豊橋 駅から名鉄に乗って、東岡崎駅で降ります。そして、駅から岡崎公園を目指して15分ほど歩きます。菅生川に架かる橋を渡って川沿いを進むと、岡崎城の復元天守が見えてきます。東海道線の岡崎駅からだと、歩くには遠く、バスを利用する必要があるのですが、岡崎が東海道の陸運だけでなく、水運も利用できたことで栄えた町であったことを実感するには、東岡崎から川沿いに城を目指して歩くことをお勧めします。現代の日本では、もっぱら物流を担っているのは、自動車や鉄道となっているのですが、江戸時代までは、舟も大きな役割を果たしていたのです。 岡崎城が二つの川の合流する場所にあるのも舟の利用を考慮したためのようです。
岡崎城は、西郷氏によって築かれ、16世紀前半には、西三河の一大勢力となった松平氏の拠点となりました。そして、1542年には、松平広 忠の息子竹千代として徳川家康が、この城で生まれました。竹千代の産湯に使う水を汲んだと伝わる 井戸が今も城跡に残されています。竹千代が織田氏の清洲、今川氏の駿府で人質として過ごした後、岡崎城に戻ってきたのは、桶狭間の戦いの後、1560年のことです。1570年に 、家康が浜松城に拠点を移すと、家康の息子信康の居城となりましたが、信康の自刃により、家康の持ち城に戻り、1590年には、家康の関東への移封により田中吉政の城になります。田中吉政により 岡崎城は拡張されたのですが、関ヶ原の合戦の功績で吉政は筑後柳川に移り、江戸時代に入ると、徳川家の重臣たちが城主となり、城は拡張と整備を繰り返すこと
になりました。明治 まで残っていた天守も17世紀初めに建てられたものです。
本丸には、1959 年に外観が復元された三重五階の天守などの櫓が建ち、北の 持仏堂 曲輪との間には廊下橋が架けられていました。二の丸には、城主の住まいである御殿が 建てられ、東の正面には、七間門が設けられていました。なお、この門があった位置には、現在、大手門という名前の櫓門が建てられ ていますが、復元されたものではありません。この他、二の丸の東の東曲輪には、二重の東櫓が建てられていますが、これも正確な姿がわからないため、模擬建築 ということになるようです。
本丸、二の丸などの城の中心だった部分は、現在、岡崎公園となっているのですが、二の丸跡には、大河ドラマ 館が作られ、本丸の天守などの展示 はリニューアルされています。また、かつての 広大だった城の随所で発掘調査が行われその成果は 公開されています。
岡崎には、徳川家康絡みの名所は この他にも多数ありますので、 訪ねることをお勧めします。
天守の幕末の姿を復元したものです。
岡崎城についての研究書。
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