今朝、なかなか家から出られなかったことでラッキーなことがありました。
三輪山で久々に妙麗さんに出会うことができ、花粉症に良いお茶の話を教えていただきました。
そして!
私に時間がありそうなことに気づいてくださり
今、就職前の自由時間を使い東京から大光坊に修業に来ているAさんとご一緒に、天川方面のお参りに誘っていただいたのです。
なんという幸運でしょう…
さだまさしさんの詩にもあるようですが、天河大弁財天社は「行こう!」と思っても、そこにいらっしゃる神様に呼ばれていなければなかなか辿りつけないということがあるようなのです。
実際、私も2年ほど前に霊視でアドバイスを受けてから一度宗観先生にご案内いただいたのですが、それ以降は「行きたいな~」と思いつつも実現せず・・・ということが続いていました。
もちろん、先生方に依頼をしていれば実現できていたのですが。
それもしなかったので仕方ない部分もあります
天河さんへ向かう前に丹生川上神社下社へ向かいます。
川上神社は上社・中・下社があります。
宗観先生によると、奈良県には大神神社や春日大社など、皇室から遣いが来るような格式の高い神社(官弊大社)が13社あるそうです。丹生川上神社は上・中・下社ともにその13社の中に入っています。
細い道の先にありますし、よほどの神社通でなければなかなか知る機会がなさそうです。
先生方にご案内いただき色々勉強になります。
格式の高い神社だから、というだけではなく、とても良い場所で、お参りできたことをありがたく思います。
本日はさらに、到着した時に社務所から神職さんが出てみえて、
なんと!
拝殿へ上がらせていただくことができたのです。

良い風が吹いており、清められる気持ちでした。
その場で神職さんから色々なお話を聞きました。
とても知的なお話で私の文章では正しく書けそうにもありませんが、印象に残ったのは、この世で起こることをみんな「理論的」に考えすぎているということでした。
『生きている』ということ一つにしても、理論で考えるから、生に対局する『死』という言葉にすぐ直結してしまう。
『死』は命がなくなることではあるが、魂が消えるわけではない。
生きるということは『生かされている』ということなのだから、
続いていく魂の中で、神様は『生』と同時に『この世ですべきこと』も一緒に与えているはずで、
ありがたく役目を果たしていけば、死を考えるようなことは起きないのではないか・・・
私にはそのような意味に聞こえましたが、勘違いしていたらごめんなさい
こちらのご祭神は貴船さんや龍穴さんと同じ「たかおかみの神」さまなのですが、由緒には「くらおかみの神」さまとなっています。
クラオカミというのは、明治ごろに新しくできた呼び方らしく、タカオカミと「何が違うんだ」という論争が起きたようなのですが、それも結局は理論にこだわった末の争いでしかなく、クラオカミでもタカオカミでも同じ神様に変わりはないのです。
人間が勝手に作り出した、いらぬ問題ですね。
実はこの世の中にはそのような いらぬ○○が多いように感じました。
私のよく指摘される、「考えずに行動!」もそういうことだよな~…と思いました。
自分が実際その渦中にいるときには気づくことが難しいですが。
それに気づき、心豊かに生活するためにこうして修行していくんですね。
境内のお馬さんが見送ってくれました。
そうか、今年はちょうど午年だ。。。
そこから天河大弁財天社へ。
雪が残っていますが、手水舎の水は凍らず流れていました。
おぉ~…池は氷っている。
芸能の神様である弁天様にお祈りすると同時に、この辺りは南朝の土地だったということも踏まえてお参りさせていただきました。
最後に南北朝和解供養の石塔前で南朝・北朝両側の人々がみな幸せに生まれ変わりますようお参りしました。
先ほど川上神社さんでおさがりをいただいてきたお饅頭はちょうど人数分の5つ入りでした。
『神様からお力をいただいたと思って食べよう』と、さっそく帰りの車の中でありがたくいただきました。
大移動でお疲れのところ運転、ご案内してくださった宗観先生、声をかけて下さった妙麗さん、楽しい空間を作って下さった妙生さん、Aさんありがとうございました。
Aさん楽しい新生活となりますようお祈りしてます。