今日は、三輪山を登拝してきました。
登拝に行くことを分かっているのか(誰だ…)、朝起きた瞬間肩と背中がバリバリ状態
お山で汗を出してくることができました。
最近お参り中など自分と向き合う時間には、
基準が自分中心で他人の立場に立って考えられない、自分の心の狭い嫌な面をとても感じさせられます。
すごく情けなくなりますが、気づかないよりは良いのでしょうか?
誠の会でさせていただいている「他人の幸せを願う」修行は本当に私に必要なものだとつくづく実感します。
そればかりでなく、沖縄の研修所もできたので、変われるチャンスもがたくさんあります。
ただ私は邪な気持ちが大きいのでこの記事のように 少しずつ、神様や精霊さんにお力をいただきながら少しずつ変わっていけたらいいなと思っています。
霊視を受け、見えない世界に触れる機会がなければ自分のことでいっぱいいっぱいで、時が経てば経つほど泥沼化していたことでしょう。。。
この世界に出会った後も、自分の先祖供養や罪障消滅で、日々ギリギリの状態でした。
修行をできる環境に来られなければ、これより醜くなっていく自分が容易に想像でき、最近は他人の嫌な面を見た時に、
「私もじきにこうなってしまう」という危機感と恐怖感が襲ってきます。
世間を憎むように生き、文句を言ってばかり…支えてくれる人にさえも食って掛かり争う自分を感じてしまいます。
そして自分の背負っているものの重みに耐えきれなくなった時、日宗先生が言うようにバタっと倒れてしまうのです。
岩戸館の女将さんにも言われましたが、私は本来はこのような場に出会えるはずはなかったのです。
運だけは良いんです。
いつもギリギリだけれど助かる綱渡りの人生自覚もあったので
「運だけで生きているその場しのぎの自分がみじめで嫌だな」
と思っていたのですが、
それも紛れもない私の一部です。
変な(ネガティブな)思い込みやとらわれは捨てて、
「私は運がいい!!」ということだけを思い込んでいったほうが良いとこの間霊視の時に教わりました。
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2年ほど前でしょうか、
定期検診のように月に一回の霊視に伺った時、見ず知らずの霊を連れて行ってしまったことがありました。
「最近○○(特徴)のような街に行きましたか?」
と尋ねられ、そちらからその霊はついて来られたようなのですが、
当時は職場と家の往復でいっぱいいっぱいでしたのでそんな場所には行った覚えがありませんでした。
しかし、「先月霊視した時にはこの霊は感じなかったので、この一か月間に行ったはず…」
ということなのです…。
うーん。。。
よーく考えると、母がパワースポットめぐりの際に行ったような感じです。
でもな~…それが私にってあるのかな?
と思いながらそう伝えると、
「それです」
ということでした。
その時教えてもらったのが、「霊は、自分と同じ波長の人に憑く」ということです。
つまり、取り憑かれるのには同じような気持ち(特に恨み・つらみ等ネガティブなもの)や、性格・行動をしている自分にも原因がある、ということです。
母もその霊と同じ波長を持っていたので、母についてきて、家に帰るとまた同じ波長を出す娘(私)がいた!!
もし、私が真っ直ぐな気持ちでハツラツと生活していたら、母が連れてきた霊は私には憑かなかったかも…
見えないおみやげは受け取らなかったかもしれないということ。
(その時はちょうど霊視の予約が入っていたので良かったですが^^。)
それは、生きている人間にも言えることで、この世で出会うのはほとんどが同じような要素のある方だそうです。
同じ要素を持っていれば居心地がいいので、ますます一緒にいる時間が増え仲良くなっていくことでしょう。
自分より良い物を持っている方とはなかなか居心地が悪く、離れることが多くなっていってしまいます。
実は、良い物を持っている方と付き合うのが自分を向上させる際には大切なのですが・・・
人間関係において、「どうしてこんなことをするのだろう」と思うことがあります。
最近もとても腹立たしいことがあり、器の小さい私はしばらくイラつきが止まらなかったのですが、そんな時、この話を思い出したのです。
そんな人と関わらなくて済むようになるためには、自分が良くなることが必要なんだった!
人間関係において嫌な目に遭った時、嫌だなと思った時、
「よくよく考えれば(その嫌な行動を起こすもとになった性格は)全く自分と関係ない要素だ」ということはないということです。
嫌だなと思ったことは反面教師に、“学ぶ機会”と感謝できるよう、
そして自分を磨くことをサボらず、
今よりもたくさんの良い縁の方と出会える自分を作っていきたいです。
運が強いので、私の周りには見本になる人もたくさんいるのです。