以下は、62歳で退職した2014年の5月に、自転車で四国霊場88寺を走った時の記録を改めて編集し直したものです。自転車でお遍路をやってみたいと考えている人たちの参考になれば幸いです。

 

                          出港

 北九州に向かうオーシャンフェリー・カジュアル号。船の全長は166m、幅25m、総トン数11,200トン、定員148名の大型フェリーで東京港有明埠頭を出港して18時間後(2014年5月11日)午後1時時20分に徳島県の津田港に無事に接岸した。

 

(写真は有明埠頭の風景)

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 航路の伊豆半島沖、静岡、紀伊半島沖と海上は穏やかで揺れもなかった。晴天の津田港に接岸すると巨大な通路が船体中央部に取り付けられバイク、自転車、自家用車、貨物車の順番に岸壁に向かって吐き出されて行くのだった。その中で自転車にまたがって港に降り立ったのは私一人だけだった。

 

 東京から四国に着いて東西南北、右も左も見知らぬ光景ばかり。そんな中、到着してから再び港を出るまでの25日間に四国88寺を回った。

 

今からここに書き留めるのは自身の備忘録のため、次にもし私と同じようなバカなことをしようとする人がいるなら、その手助けになればと思い書き留めたもので四国遍路とか自転車に興味のある人だけが読めばよいと思う。

 

 ---4月から5月にかけて毎日、四国の山と坂を自転車で走り回り大汗を流し腹を空かせ、たどり着いた宿で頂いた食事は私のような自転車遍路にとって大切なエネルギー源であった。車でいえばガソリンそのものだった。今回、毎日の宿泊先と記憶に残った人との出会い、遍路で頂いた「食」を中心にこれらの日々を振り返ってみよう。

 

1日目 「金泉寺」近くの民宿『道しるべ』の宿泊と夕食

 

「初日でも、宿に来るまでにお寺を3か所は寄ってこられます」

と電話口で『道しるべ』宿のご主人が語っていたが、予測に反して徳島港に到着してからの私は1番「霊山寺」と「極楽寺」の2か所の寺しか回れなかった。

 

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 初めての地で方向感覚に疎く、参拝の作法に手間取ったことが時間のかかった理由だった。「般若心経」の読み方もしどろもどろ、蝋燭を上げ、次にお線香を添え、次に願札を入れ、と仁王門に入る時から作法に戸惑い周囲をキョロキョロしてばかりいた。これでいいんだろうか?ほかのお遍路さんはどうやっているのだろう?とまるで自信がないのだ。

-----というのもこの時点で、私は退職して時間が自由に使えるようになったばかりで、若いころに憧れていた自転車での日本一周をまだ体力のあるうちにやってみたい、と自転車を購入していた。一周は無理でもせめて北海道とか九州または四国でも回ってみたいと願っていた。

まだ体力のあるうち、手始めとして四国を廻ってみよう、というのが四国にやってきた第一の目的だった。四国を廻るなら目標になるから「ついで」に八十八霊場とやらも辿ってみよう、と考えていた。つまりお遍路は「もののついで」扱いだった。

 

2番「極楽寺」を出たのは夕方5時近くなっていた。次の寺の納経終了時刻に間に合いそうもないので3番「金泉寺」は翌朝に持ち越しになってしまった。

 

「金泉寺」を脇目にし通り過ぎたところで今日の宿泊する宿の位置が分からず右往左往、通りかかった民家の人に尋ねてやっとたどり着いたのは急坂を登り詰めたところにある民宿だった。白衣を着なければただのサイクリングなので、そのため一番「霊山寺」駐車場からは白衣を着て宿までやってきたが、この日以後港に再び戻るまで白衣のまま自転車を漕ぐことになった。

 

宿のすぐ前に並行して走っている道路は自動車専用道路で、この宿は登った坂道の行き止まりだった。本当に町のはずれに位置していて宿の看板がなければ一見して普通の二階建て民家であった。40歳前後のご主人はオートバイライダーなのだろう、訪れたライダーたちがオートバイと一緒の写真アルバムを何冊も棚に置いていた。イメージ 12

 ご主人のお母さんがお寺の関係者らしく般若心経の達筆な写経が壁に額入りで飾られていて、ご主人に遍路道の経験を尋ねると徳島のお遍路道だけは経験したが四国全体の遍路道はまだ経験していないという。地元の人でもお遍路の経験は人さまざまだ。

「藤井寺から焼山寺までの遍路道は、これこそ歩きで達成するとすごく感動しますよ」

と夕食時に何度も素晴らしを語ってくれたが、私のような自転車遍路には正規のお遍路道を行くのは無理だという。----自分なりに計画していた「焼山寺」への西側の舗装ルートを念のために相談すると「ムッ」と言った顔になり

「これはやめた方がいい、この道はとんでもない厳しい道です、車も道が狭くて難儀する道で」と東回りルートを勧めてくれた。

 

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 予定コースや計画に自信がなければ、何でも地元の人に聞くのが一番で以後民宿では同宿の先輩体験者や宿の主人に相談するようになった。経験、体験には紙上の計画では想像のできない現実が加味されていて大変参考になり、大いに助けられることになった。

 

 この民宿の夕食はボリューム十分だった。夕食は次の日のガソリンに相当し、歩きや自転車遍路の人には重要なエネルギー源だ。旅館やホテルを拠点にするバスのツアー遍路と民宿の違う点は見た目の美しさより食の質と量だった。

 

 隣の部屋にはカーフェリーで一緒だった歩き遍路が夕闇を過ぎて倒れるようにたどり着いたが初日から疲労困憊、ヨタヨタし部屋に入ると以来一歩も部屋から出てこなかった。20歳代後半の彼とはカーフェリーの中で一緒だったが遍路に対する憧れ「お遍路している自分」に恋し四国にやってきたような男で求道心とか宗教的思索を感じられないまなざしだった。

 しかし、歩き遍路の大荷物を背負いながら、肝心の体力が全くついていない様子で2番目の「極楽寺」ですれ違った時には暑さにやられベンチで職員に介抱されていた。彼は宿に車で運ばれてきたが何が大事といって遍路に必要なのは体力で、ロマンだけでは歩けない。その後彼とは遍路中に一度も会わずに終わった。

 

2日目、切幡寺近くの民宿「八幡旅館」夕食

 次の日は3番「金泉寺」から10番「切幡寺」まで狭い範囲に札所が集中している地域で、一日で多くのお寺を打つことができた。しかし、多くの寺を回るのも考え物で一つ一つの寺の個性が記憶の中であやふやになる日でもあった。

 夕方に小雨が降りだした。この日到着した宿はうどん屋が本業で、ついでにお遍路さんのための宿も経営しているといった感じの店だった。夕食の食堂でご主人が持っている遍路の案内本を見せてもらい、明日の「焼山寺」へのコースを教えてもらっていると、ロードマップしか持っていない私を不憫に感じたのか「これ、あげますわ」とその本をくれた。これもご接待なのだろう。ありがたく頂きその後の参考にさせてもらった。

(写真の方がご主人。前日に泊まった民宿の旦那からこの辺で泊まるならここがお奨めですと教えてもらった宿だった。)

 

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 「八幡旅館」と「旅館」の名がついているだけに料理も旅館風にきれいだった。遍路客以外の泊まり客も多いのだろう、ほぼ満室のようだった。

それにしても遍路用の地図が必要だとはこの時まで迂闊なことに予想していなかったのだった。ロードマップだけを頼りに遍路寺に行こうとしていたのだ。頂いたお遍路さん用の専用地図には事細かく寺ごとの距離、近辺の宿、食べ物にありつける店が書いてあり、歩きや自転車ではこの遍路地図に勝るものはないと気づくようになった。車ならアクセルを踏むだけで坂道など気にしなくて済むが歩きや自転車はそうはいかない。

     

     3日目、焼山寺「神山温泉」脇の民宿『明日香』夕食

 「八幡旅館」を朝早目に出発して吉野川を渡り、自転車を漕ぐこと1時間程で11番「藤井寺」に到着した。

 ここでは、境内奥の左側に次の12番「焼山寺」への昔からの歩き遍路道がひっそりとつながっている。意識してみないとこの道には気が付かないかもしれない。藤井寺の参拝を済ませ、その遍路道を30分ほど試しに歩いてみた。鬱蒼とした山道の始まりで88のお寺の仏像がその暗い山道にずーっと間をおいて並んでいる。パック遍路の人たちはこの遍路道に気が付かないのだろうか脇目も振らず待っている駐車場のバスに向かう。古くから続いている遍路道には興味も関心もないのだろうか。

 

「藤井寺」を出ると伊予街道を東に向かい県道20号線を目指した。県道20号線はいったん峠を越え童学寺トンネルをくぐり、後は山から流れてくる清流の作る川に沿っている舗装道路を走る。小さな集落が時々思い出したように点在する寂びれた通りで、山を迂回しながら少しづつ高度を増し「焼山寺」に向かうのだ。地元の誰が作るのか、手作りの人形の集団がたまに通過する遍路人たちの心を紛らわせていた。

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 昼過ぎにこの日の宿泊先、民宿「明日香」に到着。

この日は前日と前々日のアドバイスに従い東の遠回りのコースを通って神山温泉にひとまず到着した。快晴の日差しの日で何か所か坂道とトンネルがあったが自転車を降りて押して歩くような急坂はほとんどなかった。午後になって神山温泉、つまり「焼山寺」の麓の温泉町まで来られた。宿に着き自転車から荷物だけおろして身軽になり「焼山寺」に向かおうとすると、女主人が

「あっ、言い忘れたけど」と私の背中に声をかけた。

「今までうちに泊まった人で『焼山寺』にここから自転車で行って戻って、早い人で4時間かかってます。5,6時間かかった人も7時間かかった人もいます。おたく---夕食までに帰れるといいけどね」

と私を値踏みするように言った。宿を出たのはまだ暑い日差しの午後2時だった。早い人で4時間か、どんな険しい道なのか想像もつかない。

 

 この「焼山寺」は標高700mの山の上にあり四国遍路中で最大の難所と言われ、遍路人を蹴落とす別名「遍路ころがし」として筆頭に挙げられる。

 自転車で10Km近く走り「焼山寺」のふもとに近付く。人家がまばらになり、川に架かる橋を越えると徐々に勾配がきつくなった。ひときわ広い駐車場があり連絡バスの最終地点になっている。そこを境に道路が狭い山道になり道は一段と勾配を増し自転車に乗って漕ぐのはほとんど不可能になる。自転車を押して歩くしかない。

 自転車を放り出した方がどんなに楽か。これでは手ぶらの歩きのほうがずっと楽だ。しかし山道に自転車を置くと道幅はただでさえ狭いので他の車の妨げになる。どれだけこの坂が続くのか見当がつかなかった。ひたすら押す、歩く。押す、押す、歩く。押す、押す、押す、歩く。上に行くほど車同士がすれ違うのも困難な狭い舗装道路になりその脇を車が唸りを上げて通過する。時折脇を通る車の車窓からの人の視線に気づく。

「この坂、自転車で登っていく人がいる!」

とでも言っているのだろう、白い歯を見せる人、励ますように手を振る人もいる。

 じっと地面を見て自転車をひたすら押す。汗が噴出し、目に流れ込んでくる自身の汗が痛くてかなわない。塩が目に入る痛みそのものだ。あとどれだけ続くのか、いつ平地に戻るのか。でも、終わりのない坂はないはず。---30分も押し続けた頃、狭い「けもの道」が舗装道路と交差している場所にきた。舗装を横切る道が昔から伝わる寺への「遍路道」だった。元をたどれば朝の「藤井寺」の遍路道に続くようだ。歩き遍路用に「あと2Km」の札も建てられている。

 

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ここで傾斜した道からずり落ちないように自転車をガードレールにベルトで縛り付け、歩いて、遍路道を登ることにした。途中、私の足音に驚いたのか路肩から急に黒い蛇が数歩先に現われ、目の前を上へ上へと逃げていく。青大将でもない、マムシでもない、ヤマカガシとも違う黒い蛇がまるでお寺に案内するように前を這って進む。

 こんな黒い蛇は見たことがない。(後日調べると「高千穂蛇」と言う四国に生息する蛇で、黒い色と形からその蛇だったと思われる)

 

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 蛇は数メートル先導し道案内すると藪の中に消えて行った。

寺に着くとマイカーで登ってきた人たちが息も切らさず参道を歩いており、その元気さが自分には別の人種に思えた。参拝を終えると帰りは自転車のブレーキをかけ通しで坂を下りた。ブレーキのゴムがこの調子では旅の終わりまでに擦り切れてしまう予感がしていた。

 宿には夕方の6時前に戻ることが出来た。夜の7時を過ぎるかと思っていたが明るいうちに戻れたのだが両脚は筋肉痛に疲労し切っていた。

「あらっ、4時間かかってない! へぇー早かったねー!」

女将さんはしきりに「4時間かかっていない」を繰り返し、この宿に泊まった自転車遍路の新記録だと驚いていた。途中で交わった歩き遍路道で、自転車から徒歩に切り替えたのが時間短縮につながったのだろう。

 

四国遍路では「1に焼山寺、2に鶴林寺、3に太龍寺」

の順で険しいとされている。特に最初の「焼山寺」は「ここで辞めるか、続けるか」と遍路人の気力と体力を試す関所だといわれる。---が、私に言わせれば大変だぞ、すごい山道だ、と言われると自然に身構えるものだ。覚悟していた、だから耐えられたと言える。幸運にも乗り切れたが、これが何の予備知識もなかったら前半の坂道でギブアップしていたかもしれない。

 

部屋に戻り着替えを持つと民宿から貰った温泉入湯券で「神山温泉」に向かった。歩いて1分の近さにスパリゾート施設神山温泉があった。

ゆっくりお湯に浸かり筋肉の疲れをほぐした。お湯は熱めで、浴場全体が湯煙に霞むほどだった。

 民宿に戻り夕食のテーブルに着くと「今日の癒しに」とまずはビールを1本。「明日の活力に」と日本酒の熱燗を一本呑むのがこの数日の習慣になった。体を酷使した日ほどビールは体の細胞に染み渡るようだった。

この日、別に3組の旅のグループが宿泊していたが遍路は私一人だった。

 

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         4日目、「鶴林寺」近くの民宿『金子屋』 夕食

 ここ「金子屋」の民宿のご主人に夕食時に「鶴林寺」への自転車での道を尋ねると

「競輪選手だってあの坂道は絶対登れへん、無理や」

と、自転車で登ろうとする無謀さをしきりに強調された。

「そら、オリンピック選手だって絶対無理や」

そのくせ、その代わりこうしたほうがいいですよというアドバイスは一切くれない。否定するだけで代案が返ってこない。----どこかの国の野党のようだ。

自転車を捨てるわけにもいかず途方に暮れた。「無理や」の一点張りなのだ。

「鶴林寺」に行くには----考えた末に残った自分なりの答えは「競輪選手」の真似だった。出来る出来ないはやってみなければわからない。いや、それしか道はないのだ。

 

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(写真、白い建物が江戸時代から続く老舗の民宿「金子屋」。後ろに見える山の頂きに「鶴林寺」)

 

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                             (晩の夕食)

 

翌朝、意を決して「競輪選手」は自転車にまたがった。「ほかに道はない」がたどりついた結論だった。遍路を辞めないならこの道を進むしかない。

民宿から走り出して3分も経つと、ご主人の言ったとおりに坂が始まり、すぐに限界に達する。走るのは無理となり、つまりは押して歩くしかない。ご主人の言うとおりだ。歩きの方がどんなに楽だろう。

「歩き遍路になろうか」

と、この時真剣に思った。あまりに四国は坂が多すぎるのだ。しかし歩き遍路になると自転車も荷物も置き去りにするしかない。---ブレーキをかけないとずり落ちてしまう勾配を2Km近く荷車を押すように自転車を押し続けた。

 道路工事中の警備員が片側通行の工事箇所で私を見ると「自転車、一台通過します」と無線で連絡していたが、工事区間がほんの100mなのにその100mがなかなか到着できない。対向車線で待っている車の人も窓から顔を出して「へーっ、こんな坂を登る奴がおるのか」と言う顔で眺めている。

思い通り進まないもどかしさが自分の中に溜まってくる。民宿を出て10分も経たぬうちに額から汗がしたたり落ちるが両手でハンドルを押しているため拭うこともできない。歩道に汗がポタリポタリと吸い込まれていく。

「競輪選手だって無理や」

の言葉が思い起こされる。自転車に乗り漕いで登るのは確かに無理。今私は自転車ではなく二輪の荷車を押している状態だ。

 

 お遍路に自転車が少ない理由がこのあたりで分かってきた。直線や平地が続く道なら自転車もスピードが出て一日の走行距離も伸ばすことができるだろう。そして楽だ。

しかし坂道が毎日のように続き、登れる勾配の坂道ならいいが、降りて押す急坂となるとその時点で自転車は厄介者となり邪魔者と化す。

 関東平野と同じイメージで四国の地図を眺めていたために生まれた大きな誤算だった。関東と四国は違う。自転車遍路が極端に少ないのはこのためか、と改めて考えるのだった。

 

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       (「鶴林寺」の名の通り「鶴」が仁王像に代わり寺を守っている)

 

「上り坂は、いつかは終わる。」

「登るだけの坂はない。」

「地獄があれば、必ず極楽がある。」

「辛ければつらいほど、その後に大きな楽が待っている」

「坂道ではあまり先を見るな。あんなに続くのかと絶望するだけだ。」

「じっと足元を見て淡々と耐えていけ。必ず苦しみの終わる時が来る。」

「辛い時はあごを引いて行くことだ」

「登れない坂は作らない。登れる坂道しかない」

 

自分に言い聞かせる言葉が汗と共に次々と浮かんでくる。坂に苦しんで得る教訓、いや、四国の至る所で毎日味わう教訓だった。

 

「鶴林寺」への舗装道路は「焼山寺」の道と同じで、舗装道路にお遍路山道が交差していた。路肩に自転車を置くとここから歩き遍路になった。

坂道では歩きのほうがはるかに楽だと思ったが、歩き遍路は歩き遍路で自転車は下りでどんなに楽か、と思うことだろう。

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楽と苦、苦と楽、お互いがその楽な部分だけ見てうらやましがる。辛い部分は見ようとしない。

 

 中腹に展望の開けている場所があり、眺めると眼下に川が流れていた。しばらくして到着した「鶴林寺」は標高500mに位置し周囲は朝靄に霞んでいた。

 

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「鶴林寺」を終え山道を下った先に次の21番「太龍寺」がある。自転車まで戻ると次の寺を目指して坂を下った。ブレーキを掛けないとコーナーに激突するスピードだ。

 この下りの颯爽とした気持ちよさ、官能を刺激する爽快感は何十年ぶりだろう。おそらくこの遍路旅に自転車で出なければ一生味わうことなく終わっていただろうと思った。あまりのスピード感、爽快感に「ヒャッホー」と子供のような雄たけびが出た。

  

山から下りた丁字路をいったん「太龍寺」方面と反対の左に曲がった。山腹から眺めた時に見た川に架かっている橋に戻り、川を渡るつもりだ。遍路地図にはそこが正規のルートだと記されているからだ。ただ問題は歩きでは進めても自転車では無理かもしれない点だが現実がどうなのかさっぱり見当がつかない。

 21番「太龍寺」へ歩き遍路道を行こうとするが道の入り口には「関係者以外通行禁止」の看板がある。途中で道が狭くなり何度か転落事故が発生したらしく注意を呼びかける看板だ。

遍路道の入り口に一軒の家があったので玄関を訪ねた。道の様子を尋ねたかったのだが出てきた七十歳過ぎのおじいさんは

「道は舗装されていないし自転車では---」と首をひねり判断に口を濁した。大丈夫だとは断言できないようだ。

 途中で引き返すロスを考え、この道を断念しもう一つの道を選ぶことにした。ロープウェーである。ロープウェーに自転車も積めるのは事前に調べていた。

川沿いを1時間近く走り抜けロープウェー乗り場から21番「太龍寺」へ。ゴンドラにはバスのパックツアーお遍路客が満載でどなたも疲れとは無縁だった。自転車を前に積んで座っていると、もの珍しさから苦労話を聞きたがって皆さんが何かと話しかけてくる。

 

「自転車漕いでいると、夕方になると疲れるんです。それでついガソリンスタンドに寄って大きな口を開けるんですよ。『俺にも5リッター入れ』ってね。」  

パック旅行お遍路さんたちは大きな口をあけてどっと笑った。これくらいのジョークはまだ言う余裕があった。

 

 二日間で焼山寺、鶴林寺、太龍寺3つの難所をクリアーしたことになった。しかし「太龍寺」は自力で来たのではない、ロープウェーの力でここに来たのじゃないかと「太龍寺」を後にしてから自責の念が浮かんだ。自転車で太龍寺は無理だ、とあきらめていた自分を、もう一人の自分が責める。何故お前は挑戦しなかったのか、と。

 

 納経所で参拝確認の筆と印を記した納経帳を返却してもらったが、同時に渡される御印(みしるし)と呼ばれる紅白の2枚のお札が後で宿に入って調べるとこの寺だけが欠けていた。確かに貰ったはずだがどこで失くしたのか?手荷物を探しても見つからない。なぜここだけ無いのだろう?

あっ、ロープウェーを利用して自分の力で行かなかったから無くなったのか、と思った。    

 

 21番「太龍寺」から自転車で下るころ雨が降り始めた。

「太龍寺」は歩きかロープウェーで参拝するのを前提にした寺と言ってよい。

一本だけある舗装道路は対向車がすれ違えない狭さで、寺の関係者以外、車は通行が制限されているようだ。

 ロープウェーで運んできた自転車にまたがりその狭い道を下り始めると道は恐怖を覚えるような路面だった。道路自体が車を拒否するような荒れかただ。ひびが割れ、凸凹だらけだ。下りなので常にブレーキをかけていないと路面の段差、ヒビでバウンドしガードレールも何もない道端から落ちてしまう恐れがあり、全くすれ違いも出来ない。登ってくる車も全く無くて廃道のような道であった。

 

次をクリックするとユーチューブ動画に。

 

 

しばらく下りが続きやっと出た舗装丁字路で左折するとしばらくして22番「平等寺」に向かう。ここにもマイクロバスが2台停まっていて参拝ツアーの人たちは傘の心配から杖まで添乗員に面倒を見てもらっている。一人になったらこの人たちは次はどこへ行くのかさえ分からないだろう。

この寺を参拝後、一路海を目指す事になった。今日中に23番「薬王寺」の近くまで進まねばならない。そこ迄行けば、あとは80Km何処にも寄らず海岸線を室戸岬目指して進むだけだ。海岸線沿いの道は平地に違いない。

 

 幾つかトンネルをくぐり、丘を越え海岸が見えるころになって松林の中に猿の集団を見た。野生の猿であっという間に林の中に紛れたがこんなところに猿がいるのかと驚いたものだ。民宿まで海岸線の道はアップダウンがきつく、人通りの無い暗くさびしい道が延々と続いた。路面には枯葉が至る所に積もっている。後でほかの歩きお遍路に聞くと、この道沿いの藪の中でイノシシの「ブーブー」という鳴き声も聞こえたという。

          

   5日目  日和佐 民宿「弘陽荘」 夕食  

 

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 その晩、風呂に入ると先客が湯船につかっていた。

人を避けるような感じの男でこちらも話しかけることはなかった。汗で汚れた体を石鹸で洗い、シャワーを浴びて湯船に入ると、交代するように男は湯船から立ち上がった。その男の背中には龍の絵があり背中からお尻、二の腕まで全身刺青であった。「ヤクザもんか」道理でとっつきにくい訳だ。---翌朝、朝食の時間になるとその男とテーブルが隣り合わせになった。食事前、その男は両手をがっしりと顔の前に合わせ何やら祈りの言葉を呟いている。掌(てのひら)を合わせる祈りではなくがっしりと指を組んでるのが珍しく、その祈りの捧げかたに妙に感心した。そして食後も同じ祈りをささげている。

「ヤクザなのにたいしたもんだ---」食事が済み、朝の8時を過ぎると宿泊者は皆出発した。

 

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自転車に荷物を括り付け近くの「薬王寺」に参り参拝を済ませると、次の寺は80Km先の室戸岬にある。その間、訪れるべき霊場はない。

 

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 しばらく自転車を漕いでいると緩やかな坂の向こうに歩道を歩いているお遍路さんの背中が見える。突然脇を音もなく通り過ぎると歩いている人を驚かすので、「チリーン」と自転車の鐘を鳴らし、後ろから空間をあけてもらったお礼に「どうも」と声かけ通り過ぎる。「どうぞ」と応える男の声がする。その時、男の横顔をチラッと見た。---あの入れ墨の男だった。

「あの男、お遍路だったのか---」

前科ある工事作業員がここを宿にして現場作業に従事しているのかと思っていたのだ。

何を祈っての遍路だろう、何かを償っての遍路だろうか、いろいろな人がいろいろな思いで歩いている。遍路ってそれぞれの思いが歩いているのだな。空の青さがまばゆかった。

                                     

「薬王寺」から室戸岬までの80Km は途中に札所はなくどこも寄らずひたすら海岸線を走らねばならない道だ。自転車なら上手くすればその日のうちに室戸岬「最御崎寺」に間に合う距離である。電話で東京に住む従弟に宿の手配を頼み、この日はひたすら走ることに専念した。前日に泊まった民宿「弘陽荘」も5件目の電話でやっと予約がとれ、宿探しに時間がとられ旅がその間は停まってしまうのだ。

 その日の宿を探すだけで20分や30分が経ってしまい一日の予定は大きく変わってしまう。その点、従弟は時間に余裕がありパソコンでの検索にも堪能なのだ。頼るべき時には頼ろう、と宿の検索と予約を頼んだ。

 

「旅」と「旅行」の違いをこの頃再び考えた。

道程も宿も決まっていて天候に関係なく予定をこなせる車やバス、電車での移動は「旅行」である。一方でその日の天気、体調を考慮し今日はどこまで辿り着けるか、その日になってみないとわからない歩きや自転車の遍路は「旅」である。

 毎日昼近くの時刻にならないと、その日どこまでたどり着けそうか走ってみないとわからなかったのだ。宿泊地をどこにするか決断が遅くなれば手ごろな宿は他の客、お遍路さんで埋まってしまう。添乗員がいるツアーと違い一人遍路旅は肉体を動かしながら今日一日のことに神経を使った。

 

 汗を垂らし走っていると早くも10時には腹が空き、通りかかったコンビニの店内でうどん屋が片隅で開いているのを見かけ店に入った。コンビニのローソンなのだが四国らしい店舗経営だ。

 更に1時間も経つ頃、この辺では有名な海鮮料理屋の看板が建っていたので立ち寄ることにした。二度と来ることもないだろうし素通りすると心残りになる気がしていた。看板に吸い寄せられるように海辺の集落に入ると丁度店頭に暖簾を出しているところで海鮮丼を頼む事にした。なるほどロードマップに載っている有名な店だけあって新鮮な刺身類がぎゅうぎゅう詰めに敷き詰められいる。さっきうどんを食べたばかりだったが身体を使う旅は腹の消化も良いので、この海鮮丼も平らげてしまった。

 

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自分の食欲と消化の良さに今更ながら驚く。普段の生活ならこんなに食べないが、身体を酷使する生活をしていると肉体も別人のように生まれ変わるものだ。健康になりたいなら、自転車で半日だけでも走ることだ。

 

 室戸岬まで海岸線が延々と続き、青い海と青い空が寄り添って続いた。

弘法大師はその修行の時、室戸岬に来て「空海」と自分を名付けたという。その室戸岬に向かっている。この空と海の青さに何を感じ何を思っただろう。

時々小さな集落が思い出したように点在するだけで、もし自動販売機がなければ歩き遍路をたちまち脱水症状に追い込むことになる何もない街道だ。

食事のできる店も見かけない。コンビニさえこの80Kmの間に幾つ見られるだろうか。どこでも見えるのは空と海の青さばかりで、暗い日本海のそれと違って一オクターブ抜けた輝きだ。

(次で視聴可能)

 

 

 

この海岸線で、手押し車を押し行く老夫婦の遍路に会った。それぞれ乳母車のような台車に荷物を満載し四国の遍路を生活の場にしている夫婦だった。

毎日歩き通しで、それ故に年に二回四国を回っているのだという。衣類、食事道具、寝具、テントまで一切を持って移動していて住んでいた大阪の家には何年も戻っていないという。生活をどうして支えているのか気になって尋ねると、ひと月に年金で得る金額で米を買い、15000円もあれば生活はできるという。四国の道が生活の場で家賃も電気代も出るものはほかにない、と。

「この車押していると、坂道の下りが怖くってねー。下り坂になるとグーッと引っ張られてしまうんよ。ブレーキが無いもんで人が支えてないと---岩屋寺ンとこの坂なんか何キロも続くし、自転車も気ぃつけてな」

と真っ黒い顔に白い歯を浮かべた。夫婦で世を捨てた人たちなのか、とふと思った。しかしあれが世捨て人ならこのお遍路に出ている人たちは自分も含めて世捨て人なのかと自問した。

 

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 老夫婦は手押し車に家財道具を満載し、人に頼らない歩きの生活。お寺で見かける弘法大師像もズタ袋を肩に下げ、手には茶碗と杖一本の姿で実に身軽だ。空海は行く先々で手に持ったお椀に一杯の食を乞い、寝所を乞い、その姿は乞食と変わりがない。---あの老夫婦は弘法大師と何が違うのか、と思った。

 

(ユーチューブにその時の画像を掲載)

 

 

 

 室戸岬には午後の4時を回って到着した。うまくすれば24番「最御崎寺」の納経に間に合うかもしれないと心は躍った。山へ向かう遍路道を脚で登るか、それとも自転車で「自動車道」の坂を登るか道は二つしかない。私は歩いての登山に賭けた。

「最御崎寺」は標高165mの山頂にあり山道入り口に自転車を置くとズタ袋と納経帳を抱いて山を登り始めた。80Km自転車を漕いで来て最後に165mの山を登る日である。この日何度目かの汗を身体から絞り出すことになった。山の中腹に休憩所があったが展望を楽しむ時間も惜しい。

 

(左下が登山道の入り口。山頂に寺はある)

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 夕方5時まであと10分と言うところで納経所にたどり着くと参拝者はまばらで納経所は窓を閉める準備をしていた。やっとの思いですべてを済ませると私を待っていたように納経所も閉まり、人影もほとんどなくなってしまった。

やがて登ってきた山道を折り返し半過ぎを下ったころ、はっ、と忘れ物に気づいた。手に納経帳は持っているがヘルメット、バックを納経所の前に置いてきたのだ。下ってきた距離は半ば近くになり再び登る元気も気力も失っていた。

寺に電話をしたが事務所から帰ってしまったのだろう通じなかった。私の脚はもう限界だった。痙攣が起きそうになっていた。宿に入ってからお寺とやっと連絡が取れ、もし置き忘れた忘れ物が見つかれば保管してもらうように頼んだ。電話を切った後、明日もまたあそこまで山登りかと思うと目が回る思いだった。

 この日、従弟に手配してもらった宿は「最御崎寺」の遍路道、登山口からは200mほどしか離れていない海岸にあった。「岬観光ホテル」という戦前からの老舗旅館だというメッセージがスマホには入っていた。二部屋続きの広い和室に案内され久しぶりにのんびりした雰囲気になった。

 

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食事は旅館らしい煮物、刺身、てんぷらや酢の物で部屋での食事となった。 

      

  6日目  室戸岬 岬観光ホテルの夕食。

 

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食事が済む頃を見はからって布団を敷きに部屋に女の人が来てくれる。---民宿と旅館はここが違う点だ。

 

若いギャルが入って来て歳は30歳代、色気たっぷりの笑顔で

「---失礼しまァーす。フフフ」と部屋に入ってくる。甘い香りが途端に部屋中に広がり

「あちらに布団を敷く前に、お酌しましょうか?」と隣に座ってビール瓶を傾けてくれるサービス満点の女だ。座った白い太ももがあらわに見えてしまう。やがて布団も敷き終わったので

「お姉さんも一杯やる?」とコップを差し出すと

「えっ?いいんですかぁ?」と甘ったるい声で白い歯を見せ「乾杯ーぃ」とほほ笑む。よく見るとかなりの美形でボインちゃんである。

「私ィ、これでもう仕事は上がりなんですけどォ、なんか家に帰るのも面倒くさくなっちゃったァ。飲んじゃってていいのかしら」目がお茶目にものを言っている。

「飲むだけじゃなく、一緒の布団で寝てもいいよ。ハッハッハ」

冗談のつもりで言ったがその晩、その娘と朝方まで同じ布団で過ごすことになった。いやはや疲れたのなんの。

 

-----となるのか、と思ったら腰の曲がったおばあさんが「よっこらショ」と入ってきて、押入れから布団を出して敷いて行った。

途端に色気より眠気が襲う。ビールと酒でほろ酔いになり最後の山登りが効いたのか早くに寝入ってしまった。民宿よりは割高の一泊二食付で8300円(飲酒代別)だったが久しぶりで民宿にはないくつろぎを得られた。手配してもらってありがとうね、従弟の輝よ!

 

 (ここで問題です。「最御崎寺」はなんと読むでしょう?読めたら偉い、と言うより読めるはずがない。ヒントは四国遍路88の寺の内の24番札所、室戸岬灯台のすぐ脇にあるお寺。読めた方には「偉い」と言うだけ。知識欲のある人だけ調べて下さい。ちなみに82番「根香寺」も読めないお寺の筆頭。---お遍路は漢字の勉強の旅でもある。)

            回答・「ほつみさきじ」と「ねころじ」

 

       7日目  香南市 サイクリングセンター

 翌朝、昨日の忘れ物を取りに再び165mの山に登った。自転車は旅館に預けていた。筋肉の柔軟性の回復していない朝からいきなりの登山で寺に着いたときは汗が早くも全身に噴出していた。幸いにもヘルメットとビニールのバッグは納経所の前に置いたままだった。登ったついでにと室戸岬灯台に立ち寄る。寺から数分のところに灯台はあり室戸岬からの展望は空と海だけだ。

 

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海辺沿いに続く「津照寺」は岬からは6Kmほどしか離れていない。門前に着くと一瞬、参道に違和感を覚える。海がまじかだから竜宮城のイメージで作ったのかと思う入り口で参拝者を迎えている。乙姫様は残念ながら見掛けなかった。

 

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 室戸岬に来て初めて土産物を求めて道の駅に立ち寄った。「きらメッセ室戸」という地場の土産物店で鯨やカツオの加工品を並べている。世話になった従弟にここで土産を送ることにした。

 26番「金剛長寺」へは坂道の始まる麓に自転車を置いて20分ほど歩き遍路道をたどった。「マムシに注意」の札が枝に垂れている遍路道だった。息を切らせ上り詰めると、ここでも寺のすぐわきにある駐車場まで一気にマイクロバスの人たちは坂道を登り汗ひとつかかずに済む。歩き遍路と自転車遍路は消費するエネルギーがパックツアーの人たちとは数倍違ってくる。毎日、10時ころになると空腹感がやってくる。下りでもマムシはいなかった。

 

 昼過ぎに向かった27番「神峯寺」は地図で見ると海を背にして、山に一直線に向かっていて自転車乗りとしては地図を見ただけで嫌な予感がしていた。寺の位置を確かめ走り出す。平地が少し続いたが山裾に差し掛かると一気に勾配がきつくなった。歩き遍路の人とすれ違うとニコニコ話しかけてきた

「私も自転車で来たんです、宿に自転車を置いて今歩きで登って、帰ってきた処ですよ」

千葉県柏の人だった。太龍寺でも私の自転車を見るとロープウェーの乗降口で

「私も自転車で来てます」

と話しかけてきた人だった。自転車仲間はめったに見かけないので奇遇だった。炎天下つづら折りの登りが続き、あまりの勾配についに自転車をあきらめた。道路脇の空き地に自転車を停めると私も歩くことにした。「まったて」と呼ばれるとんでもない急な坂なのだ。

 

寺の標高は430mと完全に山寺だ。アスファルト道路の照り返しで暑い。車の通りはまばら、自販機も全く見当たらない。持っているペットボトル1本で乾きに耐えるしかない。直射日光を避け「マムシに注意」の山道に入る。

 

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歩き遍路道は木陰が多く日差しから逃れられるのはありがたいが足元は枯葉が覆い蛇のいないのを祈るだけだ。途中で舗装道を自転車を押して登り続けて来る男がいた。ただし荷物は何も積んでいない。全身汗を噴き出しハァハァ言いながら登っていくサイクリストだった。どうせ同じ道を戻るのだ置いて歩けばいいものをと思ったがサイクリストの意地があるのかサドルにまたがらないのに押し続けていった。こんな坂道は「焼山寺」や「鶴林寺」以来だ。今回のような午後の日差しは身体にこたえる。朝から忘れ物をとりに登山をして来たのを思い出し疲労は今までで最高に達した。

 寺に着くと名水とされる湧水が一角にある。ポリタンクに水を汲んでいる人がいてバスの運転手なのだろう途中で歩いている私を覚えていたらしく私を見ると「あっ、どうぞどうぞ、先に好きなだけ飲んで」と席をゆずってくれた。思わず何杯も掌に貯めて飲み干した。水は冷たく絶品。乾いた体に染み渡った。他にもポリタンクを持ってくる人が何人かいた。私もペットボトルに水を満たしたのは言うまでもない。

 参拝していると、さっき自転車を押して上がった男が親しそうにやってきて「やっ、また会いましたね、いゃー大変でした」

と汗まみれになり話しかけてきた。かぶっているヘルメットで仲間と思ったのだろう、自転車の人は自転車同士の苦労があり親しみを感じあうものだ。

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 この日の宿は香南市の「サイクリングセンター」と言う宿を予約していた。宿の名前からして自転車で旅している人を優先的に泊めてくれるのかと思ったが自転車の有る無しに関係はないようだった。海岸沿いに車道とは別にサイクリング道路が並行していて、その道がサイクリングセンターに通じていた。夕暮れになってその大きな建物に到着した。一見学校かと見間違う建物でそこがサイクリングセンターで目の前に海が広がっていた。

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 到着した時点で私はもうこれ以上歩く気力も脚力もなくなっていた。前日の80Kmサイクリングと夕暮れの165m山登り。そして昨日に続く今朝の山の上り下り、日差しの中の「神峯寺」参拝。気が付けば連日、山と坂道の四国を走り続け四国に到着して以来一日も休養の日を設けていない。疲れもピークを迎えていた。

 受付に行くとカウンターにいた管理支配人は私に3階のルームナンバーのキーを渡す。3階の一番奥の部屋だという。ふと階段を見るとこの学校のような建物は2階に上がるのに30段ほど階段が続きやたら天井の高い建物で荷物を持って3階まで上がるのに絶望感を覚える。もう歩けない。

「エレベーターはどちらですか?」と尋ねると

「この建物、エレベーターないんですよ」とニッコリ。ああっ、あの階段を3階まで登れというのか、思わずその場に崩れ落ちそうになった。が、そこは四国の霊場を自転車で毎日修行中の身、泣きたい心を笑顔に変え静かに

「わかりました」と階段に向かうのだった。---するとその支配人、私の背中に追い打ちのように言葉をかけるのだった。

「それと、洗濯室ですが。洗濯は2階に、お風呂は1階にございます」だと。何度この階段を往復させる気なんだ!!思わずへなへなと座り込み口から泡吹いて倒れてやろうかと思った。

 

食事時間に遅れて着いたので、夕食は運んでもらってゆっくり自分の部屋でとることにした。食堂に行くのも大儀だった。     

                                         (7日目の夕食)

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氷をジョッキに一杯もらい、まずはビールで今日の無事到着を祝した。その晩何度も冷たい氷水を飲んだ。日中に蒸発した水分を補うように乾きで何度も目が覚め、買い求めた500mmLの牛乳も明け方にはなくなっていた。

 

                           8日目  高知市内 プリンスホテル

 香南市の隣の高知市に入ると28番「大日寺」から32番「禅師峰寺」まで五つの寺が数キロ間隔で並び、効率よく短時間で回れる地域に思えた。

 しかしこの頃から自分の肉体も精神もどこか疲れがたまり本調子でなくなっている気がしていた。「大日寺」は地図を見れば複雑な場所ではないのに道を間違え遠回りして昼近くに到着した。29番「国分寺」から次の「善楽寺」への途中ではポケットに入れていたデジタルカメラを落とし後輪で踏みつけ液晶画面のガラスを割ってしまった。

 すべてうっかりミスで、疲れがたまって集中力が途絶え始めていた。このままでは大きな事故を起こしかねない。自分を律するのは自分しかいない、他人がどうこうしてくれるわけじゃない、休養するべきだと思った。重大事故を起こしてからでは取り返しがつかない。

 

高知市に入り参拝を途中で切り上げることにした。この日3つの寺を回ると陽射しはまだ高かったが、予約していたホテルに早めに向かうことにした。

 市内の十字路で信号待ちしながら地図を見ていると、

「お遍路さん、どこに行きなさるん?」

と背中から声を掛けてくる人がいる。初老の男性で交差点角にある建物が事務所らしく店から出てきた。「プリンスホテルに行きたいんです。方向はあっちですよね」と指差すと

「ちょっと待ってなはれ、先導したるさかいに」

言うが早いか建物に戻ると車をだしてきた。

「ついて来なはれ」

そう言うとこちらが遠慮するのも構わずに走り出した。

「こっちや。2つ目の信号に行ったら右や」

低速で自転車に合わせるように先導し始める。赤信号で車列が停止する脇を先に通過して行く私に「次の信号を右やからね」助手席の窓を開け声を掛けてくる。こちらが信号で停まると、いつの間にやってきたのか4車線の向こう側にハザードランプをつけクラクションを鳴らし

「お遍路さーん、この信号を左や」

と細い路地を指差し入っていく。

入った十字路でも待っていて私を確認すると左折。そこがプリンスホテルで表通りから1本入った場所にあり確かに判りづらい場所だった。

「ここがそうです」

車から降りてくると指差して目の前の玄関まで教えるのであった。お礼の言葉を述べたのは当然だがそこまで案内されるとは、と恐縮してしまった。彼は私を、そして道に迷っているお大師様を案内してくれたのだろう。

 プリンスホテルに入って自転車の保管場所を案内された。この数日自転車のスタンドの調子が悪くプラスティックのカバーが振動で抜けてしまうと独り言を言うと、言った本人が忘れているのにホテルの従業員は翌朝の出発の時、補修のテープを用意して直すのを手伝ってくれた。人の親切が心にしみる高知だった。その日せっかく高知市に来たのだ、はりまや橋でも見てこようと市内を歩き、ちんちん電車に乗りわずかばかりの市内観光をした。気分的にもくつろぎが必要だった。

 

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      土佐の高知のはりまや橋