トマス・マコーリーが1835年2月2日付で、インド総督に提出した『インド教育覚書』は有名な文書です。 今回は、この文書について、成立した経緯やテキストについての、 基本的なことをまとめることにします。

 マコーリーを乗せて1834年2月にイギリスを出発した船は、大西洋から喜望峰 巡りでインドに 到達 しました。そこで、マコーリーは、新たで設けられたインド最高評議会の立法顧問としての職責を果たすために、 総督や 他の高官たちとの間で様々な問題について協議を重ねています。この時、マコーリーは、並行して、インド公共教育委員会の委員長にも就任しています。

 マコーリーが立法顧問として主な職責を負っていたのは、インドに適用できる法典を制定することでした。 そして、その法典が定着し、実効性を持つためには、現地人たちが法典に規定されている内容を理解できるだけの教養を持つことが必要であり、そのためには現地人に対して、東インド会社が教育を行うこと が必要であると認識されていたためでした。

 この当時、イギリス議会が東インド会社に与えていた特許状には、東インド会社がインドの人民に対して、「良い教育を行い、有益な知識の導入を齎し、さらに人民の道徳的な性質の改善を図るために」教育を実施するということが規定され ていました。そのために、必要な予算と 人員を配置する権限も東インド会社に与えられていたのでした。アメリカ独立戦争以後のヨーロッパ諸国では、人民を教育し国民とすることは、宗教ではなく国家の役割であると考えられていて、インドでは、東インド会社がインドの人たちに対してそのような権限を持つものと考えられていました。ただし、教育の 具体的な内容については特許状では、明確にされておらず、どのような教育を行うのかは、インド総督 の裁量に委ねられていました。そのことは、予算と 人員の配分を巡って、総督府内での意見対立を引き起こしていました。特に教育に用いる言語を巡って、英語の採用を推す英語派の人たちとサンスクリット語やアラビア語を推す東洋語派の人たちの間で鋭い対立が起こっていたため、総督の裁定で決定を下さなければならない状態になっていたのでした。マコーリーがインドに着任した当時のインド総督は、サティの廃止などを通じて、東インド会社による統治を改革し、インドにヨーロッパ的な近代国家を建設することを進めていたベンティンクでした。マコーリーに託されたのは、総督の意向に即した意見書を 作成し提出することがによって委員会の意見を集約することでした。

 この文書で、マコーリーは、現地教育の使用する権限が総督に 委ねられていることをまず明確にしています。ついで、 ヨーロッパの学問の成果をインドの現地の人たちに伝えるには、サンスクリット語やアラビア語で現地の人たちを教育することでは、不適切であることをマコーリーは、明確に 述べています。この一方で、英語は、ヨーロッパの学問の成果を 現地の人たちに伝えるのに適した言語であり、現地の人たちが容易に習得することが  できる言語であることを、マコーリーは強調しています。そのためには、アラビア語やサンスクリット語についての教育に用いられている人と予算を英語教育を行うことに専ら用いる必要があることを、マコーリーは力説して、意見書を 結んでいます。

 以上が マコーリーの『インド教育覚書』(TB Macaulay, minute on Indian Education)が作成された 経緯 と内容のあらましです。総督は、この文書を委員たちに回覧し、東洋語派の側にも意見書を提出させています。そして、総督が1835年3月7日に下した裁定では、今後は

インドでは英語教育を行うことにするが、サンスクリット語やアラビア語についての教育を受けていている人たちに対しては、現在の教育を継続することを認めるという決定がなされています。

 裁定がなされた後も、マコーリーは委員たちと の意見交換を続け、英語教育をインドに 定着させることが努めています。しかし、マコーリーが1838年にインドでの職務を果たし、イギリスに戻ると、マコーリーが 作った学校は、相次いで、閉鎖され、この文書は、 イギリス帝国の帝国主義の象徴するものとして記憶されることになります。

 なお、この文書が作成された当時、イギリスにはまだ公教育

にあたるものも、それを行うための学校も存在せず、植民地での現地人教育も植民地ごとに模索されている段階でした。

 さて、この文書に改訂を加えて出版することを、マコーリー自身が行うことはありませんでした。この文書のロンドンに送られた副本にインド庁長官 ボブハウスが書き込みを行ったものは、現在、大英 図書館東インドコレクション の中に保管されている。この文書を活字に直し、出版することは、1860年にウッドローが編集した『マコーリー卿 の教育覚書集』 にインドに残されていた  マコーリーの覚書の 一つとして 行われて以来、G.M.ヤングが 編集した 『マコーリー演説集』(1935年) を経て、しばしば繰り返されている。 

ここでは、ヤング編集の『マコーリー、散文と詩』(1952年)に収録されているテキストを利用しています。


 

  この文書が成立した背景についての研究です。


 

   この文書が書かれた事情を考える時に役立つと思えます。


 

   この文書の位置 付けを考える時に、役立ちます。


 

  この文書に関わる論争についての資料集 です。


 

  この本をテキストとして 使います。