2018年の8月、日本は猛烈な熱気に支配されていた。異常気象の始まりだった。

 8月に入って2日目、私は恒例の富士登山から戻ったばかりだった。「恒例」というのは30歳過ぎて富士山へ登り始め、その年に登頂回数が30回を超えていたからで凝りだすと何かとこだわるタイプだ。

 

        

 

「富士山に一度も登らないバカ、二度登るバカ」

 

と言う言葉がある。日本一の名峰富士に登ろうとしないのはバカだ。しかし実際登ってみると富士山は砂礫と岩に荒れた山肌で空気は薄く苦しい思いをする。富士山は遠くから眺める山で一度登ると懲りて二度も登る人はいない。そんなふうに言われている。

 

 富士登山では毎年、八合目の山小屋でウトウト仮眠するくらいで高山病に苦しみながら登頂し、下山ではすべてを絞り出しクタクタになる。

「もうこれで、二度と富士山には登らないぞ」

と戻るのだが、翌年になると懲りずにまたそのバカを繰り返す。----毎年、富士山から帰った夜は睡眠不足と疲れから爆睡状態になるのだった。

 

 富士山に行く理由の一つは私にとってこの爆睡にある。

帰宅後、赤子のようにひたすら眠りを貪る動物的で生理的な充実感。「疲れと癒し」のバランス。この爆睡という天国を味わうため実は富士登山を続けているといってよいかもしれない。

----厳しい地獄の日々があるほどそれに見合った天国が来る、と心のどこかで思っている。

 

            

 

 富士山登頂も30回だとバカを過ぎて狂人の部類かもしれないが、自分で言うのもおかしいが30回はまだまだ可愛い方である。

 2014年に富士山に登っていた時、富士宮口登山道ですれ違った方は1680回目をその日登っていた。

しかも夏の間、五合目から山頂を一日2度往復する人である。實川欣伸(じつかわよしのぶ)さんという当時67歳の方で、こうなるとバカでも狂人でもなく仙人の部類に入ってしまう。狂人はまだ可愛い。

 余談だが、私はこの方と平成11年9月に当時の建設省主催「富士山お中道一周走破」という記念行事でお会いしていた。富士山登頂3回以上の経験者限定で5合目をぐるり一周する記念行事が開かれその募集が新聞に載った。参加希望者は全国から集まり幾つかのグループに分かれ一泊二日を掛けて中腹を一周する登山で、私はその頃9回登頂し資格があった。たまたま選ばれた私は偶然に實川さんと同じ班になっていた。当時、實川さんは110回を登頂していて100人前後集まった参加者の中で一番の登頂回数だった。

 

----ちなみに、その「お中道」を半周廻り終えた晩、四合目の貸し切りになっていた奥庭山荘に全員泊まったが総勢150名くらいのベテラン参加者、スタッフ、道案内ガイドの中で体調を崩した方が2名発生し救急車が呼ばれる事態になった。かなりハードな登山だったのだ。

 私も申し込んだ時点ではお中道は五合目を横に廻るコースで楽な道だと思い込んでいたがとんでもないアップダウンのコースだった。

 以下は雑談として記すものだが、お中道一周の初日、富士宮口5合目駐車場に全員が集合し、時計回りに先発隊が30分早く出発、参加者が幾組も間隔を置いて後を追う手筈だった。が、1時間後に先発隊は追いつかれてしまった。

 なんのことはない、道らしきものは最初だけで進むにつれ途中で道は消えお中道とは名ばかりで山肌と岩場の安全地帯を選んでガイドが先に進んでいるのだった。先頭を行くガイドは靴で斜面を踏み分け山肌に赤い目印を要所に打ち付けその作業に手間がかかり追い付かれたのだ。結局100名以上の参加者がアリの行列のように連なるのだった。「人の歩いた跡が道になる」は諺(ことわざ)でなく現実だった。1000m以上のアップダウンが途中に待ち受け、ガイドなしに進めない難コースであった。救急車のお世話になる人が出ても不思議ではなかった。この記念行事のため一般の人が渡れない「大沢崩れ」には特製の梯子が我々を迎え絶壁の昇り降り通過を助けてくれた。大沢崩れの修復現場の資材運搬は何とヘリコプターで、発着ヘリポートは観光客や登山者からは目につかない場所にあった。お中道は車も通れずでヘリコプターでなければ不可能なのだ。----大沢崩れを過ぎて後半になって初めて山岳地図にも載っている整備されたお中道に変わった。------めったに体験できない「お中道」一周体験のこぼれ話ではある。

 

 

 

 話は實川さんに戻る。實川さんはのちに『富士山に1000回登りました』という本まで書かれ、この時私はそれを読んでいた。----そのため、この日ひょっとして富士山で實川さんとすれ違うかもしれないと思いながら登り続け、下って来る人に気を付けていた。-----昼過ぎ八合目近くだった、おやっ、あの下りてくる人そうじゃないかと気が付き数年ぶりに再会し声をかけたのだった。もちろん實川さんは私のことは覚えていなかったが富士山で有名人になっていた實川さんは見る人から見れば大変な人だった。声をかけると、気安く記念写真にも応じてくれたのだった。「---今日はまだ一回目で、五合目戻ったらまた2回目登るんです」と言っていた。つくづく日本人にはすごい人がいるものだ。

                

           

 

                    


 ここで話しは出だしの2018年8月時点に戻る。 

 ----「アメーバブログ」を利用する前、今は休止してしまったがヤフーブログを利用し自転車の二平さんのことを書いたことがあった。『すれ違った自転車』と同じ内容で、

「絵描きになる夢を追って自転車で日本中廻り続けている人がいました」

という内容だった。

 ブログに載せてから4年が経った日---つまり今回の話にここでつながるのだが、富士山から戻り爆睡した翌日、留守で2日間閉じていたパソコンを開くと見知らぬ人からメールが届いていた。それも2通。----どちらも自転車で絵を描き放浪している二平さんに関してのメールだった。

 

1通目

7/28()茨城県「道の駅しもつま」で二平さんいましたよ!絵の技法について丁寧に説明してくださいました。
私も昔絵の勉強をしたことがあったので彼の生き方を少し羨ましく思いました。」

 

2通目 

731日茨城県龍ケ崎市の公園にてお会いし、お話しました!なんとな〜くその絵描きのおじさんの事が気になり、検索していたらこのブログに辿り着きました💦二平さんと言う方なのですね^^

 

それぞれ情報を流してくれたのだった。

----世の中にはずいぶん好奇心旺盛な人がいるものだ、よくも皆さんインターネットを活用し調べているものだ。何年も前に載せた私のブログが役に立つとは思ってもいなかった、と改めて感じたのだった。

 私はもともと、日記や備忘録の代わりにブログを利用しているだけで他人がどんな感想を抱くかは期待していなかった。はっきり言って他人が読もうが読むまいがどうでもよかった。手書きでノートに備忘録を書いて保管するよりブログに残したほうが書棚に保管しなくて済む。いつでも気軽に、どこにいてもパソコンかスマホがあれば探し出せる。その便利さを生かしたくて身辺に起こった奇妙な出来事、貴重な体験をブログに備忘録として載せていたのだった。

 だから二平さんと言う人に関しても「この人のことを教えてください」と頼んでいないのに、こんな風に見ず知らずの人からメールが届くのは何でだろう?----ブログに載せて4年も経っているのに今頃になって。それも2通が間を置かずに連携するように届いたのだ。

「こちらを通過。そちらに向かってる」と連絡されているようで不思議になった。

メールは一通目が下妻市、2通目は竜ケ崎市での二平さん目撃情報だった。

---パソコンを閉じると妙な予感、胸騒ぎがした。----潮来へ向かっている?

下妻市と竜ケ崎市は40~50Kmの距離で竜ケ崎、潮来間も同じような距離だ。自転車なら半日走れば到達する。ゆっくり走っても潮来には1,2日で到着できる-----まさか潮来へ?そんな訳ないだろう。

 

 8月のこの日、実は私は本当ならバイクにまたがり北海道をバイクツーリングで走っているはずだった。5日前の出発日に台風でカーフェリーが欠航になり、翌日のキャンセル待ちも一杯で予定を中止、空いた時間を埋めるように富士登山に行って戻ったばかりだった。

 

 市民プールで泳いで、富士山で酷使した筋肉の疲れをほぐすと、普段なら私はプールからそのまま家に戻るのだが、この日「道の駅いたこ」に車で立ち寄ることにした。

2通のメールが気になっていた。まるで誰かから行け、行け、行けと背中を押されているような気がしていた。----これは自分でも何とも説明がつかない行動だった。道の駅は年に数回しか用事の無い限り行かない場所なのだ。それなのに十字路で右にハンドルを切るところをその日に限って左に切ったのだ。

 

 夕方5時近く「道の駅いたこ」はいまだ熱気が立ち昇っていた。2通のメールには二平さんらしき人が何処へ向かったと書いていなかった。北に行ったか、南に向かったかも不明だ。そもそも潮来に向かったとも書いていない。二平さんのことをブログに載せてから4年も経ち、生きているのかどうかさえ分からない。住所不定、無職の二平さんは携帯電話もなく、連絡方法は皆無だ。それなのになぜか胸騒ぎがしていた。

 

---- 駐車場に車を停めドアを開けると途端にムッと熱気が体を包んだ。駐車場の隅から隅まで見渡すと車は閑散としていた。幾つかある建物を順にのぞいて歩いた。飲食店は閉店の準備にかかっていた。

トイレ方面に向かうとベンチに人の姿があり自転車が脇に立てかけてあった。自転車には大きな荷物が括り付けてあった。

近づいてみるとベンチに腰を下ろしていたのは男だった。

 

  

 

                   

 

この夏休みの時期、サイクリングをする旅人も大勢いる。その一人だろうーーー近寄ってよく見ると、男は髪の毛に白髪が混じって若くはない様子だ。老眼鏡らしいメガネをかけ熱心に冊子に目を通している。短パンとTシャツ姿、衣服も肌もともに日に焼けていた。

「----まさか---そんなはずはないよな---」

念のため自転車を見ると、荷台の両脇に黒いサイドバッグが薄汚れてぶら下がっている。元は黒だったらしいバッグが埃にまみれ色が剥げ、擦り傷でくたびれた姿に見えた。----しかしそのサイドバッグに私はピンとくるものがあった。見覚えがあった。

 

          

「ひょっとしてあの時渡したサイドバック?----いや、まさか---」

思わずゴクンと唾を呑んだ。

 

 理性と記憶と驚きとが私の中で競合していた。偶然を信じようとしない自分と、目の前の現実。さらに、なぜ今日俺は潮来にいるのだ、本当だったら今頃北海道にいるのに。自分が何ものかに引き寄せられるようにここに来ている。自分で自分が理解できなかった。

 

「そんな偶然起こる筈ない!」 「4年前と同じところで同じ人に会う?!まさか!」「この男は別の旅人だ!」「二平さんは電話も持ってない。俺も約束もしてない!どうして落ち合えるのだ!?」 「今日俺は北海道にいた筈!」「メールの人は別の絵描きだ!」「すべてもしも、もしも、の仮定の話だ!」「奇跡なんかあるはずない!」

 

心を落ち着かせると、確認のために近づいた。

「---あの、----失礼ですが」

私はベンチの男に遠慮がちに声をかけた。

突然声をかけられ男はメガネを外すと私を見上げた。

「--はっ?----私ですか?」

---4年前、配水塔の下で数十分間話していた男の顔を思い出そうとしていた。

こんな白髪混じりだった。こんなボサボサ髪だった。こんな日焼けした男だった。こんな人だった。似てる。----しかし、まさか。

目の前に現れた見覚えない男から突然に声をかけられ、男の目に少し警戒心が宿った。何の用だろ?不審尋問?ベンチで休んでいるだけだが、とでも言いたげな表情。

「あの---もしかして----3、4年前、ここに自転車で来られたことありませんか?」

私の3,4年前と言う言葉に、男は目を見開き記憶をまさぐっているように見えた。

「---えっ?------はっ?」

そういうあなたは誰? 何者なの?と男の目は私に問いかけている。そして記憶を引き出そうとまじまじと私を見ている。私はズバリ用件を切りだした。

「----ひょっとして、絵を描きながら全国廻ってません?」

途端に男はのけぞると、なぜそんなことを知っているのかと驚いた表情を浮かべ、同時に深呼吸するように口を開け、

「---エっ?!--ハぁ----!?」

と口を開けた瞬間にその上半分右側が欠けていたのを私は見逃さなかった。その時、あっ、あの時の自転車の人! 二平さん!-----疑問は確信になった。

 男は畳みかけてくる質問に突然身震いした。そして震える指先で私の顔を指さすとまるで幽霊を目の前にしたような驚愕とともに

「え-っ!?--???--内田さん??」 

目を見開き、私は私であまりの偶然に

「----えーっ?---二平さん---?」

驚愕で一杯になった。不思議なもので、人は興奮の極みでその相手を指で差すものらしい。二人同時に相手を指さすと、合唱するように叫ぶのだった。

「え―!?ーーなんでぇ!!??」

道の駅に二人の男の叫びが響いた。


                 

       

          

  何とも不思議なことに 「すれ違った自転車」の二平さんがこの日、潮来に立ち寄っていたのだ。

----何度も何度も考えた。

偶然なのだろうか?私がたまたま北海道に行かず潮来に居たのは。

偶然なのだろうか?富士山から戻ると知らない人から2通も二平さんを知らせるメールが届いたのは。

偶然なのだろうか?今日、胸騒ぎがして道の駅にやってきたのは。

偶然なのだろうか?4年前と同じ道の駅で私を待つように二平さんが同じベンチに腰かけていたのは。

偶然なのだろうか?どこか私の中で「きっと会う」と言う確信じみた予感がありカメラを用意していたのは。

すべて偶然なのだろうか?

 

-----用意していたカメラで私は二平さんと写真を撮らせてもらった。おそらく写真がない限り誰も、自分自身もだが、こんな再会があると信じないだろう、と思って。------信じようが信じまいが。