「えーっ!?-----なんでェ!?」

「舞い戻った自転車」の続き-------。

 

 

 

 -----二平さんも私も、二人とも驚きと不思議とで興奮がしばらく収まらなかった。

 冷静さを取り戻してから二平さんに聞いた話しだが、この日「道の駅いたこ」に来たのは私だけでなく二平さんも偶然からだった。

 二平さんはその日、10kmほど離れた千葉県香取市にある道の駅で泊まり、予定通りなら次の日に潮来に行く予定だった。ところが香取市に行ってみると映画の撮影ロケがあり「水の郷さわら」は全面貸切り、関係者以外立ち入り禁止になっていた。それで急遽潮来に行き先を変更していた。

 

 

 

 私は私で当初予定通りなら7月28日に大洗港を出港、この日は北海道バイクツーリング中の筈だった。しかし直前の台風でカーフェリーが欠航、翌日のキャンセル待ちも取れず代わりに富士登山に行き潮来に戻ったところだった。

 両者のハプニング×ハプニング、すなわちダブルキャンセルが生んだ偶然の再会。これをどう解釈すればいいのだろう。時間と天候を神様が調整し二人を鉢合わせさせたのだろうか。


 

 やっと冷静さを取り戻し観察すると、二平さんの自転車に変化があった。4年前の自転車は年季の入った廃棄寸前のサイクリング車だったが新しいママチャリに変わっていた。この年の初め九州を廻っていた時、九州におとずれる都度立ち寄っていた幼稚園があり、そこの園長からプレゼントされた6段ギヤの新品自転車だった、後ろの荷台には『日本一周絵旅 二平』の看板が以前と変わらずに金釘文字で書かれていた。

 

 

積んでいる荷物の量は優に30Kgはあり特製の荷台の上に積み重なり、後綸左右に振り分けられたバッグはまさしく私が4年前提供したものだった。バッグは直射日光に焼け色は剥げ落ち、擦り切れ布地は破断しかけていた。「ダメージGパン」の擦り傷はファッションだが、このダメージ「サイドバッグ」は4年の歴史の産物だ。

 

「これ、4年前に差し上げた時のサイドバッグですか?」

その変貌ぶりに思わず尋ねた。

「歩道を走るものですから、コンクリ壁やガードレールにぶつかってこんなになっちゃいました」と苦笑いする。

そのサイドバッグは私が四国遍路の自転車旅で数週間使ったもので、自転車の前と後ろの車輪に左右に振り分けるバッグだった。家の物置には未使用のバッグがまだ2つ残っていた。

「同じものがあと2個あるけど、使わないからあげましょうか」

というと彼は

「えっ?いいんですか?」

目をぱちくりさせた。バッグの底が破れはじめ、いつ裂けてしまうか不安を抱いて走っていたという。バッグの裂け目を押さえていたバンドも以前差し上げたもので耐久の限界を越えていた。

「明日、午前9時までに持ってきますよ」

と私は約束した。---30分ほどの時間だったが話しは尽きなかった。

 

 夕方の5時過ぎだというのに地表の熱気は街を覆っていた。7月に入って連日のように35度前後の熱波が日本を覆い、場所によって40度と言う体温以上の熱気が人々を熱中症におとしいれ死者も既に数十人出ていた。報道は連日のように気象庁始まって以来、体験したことのない異常気象を告げていた。夜になってもエアコンなしで眠りにつけないが、二平さんは余熱のこもったコンクリートの上にテントを張って一晩を過ごす。車のエンジン音に安眠も出来ないだろう-----。

 家に戻ると物置のバッグを引っ張り出し、残り少なくなっていた防水スプレーを全部念入りに吹きかけた。明日、新しいバッグで出発してもらおう。バイクツアーに持っていく予定だった食料も幾つか入れておこう。若干のお金も接待させてもらおう。四国お遍路で様々な人からお接待頂いたお礼を二平さんにもお分けさせてもらおう。しかし、なんでこんな奇跡のような再会をするんだろう?この日の不思議な出来事への疑問がいつまでも頭の中を駆け巡っていた。

 

  翌朝、目が覚めると私はバックを届けに自転車で道の駅に向かった。 青い空がのぞき今日も暑い日になる予感があった。午前9時、と約束したがその時間だと移動するだけで熱中症にやられてしまう予感がした。早い時間の方が移動するのは二平さんも楽だろうと朝の6時半に着いた。

私が車で来るものと思っていたらしく二平さんはサングラスに自転車ヘルメッ姿で私が到着すると、予定外の早い到着でもあり声をかけても他の誰かが声をかけたのか、ときょとんとしていた。-----建物の隅で、ボロと化したバッグを新しいバックに交換する間、期せずして二平さんは身の上話を話し始めた。

(その様子は次の動画)

https://www.youtube.com/watch?v=LxSZSYFQWqw ;

 

 聞くところによると、二平さんは生まれも育ちも横浜で、両親はすでに他界していた。35歳の時に「自分は絵描きになる」と志し日本画を教える流派の門をたたいたという。

 二昔ぐらい前になるがテレビでは清酒「黄桜」のコマーシャルが流れていて妖艶な女の河童の絵が印象的だった。その絵の作者・清水崑は他界し二代目になる方が英才教育を受け流れを受け継いでいた。

「私はその先生のもとで絵の勉強をしたんです」

二平さんは胸を張り言うのだった。

                       (絵はネットからお借りしました)

               

 会社で働きながら絵の勉強に励んでいたが画家になる夢を実現させたい、絵だけで生きて行きたい、会社を辞め日本中を絵を描きながら旅に出たいと兄に相談した。しかし、猛反対にあって衝突してしまった。兄の肉親として心配する意見と、自分の夢の隔たりは埋めようが無く、

「それなら兄弟の縁を切ってくれ」

二平さんは自分から兄弟の絶縁を言い出した。

 それ以後、戸籍上の名前大井信行を棄て絵描きとしての新たな名前「二平」を名乗り、自転車で日本全国を回って絵を描く生活を始めた、と顛末を話してくれた。

 

---私も兄の立場だったらやはり反対したでしょうね。兄の気持ちはわかるんです」

せめて年に一度,年賀状だけでも出して無事を知らせようとも思ったが

「兄弟の縁を切ってきたのはお前だからな」

と兄に激怒された事を思い出し今さら連絡も出来ないとそれ以来ずっと音信不通、住所不定、無職の流浪生活を続けている。

----若ければ夢を追う生活も出来るかもしれない、何歳になったのか尋ねると

「今年61歳になるんです」

と答える。----という事は54歳から7年間自転車に生活用具一切を載せ、日本の北から南へ絵を描き続けて生きてきたことになる。

 

「----画家と言うのは貧乏なので、結婚もしませんでした」

今後とも天涯を孤独で過ごす覚悟をしている様子だった。

(その時の動画)

https://www.youtube.com/watch?v=cxgovah4XEM
 

 日常を尋ねると、旅人になってからは午前中は景勝地への移動や写生デッサンに費やし、午後は道の駅や公園で制作に時間を費やしているという。

「同じところにじっくり腰を落ちつけて、風景を見ながらでないと絵って描けないのでは?」

と尋ねると

「デッサンだけ現地で描いて、午後は道の駅や公園でイメージに残った色付けや技巧を加えて完成させるんです」

という。----独自の技法があって、1枚の絵の創作に1週間から2週間の時間を要するらしく、

今まで200枚ほど描いて来たが、道の駅や公園で展示していると興味ある人が買ってくれるので手元に残っている絵はないという。自転車の後ろにぶら下げている「日本一周 絵旅 二平」が彼の唯一の営業看板だ。

 

 時間を費やし創作した作品なので手放す前に写真にでも収め残しておけばよいものを、と思うのだが、彼はカメラも無く携帯電話もスマホも無い。手元に作品を置く余裕もなく作品は何も残らない。

 

「道の駅に絵を広げ、通りすがりの人に見て貰っていたんですが、ある時

『一枚いくら?』

と言う人がいたので

『お気持ちで結構です』

と答えたら----とんでもないお金を置いて行った人がいたんです」

----その通りすがりの人は一枚の絵を選ぶと、引き換えに封筒にお金を入れ置いて行ったが去った後で封筒を開けてみると喜捨と施しが込められた大金が入っていた。具体的な金額は言わなかったが今まで受け取ったことのない額に驚き、それ以来値段を問われると「お気持ちで結構です」をひっこめ「千円でお願いしたい」と答えるようになったという。-----しかし月に2枚や3枚しか作れない作品を千円で売っていては一日の食事代にも事欠き、年金も無い暮らしでは栄養失調で倒れるか餓死してしまう。

 

「それでは食べていけないでしょう」

と言うと、

「食えなくなると、お寺さんに行ってほどこしを受けております」

4年前と同じセリフを答えにっこりする。そのくせニコチン中毒らしく、歯にはタバコのヤニが黄色く染まり手元には安タバコの箱があった。

-----どうも一般の人と社会通念が違った人に見える。だから流浪生活をできるのだろうがよくも生きて行けるものだと不思議になった。

-----私のすれ違う人には仙人に近い人だったり死に臨む人であったり、この世から浮きあがっている人が多い。何故そんな人とよくすれ違うのだろう。

 

 別れ際に、毎年日本一周する経路でも決めているのだろうかと尋ねると、おおよその年間コースを教えてくれた。

 九州には毎年冬に到着して寒さをしのぎ、鹿児島で知り合った方の経営している幼稚園には定期的に15日に到着し休園期間中の数日をそこで居住し創作に集中するのだという。その後、日本海を北上し6月の23日は青森県の「道の駅あおむし」。青森からは内陸部を通り国道4号線を南下。83日には茨城県「道の駅いたこ」を訪ねるのを目安にしているという。私とは偶然に潮来市で二度接点があったことになる。

----潮来へ寄った後は千葉県の銚子や旭市、そして埼玉県へ。その後は八王子にある道の駅に向かってから厚木。やがて海沿いを関西方面に向かい関が原を通り京都。瀬戸内方面を通って再び九州へ。これが大雑把な二平さんの日本一周ルートであった。四国や北海道には渡ったことが無いというが、お金のかかるフェリーや通行料の必要な橋は通らないのが理由のようだ。

 

 1時間もかからず荷物の整理は終わった。充分に役目を終えたボロと化したサイドバックは私が引き取り処理することにした。時刻は朝の7時を過ぎていて構内には車が出入り始めていた。二平さんと、また会うことがあるだろうか。いや、こんな奇跡の再会は二度とないだろう。が、8月の2日か3日になったら毎年この道の駅に来てみよう。

----------。

 

1か月後、二平さんから封書が届いた。

 

封書の裏には「静岡県 道の駅掛川にて」とあり1か月、絵を描きながら静岡に到達したようだった。

 

 

その手紙の最後に

「お願いがございます。もし、ご面倒でなかったら、この後の文をブログに載せて頂けませんでしょうか。」

と書かれていた。

 

 ------1か月前に会った時に

「私のブログを読んだ方から二平さん見ましたよ、という情報を寄こした方がこれだけいましたよ」

と私は二平さんに数枚のコピーを渡していた。

 『自転車で日本中放浪している絵描きさんを見たけどあの人誰?』と興味を持った人がいてインターネットで調べて私が書いたブログにたどり着いたのだがその方々はこちらが頼みもしないのに「ここで見ましたよ」という情報を寄せてくれたのだった。

 目撃情報を寄こす人が数人いたが、中には二平さんの学生時代の友人もいた。彼はネット名を「KZO」と称し行方不明になってしまった二平さんを心配しインターネットで検索し、これもまた妙なタイミングだが二平さんに会った数日後に私のブログにたどり着いたのだった。そして私が二平さんから聞いたルート、日程を記憶し実際に翌年の8月になって「道の駅いたこ」に足を運び二平さんを探され、そして会えなかったという報告をわざわざコメントを通じて連絡いただいたのだ。

以下、届いたコメントを念のため載せてみるが一部年月日は順不同。

      

  2016/7/3(日) 「かんちゃん」

「二平さんは、今岩手県あたりを走っているらしいです。日本一周自転車で検索すると、旅行ブログ村のサイトがありますが、その中で、あっ旅7~バリィさんと自転車日本一周編~を開いてみてください。79日目7月2日の記事に二平さんが登場していますよ。」

 

2016年12月18日 「どんた」

「二平さんは今日、宮崎県の道の駅フェニックスにいらっしゃいましたよ。連泊中で12/28に、道の駅垂水で知り合いの画家の方と会うのを楽しみにしていると言われてました。
短い時間でしたが楽しい会話ができ、今とても幸せな気分です。あのにじみ出るような謙虚さのなせる技なのか」

 

2017年5月9日「kzo」                      

 「はじめまして、ネットで二平さんの検索を行っていてこちらのブログがヒットしました。実はこの二平さん私の友人です。6年前の7月に突然1通の手紙が届き・・行方が分らないままになってしまいました。手紙の締めくくりは『今までありがとう。ゴメンネ連絡取れなくなる』・・と、またどこかで会ったら安否教えてください。・・・去年の、暮れのはなしなので、今頃はどの辺に出没しているのやら・・良い奴なんです。」

    • 2019年08月02日 08:10
    • いつも、二平情報有難うございます。
      今年はどうしているのでしょうか?
      何か虫が騒ぎます・・・出来たら、明日当たり潮来に行ってみようかと考えています。
    • .
    • 2. kzosk
    • 2019年08月04日 06:27
      • 3日に潮来の道の駅を基点に周辺を探索しに行ってきましたが、残念ながら会う事は叶いませんでした。
        道の駅の、職員の方にも聞いたりしましたが、これといった情報も得られず、結局、北総エリアの道の駅7か所を制覇しちゃいました
        今頃は、どこを走っているのでしょうか・・まったくです
        探しに行くと捕まりませんが、マコチンさん (注・アメーバブログ以外で私が使っていたブログネーム) のような偶然のタイミングが会えるのかもしれませんね。

 

---------------------------。

 

-----二平さんは投稿頂いた方々へ私のブログを利用しお礼を述べたいと頼んでいたのだった。以下、二平さんからのメッセージ。

 

『 「かんちゃん」さん

来年確認させて頂きますが、毎年お世話になっている方でしょうか。もし違っていたら、ゴメンなさい。「二平」で探して下さったうえに、書きこんで下さったのでしょうか。ありがとうございます。

 

「どんた」さん

あのように書いて下さってありがとうございます。でも「どんた」さんのお人柄が、楽しい会話にさせて下さったのです。「どんた」さんのお人柄があったればこそです。やはり、わざわざ「二平」で、このブログを見つけ、書きこんで下さったのでしょうね。ありがとうございます。

 

「KZO」殿

ただただゴメン。ただただありがとう。

 

「南区」さん

その節はお世話になりました。私はこのブログの方始め「南区」さんの様な方々から、どれほどのご厚意を受けさせて頂いて来ている事か---。ありがとうございました。又、ブログを探し、書きこんでも下さって----。ありがとうございます。

 

「まお」さん

お子様たちと「ザリガニ獲り」にいらしていた若いお母様のおひとりの方ですね。わざわざ探して下さったのですねェ。よく、こちらのブログを見つけて下さり、又、書き込んでも下さいました。ありがとうございます。

 

皆さんが、また、こちらのブログを見て下さるものかは分かりませんが、もし、見て頂けたらばと思い、こちらのブログの方にお願いし、載せて頂きました。皆様のご多幸お祈りいたしております。                  2018年9月9日 。  』

 

 

 

         

               

                  

 

 ブログを書いている人の中には私と同じように何気なく二平さんに会い、何気なくブログに書いた人が何人かいる。その何気なく書いた人たちへ送る二平さんからのメッセージだった。

 

 このブログを見た方に伝えておきたい。

二平さんを見かけることがあったら、そして気に入った絵があったらだが、一枚の絵を選んで欲しい。  そしてよかったら施しと喜捨のお金でもあげて頂ければと思う。

夢を追って日本中廻っているのは二平さんではなく、実は私自身、そしてこのブログを読んでいる人達自身の分身である気がする。

 

サミュエル、ウルマンの詩・「青春」に次の一節がある。

 

青春とは人生のある期間を指すのではない

青春とは心のあり方を言う

-----

誰もが歳月を重ねるから 老いるのではない

理想を捨てる時 我らは老いるのだ

積み重なる歳月で 肌には皺が刻まれるであろう

しかし魂は 情熱が消え去れば 皺に包まれる

-----

 

 

 

その詩を私は二平さんに見る。

-----しかし実際問題として二平さんに声を掛けてあげたくても、彼は住所不定のうえ音信不通、声を掛けようにも方法は無い。そのために二平さんがどんな時期にどんなルートで走っているかを大雑把だが文中に挟んでいます。-----もし見かけた方がいれば「コメント」を利用し連絡いただければ幸いです。写真もそのため載せています。

 

参考までに翌年2019年の8月2日と3日に道の駅に行っても自転車の人はいなかった。2020年も見かけることはなかった。

-----四国遍路を歩いた時、うら寂しい遍路道の脇には行き倒れお遍路さんの墓がひっそりと埋もれてたのを目撃していたがどこか二平さんも倒れたのかもしれない等と不吉なことを考えてしまう。

「行旅死亡人」という言葉がある。氏名、本籍住所、引き取り人のない遺体を指すが屋内、屋外で発見された身元不明死体は2019年2万人近い報告がある。その中の一人になってしまったのではないか、考えたくないがひょっとしてと自転車の姿を見ないと考えてしまう。

 

 コロナウィルスも収まりを見せない現状でどうも悲観的なことばかり考えてしまう。彼、二平さんの兄は弟に激怒叱責したが、愛するゆえの怒りだろう。二平さんは二平さんで芸術への情熱と愛が押さえがたく、互いの愛が高じ憎しみにかわってしまった。兄さんもさぞや気がかりだろう。生きて何処かで再会できればよいが。そう念ずるばかりだ。

 -------もし何らかの情報が入ったら、それは良きにつけ悪しきにつけだがまたブログに載せるつもりでいる。きっとその時つける題名は『続・続 舞い戻った自転車』とでもなるだろう。そうなれる日を楽しみにしている。