危篤状態だった祖父が帰天したため、急遽帰省していました。







通夜、葬儀が終わりとんぼ返りで今空港へ向かっています。




御年103歳。

大正、昭和、平成、令和と生き抜いてきました。

戦争で徴兵され、25歳の時に原爆で被曝し、戦争が終わってからは三菱重工に勤めて戦後復興から高度経済成長へ貢献し、子どもたち6人を育て上げ、孫、曾孫の相手もして。

僕には到底想像もつかない苦しみや悲しみも経験してきたと思います。




最後は穏やかな顔をしていました。

触れると、当然なのですがすごく冷たい。

鼻が高くて鼻筋が通っていて、年齢の割には皺も少なくて、あれ?渋イケメンじいちゃん。

子どもの頃は手を引いていろいろな所に連れて行ってもらったなぁ

なぜか証券会社や銀行にも同行させられていました^^;




80歳を超えても毎日山を登って畑の手入れ、90歳を超えても自転車に乗り…

菓子パンが好きでよく僕にもくれましたが、大抵賞味期限が切れていました。

そういえば、ズボンのチャックもよく開いてた…




自転車で転倒して骨盤骨折、大腿骨頸部骨折。

長期入院で寝たきりになるかと思えば完全復活。

祖母が亡くなって一人暮らしで、憎まれ口が日常、人の手を借りるのも嫌がる人でしたが、周りの心配を受けてお願いされ、100歳の時になんとか老人ホームへ入所。

最初は嫌がっていましたが、それなりに楽しんで過ごしていたようです。




その後、コロナに罹患し入院したもののまた完全復活。

さらに、内服薬を誤嚥し呼吸停止したものの、自力で呼吸再開して再び完全復活。

102歳の時には局所麻酔で頭蓋内血腫除去術を2回も施行しています。そんな症例、今まで聞いたことがありません。

しかし、その後、体力が低下して徐々にレベルが落ちていったとのこと。




最後に会ったのが去年の夏。

コロナ禍で県外からの面会者は断られましたが、なんとかお願いして会わせてもらっていて良かった。

姿はまだ見えないのに、声が大きいのでどこにいるかすぐ分かりました。

心臓や腎臓の機能が低下して、ちょっと浮腫み気味の足をマッサージしていたのが昨日のことのようです。




これで、父方、母方の祖父母は全員いなくなってしまったけれど、これも自然の摂理。




きちんと送ってあげられるよう、最大の感謝を込めて通夜と葬儀の受付、葬儀の聖書朗読を担当させていただきました。

もう20年くらい教会に行ってないけれど、子どもの時に覚えたお祈りとか聖歌とか意外と覚えてるもんだなあ。




今まで本当にありがとう。

ばあちゃんが亡くなって20年

積もる話もあるやろうけん、一緒にお茶でも飲んでゆっくりしてください。




↑僕の所属している教会。葬儀もこちらで行いました。


↑子どもの頃に遊んでいた公園。昔は猿や鹿も飼育されていました。

砂場や大型遊具、お山の滑り台など、遊具が軒並み撤去されていて寂しいな。

夏になると50円のチリンチリンアイス売りのおばちゃんが来ていました。

奥に見えるのが母校の小学校です。


↑ジャパネットさんが建設中のサッカー場と宿泊施設。

Vファーレン長崎のJ1昇格を応援しています。


↑長崎駅周辺も開発中。

九州最大の博多駅に次いで、2番目に大きな駅になるようです。新幹線は武雄で切れているのに必要なのか?

昔々の三角屋根の駅舎も好きでした。

高架広場が無くなったのは寂しい…

県庁が移転して新庁舎になったり、その隣に県警本部が移転していたり。


↑見慣れた街並みを見ながらバスで空港へ移動中