「こんな晩に故障しちゃ気の毒だったが、これでもう大丈夫だ」
「いやあ、ありがとう。助かった」と私は言った。「で、いくらお支払すればいいかね?」
彼は首を振った。
「いや、けっこうさ。シンシアがあんたは足が悪い、松葉づえの人だって言うもんでね。力になれてよかったよ。あんただって、同じことをしてくれたさ。お金なんていいよ、仲間じゃないか」
私は5ドル札を差し出した。
「いや、ぜひとも払わせてもらいたい」
だが、老人は手を動かそうともしなかった。
その時、少女が窓に近づいて、そっと言った。
「おじいちゃんは、目が見えないの」
続く数秒のうちに、私を襲った恥ずかしさと身の縮むような思いは、吐き気がするほど痛烈だった。
なんと、目の見えない老人と少女だったか!
二人は冷え切って濡れた指でナットや道具をまさぐっていたのだ。
とりわけ老人は暗闇の中で、――死の瞬間まで果てしなく続くだろう暗闇の中で。
二人はタイヤを替えてくれた。
雨と風の中で。
私は松葉づえを小脇に、車の中でぬくぬくと楽な思いをしていたのに、私が障害者だと?・・・ハッ、大笑いだ!
二人が「おやすみ」と言って家に戻った後も、いったいどのくらい座っていたろうか。
私は、自分の心の奥を見つめ、長い間深い反省に沈んでいた。
私は自己憐憫と身勝手に甘え、まわりの人々の願いや思いやりに対しても冷淡で無関心だったことに気がついた。
私は座ったまま、声に出して祈った。謙虚に祈った。
「もっと力をお与えください。
もっとまわりの人たちを理解できるようにしてください。
私自身の欠点に気づかせてください。
そして、それを克服するために助けをお与えください。
日々、祈り求める信仰をお与えください」
あの老人と孫娘のためにも祈った。
ようやく、私は運転してその場をあとにした。
心は洗われ、魂は謙虚になっていた。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは、なんでも、人にしなさい。」(マタイ伝)
あれから何か月もたったが、いまの私にとって、この言葉は単に聖書の一節というだけでなく、こうありたいと努力している生き方なのである。
もちろん実践するのは生易しいことではない。なかなか思い通りにならないし、ときには時間もお金もかかる。しかし、何事にも代えがたい価値がある。
いま私は毎日14段の階段を昇るだけでなく、少しでもまわりの人の力になれるよう心掛けている。
いつの日か、私も目の見えない人のためにタイヤを替えてあげよう。
かつての私のように目があいていても見えない人のために。
(引用ここまで)(愛を見つめる死を見つめる、こころのチキンスープ3より)
では、よい休日を。