経済成長 の傍らで、地球規模での環境破壊が進行していました。環境破壊そのものは、大加速の時代になって、突然始まったものではありません。人類が 様々な産業を行ったり、都市の建設を始めたときから始まったとも言えるかもしれません。それが人類の側で問題として捉えられるようになったのは、18世紀後半のヨーロッパやアメリカ、 そして日本でのことであるようです。都市 環境の悪化、大気汚染、水質汚濁が共産主義者や社会主義者によって労働者たちに健康被害をもたらす都市問題としてイギリスなどの議会で取り上げられて規制するための法律が制定されています。また、工業の原料やエネルギー源としての地下資源の採掘が地質や水質を損ない労働者に健康被害をもたらす問題として取り上げられるようになりました。足尾銅山の廃棄物が渡良瀬川の水質を著しく損ない田中正造や幸徳秋水によって問題とされたのは、その一端でしかありません。
しかし、地域ことの個別の問題と考えられていたに過ぎません。例えば、夏目漱石の足尾銅山の問題を扱った小説『坑夫』を地球規模の問題の一端を取り上げたものとして読み込むことは困難です。
しかし、20世紀後半、第加速の時代が始まり、各国がそれぞれの国民の幸福を実現するために経済成長を志向した政策を採用するようになると、環境破壊も地球規模に広がるようになりました。国土が第二次世界大戦によって破壊されたヨーロッパ諸国や日本では人口を支えるための食糧増産が急がれます。農地を広げるための耕作地の整理や埋め立て、干拓が頻繁に行われたり、収穫量を増やすための肥料や農薬の大量散布が行われたりします。植民地であった国々 では、国民の食糧自給を可能にするために、商品作物の単一栽培から自給のための作物の複数栽培が行われるようになります。食糧生産のために必要な水を農地に供給するためのダムや水路の建設も進められました。また、経済成長のためには必要な資源の採掘、住宅工場の建設、原材料と製品の輸送に必要な 鉄道、道路、港湾、空港の建設が積極的に行われるようになりました。
しかし、日本で四大公害を引き起こし、イギリスで1955年のロンドンスモッグによる大量の犠牲者を出し、 中国で大躍進と呼ばれる できごとが大量の飢死者を生み出すなど個別のできごとが積み重なるうちに、オゾン 層の破壊、地球温暖化、海水面の上昇など、一つの国では解決できない、地球規模での環境破壊が進行し、人類全体の生存が脅かされているのであって、人類全体での対応が必要であるとの認識が共有されるようになります。
そして、人新世が提案され、 SDGsが国連加盟国全体での合意を得 、それにローマ教皇庁なども協調する姿勢を示すようになっています。
次回は、どのようにして世界の国々で認識が共有されるようになっていったのかを扱うことにします。