その男とすれ違ったのは、平成26年の夏の朝だった。

私が「道の駅いたこ」まで犬と散歩をしていると、自転車に荷物を満載した男が私の脇を追い抜いて「道の駅いたこ」の構内に入って行くのだった。

 よろけながら脇を通り過ぎる自転車の荷台には、今にもこぼれ落ちそうに荷が山盛りでタイヤやチューブが一番上に積み上げられていた。やがて飼い犬と広場に入っていくと、建物のトイレ脇にその自転車は立てかけてあった。

 

 私はその年の5月に自転車で四国を一周してきたばかりで自転車乗りの端くれのつもりだった。すれ違ったばかりのこの男がどこからどんな旅をしているのか、同じ『仲間』として興味がありトイレから出てくるのを待った。

 

 観察していると自転車はかなり年季の入った代物で、長く旅を重ねているのがその荷物の量で一目瞭然だった。驚いたのはその荷物の積み方で、とにかく何でも積んでおけ、といった乱雑さで、前後左右からひもで括りつけた雑多な荷物は荷台からはみ出し重心は高く、これではスピードを出すとふらついて風の吹く日はさぞかし不安定だろう、よくもこんな具合で走るものだ。------数分眺めていると男がトイレから出てきた。

 

 自転車乗りの例にもれず、日焼けなのか埃のせいかわからない黒く焼けた肌をした男だった。青年の域はすでに越え、中年以降の年恰好に見えた。同じ趣味の気安さから戻ってきた男に私は話しかけた。

「----どこから来られたのですか」

男は話しかけられると、驚いてはにかむ様子でもじもじしながらポツリと答えた。

「-----絵を描きながら日本を廻っているんです」

へえっ、絵描きなのか。好奇心が起こった。どこからやって来たのですか、と再度尋ねると

「----もう、3年も走り続けているのです----ずっと。」

と、それ以上のことは答えなかった。

住所を言わないところを見ると「住所不定」ということなのだろう。よく見ると男の肌は単なる旅人の日焼けではなかった。幾日も埃と汗が混ざり合った黒さ、いや汚れなのだ。衣服も埃が染み込み、旅の間に風呂や洗濯はどうしているのか思わず尋ねた。

「----恥ずかしい話ですが風呂はめったに入りません。食えなくなる時もあって、お寺を訪ねて慈悲の食事を求める時もあるんですよ」

と語る。食事も満足ではない暮らし、こんな人が今もいるのか、私は言葉に詰まった。

-----放浪者、という言葉が頭に浮かんだ。

 

-----50年以上前の子供の頃、私が住んでいた田舎の町には朝な夕なに食べ物を求め他所の家の玄関口から玄関口へと食器を差し出し食を乞う老女がいた。終戦の影響も終わった時代だったが、戦争で家族を失い精神を病み生活に破綻している人がいたのだった。その老女は廃屋をねぐらに、衣服はボロボロ、町の人たちから「乞食」と呼ばれていた。福祉が充実している時代でなく、日本はまだ発展途上の時であった。その時の老婆を私はふっと思い出した。

 彼は気弱そうに笑顔を浮かべ、その笑った口元の歯は上の半分が欠けていた。それが男の気弱そうな性格を余計に助長して見せた。

 

 私は、自分もこの春に自転車に乗って四国遍路を廻ったことを話した。同じ自転車乗りとして、この自転車はサイドバックが付いてないが不便じゃないのか、風にあおられ危険じゃないかと体験者が判る不便さを問うた。

 彼は、バッグがあれば本当は一番良いが、買うお金がないという。

その自転車も、不要になり廃棄処分になろうとしていた自転車を譲り受けたもので、ママチャリでも何でもよかったのだという。スピードも性能も求めず、荷物さえ載せられて走るなら充分だった。それでこんな塩梅のまま走っているのだと言う。

「---自転車屋さんに行って、要らなくなった自転車を貰いましてね」

荷台も手作りで、ありあわせの板や籠を組み合わせ、とにかく荷物が積めればとバックまで手が回らないようだった。

 

        

 

 我が家の物置には、3か月前に使った自転車が眠っていた。後輪にはサイドバックが2つ取り付けたままで一つのバッグで優に30リットルの容積があった。2つあれば積み上げた荷物はだいぶ片付きスッキリとするだろう。重心も低くなり風にふらつくこともなくなる。私はサイクリングでまた旅に出る予定はなかった。

『----よかったら、私がこの間まで使っていた自転車用サイドバックがあります。あげますから使いませんか。少し擦り傷がある程度できれいです』

というと、男は何度も危険な目に合っているらしく

『えっ、いいんですか?』

目を輝かせ、拝むように手を合わせた。

 

腕時計を見ると朝の6時半で一日が始まったばかりだった。

私は広場から南の方角を指さし、待ち合わせの場所を教えた。待ち合わせ場所は家から近い県営アパート配水塔で、その配水塔は30m近い高さゆえに遠くからでも目印になり初めての人でもたやすく見つけられるのでそこを待ち合わせ場所にした。

「7時15分頃には持っていきますよ」

と時間を約束し、急いで戻ると物置に仕舞ってあったサイドバッグを2つ、ついでに非常食3食、非常食はどれも温めればすぐ食べられるパック入り非常食で、そのほかに1000円札一枚を茶封筒に入れ私のお接待とした。バッグには防水スプレーを吹き付け雨がしみこまないようにした。

 しばらくして配水塔に向かうと、すでにその男は日陰を選び道端に腰を下ろして待っていた。周囲は夏の暑さを増し太陽が路面を照り付け始めていた。

 

バッグを渡すと男は

「いいんですか?こんな大事なもの! いつか使われるんじゃないんですか?」

真顔で心配し、大げさなほどの喜びをみせて恐縮しきっていた。

 雑談をしながら自転車の山になった荷物をおろし、荷台をバラし、そうしないとサイドバッグは取り付けられないのでその作業を手伝い、思いのほか時間がかかった。その間に、男は人とあまり話す機会がなかったのか問わず語りで身の上を話し始めた。

 

 男は56歳、名前を「二平」と名乗った。しかしその名は自転車で絵を描いて日本を放浪し始めてからの名前だという。

「----ふふっ、間抜けな名前でしょ、二平なんて」

自分でつけた名前に自身で笑うのだった。

 

 ひと昔前の日本酒「黄桜」のコマーシャルに、妖艶な女の河童の絵が出ていたが、それを描いた日本画家の2代目画家が自分の絵の師匠だという。神奈川県で何年か会社員として勤めてきたが、どうしても絵だけを描いて生きて行きたい思いが強く、反対する家族、兄弟と縁を切り、構わないでくれ、と天涯孤独の絵描きの道を選んだという。夢は日本中の景色、風景を好きなだけ観て描くことで、自転車はそのための移動手段であり財産だった。家族と縁を切った時から名前も棄て、絵描き「二平」を名乗るようになったという。

 

---- 配水塔の下でやっと作業は終わった。てんこ盛りだった荷台は取り付けた両バックに収まり前より軽快に走れそうだった。重心も低くなり風でよろける心配も軽減した。

「一日に何Kmくらい走るんです? 70Km~80Km位走るの?」

四国の経験がよみがえり、つい自転車談議になってしまうのだが、この二平さんにとって距離もスピードも問題外だった。

 ある名勝地では3日も4日も同じ場所にとどまり、いつ迄にどこまで行かなければという観念が彼には無いのだった。気に入った景勝地をおとずれ納得するまで時間をかけ、絵にすることが目的だった。そうして3年間、年金も収入もなく夢だけ追って生きている。

 道の駅で、描いた絵を自転車の周りに広げて展示していると、通りがかりの人で興味を示し買ってくれる人がいるのだという。そのわずかのお金が食費に代わり、無くなると寺や神社の慈悲にすがるのだという。

 

-----こんな人に四国でも会ったのを思い出した。家財用具を手押し車に満載し、年二回ペースで歩いて四国お遍路巡りを続けている老夫婦がいた。-----四国ですれ違った夫婦遍路と二平さんが重なった。

 

 別れ際、二平さんは

「よかったら私の絵を見てください」

とビニール袋からスケッチ集を取り出した。絵葉書の倍ほどの大きさのスケッチ集だ。期待していなかったが絵はなかなかの作品だった。独特の色彩感覚で、素人ではない簡潔さとまとめ方だ。もっと大きな絵にしても見応えがあるだろう、凝縮された彼の世界があった。

全国を旅しながら、その土地土地で描いてきた作品が数十枚あるようだった。

「よかったらどれか一枚持って行ってください、お礼に差し上げます」

好意を拒否するのも悪いと思い、

「いいんですか?」

一通りすべての作品を見せてもらうと私はその中から一枚を抜き取り頂くことにした。

-----空は青さを増し、ジリジリト舗装道路からは熱が反射し始めていた。今日も暑い日になる。

        

「それじゃ、気を付けて」

と言って2,3歩家に戻ろうとして

「あっ、そうだ」

と私は振り返り尋ねた。

「ところで、この頂いた絵は、どこの絵ですか?」

彼は私の手元の絵を確かめてから、そこがどの県だったか思いだしにくいらしく

「島根だったかな」と独り言を言っていたが、思い出したらしく、

「描いた場所は『ロード銀山』です」と言った。

 流浪の画家である二平さんは、その日は鹿嶋市に寄っていくと言っていた。

 

            

 

-------そして、半年が経った。

翌年の2月、郵便受けを開けると一枚のハガキが届いていた。

私宛のハガキで筆跡は個性的な金釘文字だった。タイプ印刷でなくすべてが手書きだった。今時分、何から何まで手書きでハガキを送る人は珍しい。誰だろう?手に取ってみるとハガキの裏にも表にも差出人の住所も名前もない。------文面を読んでいくうち、半年前に道の駅で会ったあの自転車乗りだとわかった。

 

-----『ご記憶いただいているでしょうか、絵描として道が開ける出会いに賭け、自転車で日本を走っております、二平でございます。

昨年、8/3、道の駅でお声をかけてくださり、バックを頂きました。食料もたくさん、そして、お金と名刺まで---

 その節は、本当にありがとうございました。

 

私は今、長崎の平戸におります。3月中頃、又、本州を北上してまいります。内田さんも走っているのでしょうか。(私と一緒にしてはいけませんが----

土地の方から声をかけていただけるだけでも嬉しいのです。受け入れていただけたように思えるものですから。ですから、内田さんのようなご厚意を受けさせて頂けた日は、本当に幸せな気持ちにさせて頂けます。

本当に、ありがとうございました。

ご健勝お祈りいたします。』------

 

   

 

 2月20日消印のハガキには住所も氏名もない。住所不定、流浪の人らしいハガキである。返信も出せない。

 暖かい九州といっても2月では長崎もまだ寒かろう。元気でいるならじっくりと話でも聞きたいものだ。---いろいろな生き方があるな。二平さんも何かと辛かろう。夢を追う人は皆、現実の辛さとの闘いだ。