『光る君へ』関連で、大河ドラマに出てきた女性たちのサロンの 主であった赤染衛門が作者であったという伝承がある『栄花物語』を、岩波古典文学大系のハードカバーの2巻本の1000ページ近くある テキストで読みました。主な 言葉の解釈や簡単な説明は、頭注で行われていて、史実との対照も補注で行われているので、 戦後二十年の時点でのテキストとしては、妥当な姿をしているように思えます。漢文で書かれた歴史とは別の和文で書かれた歴史物語の世界は、ここから始まるのだと思うと感慨ひとしおです。

 原文で漢語交じりの和文で40巻のテキストのうち、宇多天皇の即位から、藤原道長の 死後1年までを扱った前半の30巻では、大河ドラマにも出てきていて、道長や紫式部や清少納言たちよりも長生きであった赤染衛門の作品であったことが、確実であったと、鎌倉時代の頃から考えられています。巻31より後については、赤染衛門より後の人によって書き継がれたものの、誰によるのかは、今でも、特定できていない ようです。

 さて、藤原道長の時に王朝時代は ピークを迎えたという私たちが抱きが ちイメージの基礎になっているのは、 本書に由来しているようなのですが、本書に描かれているのは、権力闘争を勝ち抜いたものものの、あまりにも唐突に命を落とすことになる人たちの姿をもとに紡がれる 命の儚さであり、日本での信仰の姿が浄土の信仰に染められてゆく様であるようにも思えます 。また、権力闘争に敗れたたはずの、花山院たちが、意外なほどになのに 長生きであることには、驚かされます。そして、漢語を用いた文化が正当とされた中で、紫式部のように漢詩を創り鑑賞することも自在にすることができる人物が尊ばれた文化が和歌と口語を主体とする文化へと転換していくきっかけの一つにも『 栄花物語』はなっているように思えるの です。そして、漢文で書かれた六 国史の 続きとして、赤染衛門夫妻が書こうとしていた漢文で書かれた「正史」のための資料をもとにして、藤原道長の時代の現代史として書いたものをものが、伝えてられてきたものが『栄花物語』であると思えます。なお、この物語の作者としては、紫式部や清少納言より長く生きて藤原道長夫妻の時代の皇室や貴族たちが入手することができる情報を利用した歴史を書くことができる立場にいた人たちの中でも赤染衛門であるとすることが 適切であるように、私には思えます。赤染衛門らの、視点からは、宇多天皇の血を引く人たちが、天皇になろうとする中での権力闘争を繰り広げた末に、 浄土の信仰に囚われ、阿弥陀仏を祀る寺を建てることに熱中したことも、自然に思えます。藤原隆家が、 目の病の治療のために、太宰府に移った一方で、外敵の襲来や侍が台頭で、社会が揺れ動き、鎌倉殿の13人の時代に移ろうとしていたことは、本書の視野の外に置かれていることも、自然であるように思えます。内部事情に通じ、皇族や貴族たちが折りに 触れて詠んだ和歌を盛り込んだ歴史を和文で書いているという点で、『栄花物語』は、 特異であると思われてきたようです。 岩波古典文学大系本で、補注に引かれているのが、道長を始めとする貴族たちが漢文で書いた日記や『日本紀略』などの漢文で書かれた歴史であることは、本書の特色を象徴しているようです。『大鏡』に先行して本書が書かれ、源氏物語、枕草子、紫式部日記などが存在していることを前提として、現在伝えられているテキストが成立していることは、岩波古典文学大系などの 文学全集や、角川ライブラリーキなどの文庫本でテキストを手軽に入手することができる私たちには、当たり前となっているのですが、文化の積み重ねの歴史の

 重さを思い知らされるような気がします。

 関係する本をpickしておきます。


 

 


 

  このテキスト で読みました。


 

 

 『大鏡』との比較を考えるならこの本からと思えます。


 

 私は、この本から取り組み始めました。