1590年、豊臣秀吉は、天下統一のための大詰めの戦として小田原城の北条氏政氏直父子を攻略することにしました。 天皇の勅命を受けた秀吉は、徳川家康を含めた全国の大名たちに出兵を命じたの でした。その軍勢の集結点として選ばれたのが 北条氏の領国に隣接する駿河国の東端に位置する三枚橋城と長久保城でした。そのうち、徳川家康の三万の軍勢の集結点とされたのが長久保城でした。
 長久保城の跡へ行くには、御殿場線に乗り、10分もかからない長泉なめり駅の西口で降りて10分ほど歩きます。歩いて10分ほどのところにある城山交差点の周辺が城跡にあたります。狩野川の屈曲部を利用して愛鷹山麓の東の丘陵に築かれた平山城が長久保城でした。 長久保城は、愛鷹山の南を巡って、富士と御殿場を結んでいた根方街道上の要地に作られた城ということになります。要地であったことは、城山交差点の周りのショッピングセンターや駐車場、工場、学校、道路などが、軒並み城跡を利用して設けられていることが示していると思えます。ちなみに、ショッピングセンターとその駐車場は、本丸と二の丸の跡を敷地としていて、城跡の石碑は、空堀の跡に立てられているそうです。城山神社の正面の石段の険しさは、 この城が巨大な平山城であったことを偲ばせるものと思えます。三ノ丸の跡に残る土塁と空堀は、長久保城の面影を伝える数少ないものになります。鎌倉時代には築かれ戦国時代には、今川・北条・武田・徳川の抗争の舞台となっていたこの城については、沼館愛三氏の戦前の告以来、数々の研究が蓄積され、発掘調査も行われ、出土品は、資料館で展示公開されています。しかし、現地で偲ぶ ことができるものが少ないことを寂しく思います。
 ところで、三万の軍勢を率いてこの城に入った家康は、豊臣秀次の軍勢とともに東海道沿いの北条氏の拠点山中城を攻撃します。家康は、別動隊に駿河と相模の境にある足から城や箱根山中の鷹ノ巣城を攻略させることもさせています。なお、山中城攻めで戦没した秀吉の武将一柳直末の首塚が長久保城跡の南に今も残されています。
 なお、城山交差点から愛鷹山方面へ向かうと、クレマチスの丘に着けます。