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別格二十寺・5日目 走行75Km累計175Km 4番「鯖大師宿坊」宿泊

 

日本人の遍路もオランダ娘も朝の7時になると私以外の全員が2台の車に分乗して道の駅まで送られていった。

私は荷物を自転車に積み込むと7時20分に「さかもと」を後にした。苦労して登ってきた分だけ戻るときは快適な下りの道が続く。今日は勝浦町に戻り「立江寺」へ向かう途中で「22号線」に進路変更、次に「24号線」と進む計画だ。そこから先は海岸に出るか「星越えトンネル」の山道を行くか状況次第。

勝浦町に向かっていると前方を大きなリュックを背負ったお遍路さん、よく見ると女の外人が歩いている。通り過ぎてから、はっ?もしかして?とその場でUターン。自転車はこの小回りが利くからよい。大型のオートバイだとそうは簡単に小回りできない。

「あなた、ひょっとしてスイスの人?」と尋ねるとうなずく。よく見るとなかなかの美人である。30歳代だろうか金髪の髪を後ろに束ねている。

「昨日、山道で遭ったね。おぼえている?」

すると目を丸くして、ああっ、あの時のという顔でコックリうなずいた。

「私は昨日歩きだったけど自転車のお遍路なんだ。あなたは遠い国から来たね、頑張って」

手を振って別れた。女一人、勇敢にお遍路に挑戦しているのをみて黙って通り過ぎる訳にはいかない。エールを送らずにはいられないのだ。見知らぬ人から声をかけて貰えることがどれだけ力になるか。何十日も歩き遍路をしたから私にはそのありがたさがよくわかる。人を励ますのは人だ。

 

 勝浦町に戻りコンビニローソンのある信号丁字路を右折すると上りの道が始まった。2日前に下ってきた坂道だ。昨日一日自転車に乗らなかったのでゆっくりとした上りがきつく感じられる。「22号線」に入り間もなく「24号線」に進路を変え最初のチェックポイント「福井ダム」で最初の休憩を入れようとペダルを踏み続けた。押して上るような急な坂はなかった。

中間目標の藤井ダムには10時に到着し「薬王寺」のある「日和佐」までどうしようかと思案した。

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今までに自転車、歩き、オートバイと3回お遍路をしたがここからは3回とも田井ノ浜の海岸線を通っていた。この海岸線は景色こそいいが松林の中を坂道と曲がりくねった道が延々と続き曲がっている分だけ距離もある。今まで違うルートを通ろうとしなかったのは変化を恐れていたからだ、今回は「星越えトンネル」コースを通ってみよう、と方針を決めた。

 

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24号線を経て55号線に行くことにしたがすぐ脇を通る自動車専用道路が無料区間のためほとんどの車はそちらに流れここを通る車はまばらだった。「星越えトンネル」の前後も厳しい勾配はなく思いがけず、その先は下りの長い道が続いた。快適なスピードで走りつづけ昼12時には「日和佐」に到着してしまった。このコースは峠道に違いないが恐れるほどの事は無い。むしろ快適だ。知らなかった。

「室戸岬」の標識がこの辺になるとポツポツと道路案内に出て来た。日和佐から室戸岬までは約80Km 。「鯖大師」までが約20kmで今日の到着地点をもっと先に設定しておけばよかったと後悔が浮かんだ。しかし昼になって今日の宿をキャンセルしても次の宿が見つかるとは限らない。

「今日は暑い。無理するな」と自分に言い聞かせ日和佐駅前の食堂に入るとゆっくりと時間をかけ食事をした。すべての計画は順調で予定どおりだ。

 

午後3時近くに「鯖大師」に到着し納経を済ませると頭を剃り上げた小柄な老人が「自転車では大変だったでしょう」と声をかけてくる。その人がここの住職だった。

事務所の裏には2階建ての大きな宿坊が建っていて大人数が泊まれそうである。「今日の宿泊は何人ですか?」と尋ねると

「今日はお宅だけ、おひとりです。----昨夜は60人の団体さんがお泊りでしたが」

の返事に一瞬絶句してしまう。こんな広い宿坊に一人だけとは何ともさみしいではないか。

「自転車も玄関の中に入れて結構です、夕食は5時からです」

風呂とトイレの付いた2階の和室部屋に案内すると住職は「それまでごゆっくりと」と出て行った。

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 風呂に湯を張り洗濯機を使い、ひと段落し缶ビールを飲み終えると夕方の5時になった。外はまだ明るかったが5時に夕食と言われれば従わねばならない。階段を下がりまた上がり別棟の食堂に。食堂は50畳ほどの広間にテーブルが一列並びその隅に一人分の料理が用意してある。昨夜はこの広間が宿泊の人で埋め尽くされていたはずだ。

座布団に座ると待っていたように住職が奥から現れ私の目の前に座り「それでは食事の前の挨拶から始めます」と合掌「後に続けてご唱和ください」と食前の言葉を唱え始める。

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 「一粒の米にも万民の労苦を思い---
「一滴の水にも天地の恩徳を感謝し---
「ありがたくいただきます---

 

 他に宿泊者がいればブツブツ呟いて誤魔化せるが一対一で向き合っているのでそうはいかない。正座のまま住職の唱える言葉を繰り返した。「では、ごゆっくり召し上がり下さい」料理は精進料理が主体、カツオの刺身も付いていた。広間でポツンと一人で食べる食事にはさびしいものがあった。

 

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「朝は6時に『護摩焚き』があります。何か希望があれば用紙に書いて申し込んでおいて下さい」と言う。

その言葉にふと三人の顔が思い浮かんだ。二人は親戚で事故のため半身不随の生活を送っている。もう一人は3年前に亡くなった母。いい機会だ、健康の回復と冥福を祈ろう。用紙と祈祷料を払い部屋に戻ると明日の宿を探した。室戸市の宿坊「金剛頂寺」は人気があり駄目だと思っていたが予約が取れた。ついている。明日は今日の75Kmより距離が短い。休養日と考えよう。連日余裕があり疲労困憊の兆候が無い。何度か遍路を経験したからこんなゆとり旅ができるのだな、と以前の苦しさを思った。苦あれば楽あり、上りあれば下りあり、自転車で来てよかったと思うのだった。

 

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別格二十寺・6日目 走行75Km累計250Km 「金剛頂寺宿坊」泊り

 

午前6時前、教えられた宿坊の通路に白衣を着て入って行くとそれは地下を通じ別の建物「護摩堂」につながっていた。私は「護摩」と言うのは初めての体験である。何が起こるか、どうするか、何もわからない。他人がいれば真似をすればよいが夕食の時と同じく参加者は私一人だ。窓の無い暗い室内は天井が高く、周囲に配置されている仏具や仏像が黄金色に輝いて蝋燭の炎を反射していた。

一角の椅子に座ると、昨日の住職が待ちかねたようにきらびやかな法衣をまとって現れた。中央の席に座るとその前には木札が幾重にも積み上げていて呪文のような言葉が語られ幾度も前のめりになり頭を垂れた。火がともされ積み上がった木の束が静かに炎を広げていく。悩み、訴え、望み、祈りの書かれた木札が炎の中に住職の手で願いの趣旨を述べながら投じられていく。最初小さかった炎は勢いを増し「ゴーッ」と音を立てて天井に伸びていく。炎が音を立てるのを恐ろしい思いで見ていた。お寺が火事になるのは無理もない。見上げると炎は天井近くに達して防火防炎の加工がされているだろう天井に吸い上げられていく。宿泊者だけでなく全国から郵便で届いた願いが何件となく読み上げられた。さまざまな願いがこの日、炎と共に昇華していった。これが護摩焚きだった。

 

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「鯖大師宿坊」を出たのは8時前で今日の目的地「金剛頂寺宿坊」迄は70

Kmほどだ。今日は海を左手に見ながら海岸の55号線を一直線に進むだけだ。海沿いなので坂道はほとんどない。荷物を積んでいると平地で平均時速15Km前後、計算上は5時間あれば到着できる予定だった。早く着きすぎても宿坊のチェックインは午後3時からで、どこかで時間調整する必要がある。

 

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2日前からブレーキをかけるたびに前輪からいつもと違う「スー、スー」と妙な摩擦音が出ていた。長い下り坂が続く処ではスピードを殺すためブレーキをかけ続けたがそれですり減ったせいかちょっと見だけではわからない。凸凹の「山」はあるのでそれ以外の理由だろう。修理工具は持っていても理由がわからない。自転車屋が見つかれば立ち寄ろう、と国道から離れ旧道の街並みを進んだ。

走り始めて間もなく海陽町で散歩中の人に尋ね自転車屋を教えてもらった。その店主はブレーキのシューではなくワイヤーのせいかもしれない、もっと大きな町、室戸市か高知市の自転車屋さんでないとこれにあったワイヤーは置いてないだろうという。ざっと見てもらったが一応ブレーキは効くし特に目立った異常はない。

途中で「佛海庵」で休憩を入れようと自転車を停めふと振り返るとベンチの上に鎖でつながれた犬がおとなしく寝そべっていた。その犬に見覚えがあった。

3年前にこの数キロ手前「東洋大師」に立ち寄った時、茶色の犬が大人しく店番をするように寝転がっていた。脇をお遍路が通ってもじっと見るだけで吠えもしない。その犬が住職の替わりのようで面白かったがその犬に顔が似ている。私も犬を飼っていてすこし見ていればこの犬がどんな性格かは判る。場所こそ違うがその時の犬によく似ているのだ。

 

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道路の端には車を停め周りの草刈りをしている人がいたのでこの犬の飼い主に違いないとひらめきその旨を尋ねると果たしてその通りだという。「東洋大師」の住職がここを管理清掃に来ていたようだ。奇遇だった、また会えるとは。それも住職ではなく番犬に。

そこを出てしばらく走っていると後ろから来た車がクラクションを鳴らし追い抜きざまに窓から手を振り少し先で停車した。何だろう?と思い近づくと水筒のホルダーを窓から差し出して、それはついさっき休憩した時に私がうっかりしてベンチに置き忘れた自転車用ドリンクボトルだった。

「ありがとうございます。うっかりしていました、助かりました」と言うと

「よくもまぁーまた会えたものやなぁ」奇遇に驚いた様子だった。助手席にはさっきの犬がちょこんと座ってこちらを見ていた。忘れ物を犬が助けてくれたと思った。

 

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海岸線では背後から風が押し続け、以前に歩きで廻った時は向かい風だったのを思い出した。なんかついているなぁ、と鼻歌が出る気分で室戸市に近づくのだった。

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室戸市のシンボルのひとつ「御厨人窟」(「御蔵洞」みくろど)に着いた。前回ここを訪れた3年前は洞窟の中に入れたが今では禁止になったという話を聞いていたのでどうなっているのかと寄ってみたが二つある岩穴の両方に立ち入り禁止の看板と柵があって人が近づくことを拒んでいた。

入口にある売店に立ち寄り尋ねると

「上の方からさっきも岩が落ちてきてね、あの下にいると危ないのよ」

とおばさんは老朽化の激しさを教えてくれた。3年前の2015年に来た時、ビデオで内部を記録し「ユーチューブ」にアップしておいた。まさかあの年が中に入れる最後の年になるとは、と感慨深いものがあった。

 

参考・3年前の御厨人窟」→    https://youtu.be/dGbztyD4zZo

 

室戸市に入り八十八霊場「津照寺」の先に自転車屋のあるのを教えてもらい寄って診てもらったがやはりブレーキシューは減っていない。ワイヤーのカバーに擦り傷がありそのせいかもしれない。高知市内なら店があるだろうという。停止するのに問題はないし様子を見ることにした。

時間は午後2時にもなっていなかったが「金剛頂寺宿坊」に行くことにした。この寺は「いろは坂」のような急坂が駐車場まで1Km以上続き荷物満載の自転車では登りきれない坂なのを知っていた。ほとんど押して登ることになるだろう。時間がかかる。

この日も日差しが照り付ける日だった。本当に四国、特に高知県は南に面していて暑い。坂道をがんばって登れるところまでペダルを漕いでみたが曲がり角が2つ目のところで限界になった。スピードが出ないとバランスを崩し倒れそうになる。メーターが時速6Km まで落ちたのを数字で見ていたが太ももの裏がケイレンしそうになり自転車を降りる。残りの曲がり角はあと10か所以上はあるだろう。足元を見つめながら押して登るのだが汗が目に流れ込んでくる。両手で自転車のハンドルをつかんでいるのでぬぐう事も出来ない。サングラスに汗が滴り落ち塩分の膜を張る。視界がボヤ-と不鮮明になり時々立ち止まってペットボトルの水でサングラスを洗う。

 

「押して登っても2Km、こんな苦労は30分もあれば終わる」「頑張れ、登りだけの坂は無い」「地獄の後は天国がある」

何度か立ち止まり、片手でブレーキを握りながら水を飲んだ。ブレーキをかけないと自転車は勾配で後ろにずり落ちてくる。駐車場にたどり着いたのは押し始めてから35分後だった。この30分で1Kgは確実に痩せたと確信した。数百メートル離れた宿坊にたどり着き玄関に自転車を置いたのは午後の3時前だった。

26番札所の金剛頂寺は脇道にある専用通路を通れば宿坊からは100mほどしか離れていない。本堂と大師堂を散策し日陰で疲れを癒した。覚悟していたとはいえ急坂だった。

 

丁度3時に宿坊に入ると誰もいないはずがすでに先客がいた。早く着いたので部屋に入らせてもらっていたという。律儀に3時からのチェックインを守り馬鹿正直にして損した気分になった。言われたこと、言った事を守る損な性格だ。もっと自由になればいいのに。「さかもと」で出会った青森からの女遍路さんを思い出した。あの人はこだわりがなく誘われれば車にも乗り、その日その日を臨機応変でお遍路をしている。うらやましいと思ったが生まれ持った性格はなかなか変えられないものだ。人はその人なりの性格を持って生まれて来ている。運命として受け入れねばならない。そのうちにいい事もあるさ。

 

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汗を洗い落とし、風呂につかると太ももの裏をじっくりと揉みほぐした。昨日も夜中に、太ももの裏が突然ケイレンしそうになり明け方にびっくりして目を覚ましたのだった。ケイレンし筋肉が硬直しかける寸前に両手で押さえつけ脚力の使い過ぎを自覚する。しかしだからと言って休む訳にはいかない。ゴールデンウィークの始まる前にはこのお遍路を終わらせなければならない。今日が4月の13日で2週間たつと混雑でどこも宿は取れなくなるだろう。それまでに残りのあと16の別格寺を終わらせねば----。

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夕食には10名の旅人が食卓を囲みその全員がお遍路だった。日本人のほかデンマークからの若い女性遍路も二人混じり終始賑やかな夕食になった。料理は豪華でボリュームも満点、食べきれないほどの食材に感嘆の声が上がっていた。

 

 

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別格二十寺・7日目 走行81Km累計331Km 「ビジネスホテル土佐路」泊

 

  この日、奇妙なことが起こった。

朝食の席の出来事だった。食事が終わりお茶を飲んでいると私の隣に座った男の人が先隣の人との会話でしきりに「ヒタチ」と言う言葉を使っている。茨城県の日立市の事を話しているのか?ひょっとして同じ茨城から来ているのか?----そこで

「失礼ですが『ヒタチ』と言う言葉がさっき聞こえたんですが、ひょっとして茨城県から来ているんですか?

言葉の端々に聞きなれたイントネーションも感じていた。彼は、そうです、日立の北の方です、とやや尻上がりの話し方で言う。

その男は私とほとんど齢の変わらない67歳と言った。それまで茨城県からお遍路に来ている人と誰とも会わなかったので「私も茨城県なんですよ、潮来から来ました」と親近感を感じた。これまでもお遍路をしていて同郷の人会う機会は無かったのだ。

「失礼ですがお名前なんて言うんですか?」と思わず名前を尋ねた。---するとその聞いた瞬間、頭の中でもう一人の声が響いた。

 

「『大内』って言うよ」と。

 

-----その声は「私」の耳の奥で囁いた。大きなステレオヘッドフォンで両耳を覆うと、響いてくる音楽が頭の中枢を支配し響くように、その声は

 

「『大内』って言うよ」と聴こえたのだ。

 

---はっ?何?今の声? ----誰?---誰の声?

『大内』の文字も、まぶたにすーっと降りていた。私の中で何かが起こっている?今の聞こえた声、まぶたに浮かんだ文字は何---?幻覚?---幻聴?何、今のは?---確かに聞こえたぞ。

 

すると一瞬置いて、その茨城出身の男は私の顔を正面から見ると

「私の名前は」と一呼吸置くと 「-----『大内』と言います」

と答えた。

瞬間、私は凍りついた。鳥肌が立つとはこのことだ。こんなことってあるのか??名前が浮かんでくるなんて! ----ここにいる全員、初めて会った人なのに!

私の中に変なことが起こり始める予感がし、背中に鳥肌が立った。

 

 デジャブという現象がある。

 (フランス語でdeja vu=already seen。日本語訳「予知夢」。平たく言うと『これは前に見た』とでも訳す言葉)

---人は生まれ変わるという説を、その言葉で説明する人もいる。しかし、今のはそれとは違う。

頭の中で誰かが

「『大内』っていうよ」

と言い、その声を聴き、文字迄が頭の中に浮かんだのだ。妙な現象が私の中に生まれ始めているのか。確かに、誰かが囁いたのだ。

---食卓を囲みながら私は一人だけ浮いていた。気味の悪さを全身で感じていた。

 

この朝、テレビの天気予報では午後からの雨を予想していた。今まで晴天が続いていたが午後から明日の朝まで激しく雨が続くだろうとの予報だった。

自転車を漕ぎながら朝の奇妙な「予知」体験に不思議さと興奮が残っていた。寝不足からの幻聴、幻覚ではない。どう考えてもあのほんの数秒のやり取り、奇妙な瞬間は説明できない。頭の中にその人の名前が声と文字になって浮かんでくるなんて誰も信じない。こんなことを言ったら自分は精神異常と思われるだろう。昂ぶった神経が一日続いた。

 

今日のルートは高知市まで海岸沿いで坂はほとんどない筈だった。以前に自転車で走った時の記憶でも海沿い遍路道で苦しんだ記憶はなかった。高知と室戸間の「神峯寺」の急坂で辛い思いをするが「別格」だけお参りするのでそこを通る必要もない。一気に室戸市から高知市まで行ける筈だ、とこの日の距離を80Km程度に計画していた。雨が昼前に降り出せば雨の程度では市内まで行けないかもしれない。雨の走行は滑りやすく視界も悪くなる。どこに宿をとるかは昼まで走ってから決めよう。

「金剛頂寺」から下った海岸には今まで訪れたことのない「不動岩」と言う名跡があるので立ち寄ることにした。海に面した岩肌でかつて空海が中国から戻ってからしばらくの間修業したという場所である。今では遊歩道コースになっていてその通りを歩いてみると見晴らしの良い岩場があり窪んだ洞穴もある。そこから海を見ると太平洋が左右に拡がり打ち寄せる波音が聞こえて来る。沖合に小さな漁船が揺れ絶景である。空には明るさが残っていて雨の降り始めは午後になるだろうと自転車を漕ぎ始めた。

 

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田野町、安田町を通り、場所によっては歩き遍路道をたどって旧道を走った。国道は車が急ぐ道で旧道は風情を味わいながらゆっくり走るのに適している。ここも歩いたな、と所々に歩いた時の思い出が蘇ってくる。オートバイで廻った時の記憶はほとんど残っていない。旅はやはり歩きか自転車に限る。遅いほどに音、香り、景色は味わえる。健康だからこそこんなことが出来るんだな、と改めて感じるのだった。メーターを見ると時速15Km前後で走っている。歩きの3倍から4倍の速さだ。息が切れるような運動量ではない。こんな調子ですべてを回れるなら自転車は最高の旅の友だ。

安芸漁港に着いたところで国道55号線からサイクリング専用道路につながる始発点になった。海と国道の境に舗装道路がありそれがサイクリング専用道だ。車も信号もないし坂道も無いだろう、と嬉しくなった。

 

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漁港を見ると広い一角に一軒だけポツンと建物があって駐車場に車が何台も集まりはじめている。時計を見ると11時になったばかりで食堂かレストランの開店時間のようだ。漁港のこんな外れで何の営業をしているのだろう、好奇心から寄ってみると「安芸しらす食堂」の看板。サイクリング道路に入ったら食堂が見つからないだろう、朝から走っているので早目の昼食にしようと立ち寄った。1階がシラスの土産物店で2階の食堂は30人ほど入れる店になっている。11時の開店と同時に3割の席はすでに埋まっていた。有名店らしい。海の見えるカウンターに座りシラスだけのメニューの中から代表メニューらしいセット料理を頼み食べたが獲りたて新鮮、にぎやかな雰囲気の中で食べる料理はおいしかった。

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私は家では朝食の時に必ず小女子やシラスを白いご飯にかけて食べるが「別格二十寺遍路」に来てから全く食べていないのに気が付いた。食べ方に独特の工夫とこだわりを持つ店だった。醤油のほかにスダチや七味がテーブルに置かれお薦めの食べ方のアドバイスをしてくれる。

昼食を終えるころ天気図をスマホで確認し雨の降り始めは3時頃だろうと予測すると市内の「ホテル土佐路・高須」に予約を入れた。雨具はいつ降って来てもいいように荷物の一番上、降り始めたらすぐ着用しようと準備。まだこれくらいなら雨具を着なくてもいいか、と雨に濡れながら走り、気が付くと適当な着替えの場所もなく靴の中までびっしょりという事がよくある。善は急げ、雨具も急げ、だ。

 

(サイクリングロードの光景はユーチューブで見られます。)

https://youtu.be/bDM75gWl5D4

 

走っていると「跳ね橋」がちょうど天に向かって開いているのが目に入った。港へ船が入る瞬間だったに違いない。妙なタイミングで脇を通ったものだと思わずカメラを向けた。 

 

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サイクリング道路は一切障害物が無く快適で風が背中を押してくれた。午後になってホテルに向かうため一旦高知空港を目印に走った。その方が近道なのだ。車の通りが増え始めた頃にボッリと雨粒が頬をかすめた。いよいよ降ってくる。空にはまだ明るさが残っていたが公園を見つけると上下に雨具を身に着け靴も専用カバーで覆った。ズボンの雨を靴の外に流さないと伝わってくる雨は靴の内をビショビショにする。それをオートバイで体験していた。失敗は後々の良い教訓になる。愚かさを繰り返さないために失敗も必要だ。

 

午後4時近くにホテルに到着したが1時間雨に濡れて走り指先が冷たくなっていた。自転車を軒先に仕舞うと両手に荷物を抱え部屋に入った。この日の走った距離は81Kmだった。

 

サイドバックはオルトリーブ製で荷物の防水は完璧だった。高くてもやはり良いものは良い。大きな目で見ると高くても良いものは長い間に得になる。ある時期から私は中国製の安いものには見向きもしなくなった。所詮安物はそれだけの価値しかないと気が付いたからだ。

風呂に入り体を温めるとフロントで食事のできる店を尋ねた。近くにラーメン屋があるのを教わって傘を借りたが店の麺は期待外れだった。やはり四国は「うどん」が一番似合っている。

 

「別格二十寺」は「八十八四国霊場」との合計(20+88)が百八の数、つまり煩悩の数と同じになるよう50年前創設された霊場だ。何冊か別格の本の地図を見たが「遍路道保存協会」が発行しているような「この道を歩くことで弘法大師が昔歩いた同じ道を歩いたことになる」という道順が無い。車の移動を前提にしている。現代になって数合わせのため作られた霊場、の印象を持つのは私だけではないだろう。「別格」遍路道がないなら自由にルートを選べばいい。そう結論して私は自身のルートで走っている。

 明日は高知市内から「窪川」に行こう。距離はだいたい80Km前後のはずだ。---宿の空いているのを期待し電話すると窪川の「岩本寺宿坊」はすでに満室だった。他をあたると岩本寺の通りひとつ先「美馬旅館」が空いていた。明日は大変な一日になりそうだと思った。

明日のルートは幾つもトンネルがある。トンネルがあるという事は山がありその前後には坂があるという事だ。3年前土佐市の「国民宿舎・土佐」から黒潮町「民宿内田」迄自転車で走った時、長い坂に苦しんだ記憶がある。それをまた繰り返すのだ。雨も止むかどうか不安のまま眠りについた。

 

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別格二十寺・8日目 走行97Km累計428Km 5番「大善寺」、「美馬旅館」泊

明け方になって雨の峠は過ぎた。朝食を済ませホテルを出る7時過ぎには空は明るくなり天候は回復に向かっていた。

 

高知市と土佐市の間を結ぶ「浦戸大橋」はその下を大型旅客線が通過できるように海面より50mの高さに架かっている。車には便利だが歩行者や自転車にはスリル満点の橋になる。歩道は片側だけにあるが幅は60Cm。対向してくる人や自転車があるとすれ違いも難しい。自転車では海風に押され車道によろめく危険性もあり高所恐怖症の私には命がけの橋になる。

過去に自転車と歩きで渡ったが橋の中央に行くほど高さは増し恐怖に身がすくんだ覚えがある。背筋が凍り、渡り終えると脚と背中の筋肉は緊張で凝り固まっていた。その同じ道を走りたくはない。今回は橋を通らず浦戸湾の西側の道を行くことにした。市内の「はりまや橋」まで行って南下しトンネルを抜けるルートなら橋は通らなくて済む。

 

初めて通る「宇津野トンネル」を過ぎてから丁字路で36号線に右折することにした。海岸にまで行ってしまうと須崎市までが遠回りになるのが地図で分かるのだ。なるべく斜めに横断して短い距離で合理的に行こう----

しかし、これはあとになって気が付くのだが単純に海まで行って右折しそのまま直進した方が一目瞭然で判りやすかったと後悔した。

 

理屈として「直角三角形のABC3点を結ぶ斜線ACは、直角に隣接するABBCの合計より短い」は正しい。

しかし斜線上に分岐がいくつも現れ、しかも一直線ではなく微妙に蛇行していると迷いを繰り返す。結果として大差はないのだと気が付くのだった。

一番目の「種間寺」を最初の目標地点として走ったが予想したよりも時間がかかった。「種間寺」を過ぎ14号線を走るとそこから南に「仁淀川」沿いに海を目指した。14号線から23号線へ「仁淀川口大橋」を渡ったが左側に海を眺めながら潮風を受けて走る海岸線の光景は雄大だった。お遍路では決して通らない道である。自転車で走ってよかったと思うのだった。

 

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「宇佐大橋」と「浦ノ内湾」を左に見るころに大きなリュックを背負った歩き遍路がステッキを両手にのっしのっしと前を歩く姿が見えた。脇を通り過ぎる時「チリーン」と挨拶のベルを鳴らしたがじっとマップを見つめながら歩いているのに気づき「どうしました?大丈夫ですか?」と声をかけた。

肩幅のがっしりとした外人の中年女性で、後姿は男かと見間違う体形だ。オーストラリアから来て歩いているという。

「フェリー乗り場がある筈だけどもう少し先?

と船乗り場を探しているようだ。私は乗り場を知らずそこで別れたが数十秒も走ると乗り場が見つかったのでUターンしオーストラリアの彼女に教えた。 

日本人なら判るが外人は漢字が読めないで乗り場を見過ごすと考えたからだ。この「浦ノ内湾」船のルートはお遍路道の正規ルートのひとつで私は一度も利用したことはなかった。湾の右と左に歩き遍路道がありそれらは歩きと自転車で経験していたが船で走る第三のルートは未経験だ。好奇心が起こった。そうだ、いいチャンスだ。自転車で渡し船に乗ろう。

発着場に着いたが事務所らしい小屋はあるが人がいない。釣り糸を垂れている人がいたのでどこで切符を買えばいいのか尋ねると

「船が小さいので自転車は分解しないと載せてくれんじゃなかったかな。---あっ、今日は日曜で休みや」

なんと日曜は欠航だという。船なら湾の奥まで40分ぐらいだが歩くとなるとこの先2時間はかかるだろうという。この日は日差しが真上から照り付け暑い一日になりそうだった。英語で説明するとオーストラリアの女性が「どうしたらいいの?」と問うので

「歩くしかない。他に方法は無い。---それとも泳いでいく?」と海面を指さすと肩をゆすり「ホーッ、ホホホ」と笑っている。落胆する様子もなく泰然自若と「仕方ないわ」と言って今日の運命を受け入れるようだ。歩きも自転車も日差しがしんどい日だった。

 自転車を漕ぎ続けやっと湾の一番奥に到着するとトイレと駐車場がありここから先は山に向かう道になる。木陰に腰をおろし昼食の時間にしていると一人の自転車遍路が後からやって来た。こんにちはと挨拶を交わし拝見すると彼の自転車は20インチの小さなタイヤで私同様に後輪の両脇にはバッグを下げ、前と後ろには野宿道具も整然と積みこんでいた。毎日70Km80Km位しか走らいないというと「えっ?そんなに走るんですか?」と驚いた様子で「小さいタイヤだとそんなに走れないです」とこぼしていた。情報交換するとやはり自転車のお遍路はめったに見かけないという。彼は36歳、私の年齢が66歳と知ると自分の父親とあまり違わないと驚いた様子だった。

 

 湾を後にして上りの道になるとトンネルが見えた。今日の最初の坂道だがこの時点では押して登るような勾配では無かった。坂を下ると須崎市の街並みが広がってくる。橋を越え市街地に入り「大善寺」迄近道をしようと川沿いの道を左折すると造成された商業地帯の袋小路に迷い込んでしまった。フェンスが周囲を取り囲み、出られなくなり右往左往した末にやっと国道56号へ出た。ここでも10分以上時間を無駄にしたが近道は時々かえって遠回りになる。今日一日で2度も見た目の近道に惑わされてしまった。

 

5番「大善寺」はその場に行くまで看板が見当たらないわかりにくい寺だった。地図を見て見当をつけ、ああっ、この大きな建物か、と近づくと別の神社だった。通りかかった人に尋ねてその100m先だと判ったが別格の寺は判りづらい。人の通る表通りに案内表示を出さない寺が多いのも判りにくい理由だ。

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小山を背にした「大善寺」駐車場には人影もなかった。山の上に本堂が鎮座して、コンクリート階段を黙々と上って行く。お年寄りにはとても登れない階段が続き山の上に着いてみると使用中止か廃止になっているのかレールが別方向の麓に向かって伸びている。お寺用に作られた特製小型ケーブルカーらしいが急傾斜で乗るのも怖い。山の上だけに境内からの海の眺めは絶景だった。

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下に戻って見回すと賽銭箱を置いた建物に一枚の「案内」が貼られている。マジックインキで書かれた内容は100m離れた建物に「〇〇会館」がありその中の一角に社務所があるから納経帳に記帳したい人は訪ねよ、と手書き地図も添えてある。さっき間違えた神社の隣である。訪ねていくと薄暗い建物の奥に呼び鈴があり鳴らすと奥から人が出てきた。日本語の読めない外人は困惑する事だろう、数日前に会ったスイス人女性を思った。あの人も別格を含め百八の寺全部を回る予定で歩いていた。

 

私は今回の「別格二十寺自転車遍路」の計画を立てた時

  1. 歩きで山道が大変そうな寺はどこか。

  2. 自転車で走るのに大変そうな道はどこか。

幾つかマークしていた。グーグルマップの地図を利用し「高低差地形図」と「写真地図」を見比べ山の続きそうなところは候補から外していた。しかし避けたくてもどうしても避けて通れないルートがあった。その一つが今日の「七子峠」だった。

「七子峠」は標高が297mでその道は坂の始まりから上り終わるまで6Kmに渡って途中平らな所がない峠だ。それは4年前に実際に経験していた。すべて舗装され車のドライブには快適だが自転車や歩きには根性試しの峠となる。自販機や売店、民家も無い。

しかし峠を越えればほぼ下りの道が窪川まで続いた筈だった。62歳の時の私と66歳の私とどれだけ違っているか確認する日でもある。

 

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須崎市を過ぎて「安和」の信号で停車すると数百メートル直線の続く先に「焼坂トンネル」が見えた。すると「ああ、あそこまで行くのか」と精神的にひるんでしまう。行動に移る前から先回りして汗と疲労を想像し、見ただけで嫌になる。肉体の防衛本能の一種かも知れない。止めた方がいい、またあんな目に遭うぞ。くたばるぞ。しかし行かねばならない。ほかに道は無い。

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前を見ないで足元だけ見ろ、その瞬間だけに集中しろ。あそこまで、なんて先の事を考えるな。この一踏み一踏みに集中しろ。

 

トンネルがいくつも続き歩き遍路は一人もいない。もちろん自転車遍路も見かけない。時折車だけが通り過ぎて行く峠になった。じつに閑散としている。右に傾きカーブしていく路面では左の端から右車線の端に、左カーブでは右車線から左車線の端に道路を横切り少しでも平らな路面をとS字を描き縫うように坂を上る。立ち停まりたいような、頑張れるような、人の脚力と根性を試す「七子峠」だった。

「七子峠に6Km」の表示が最初に現れたが15分おきくらいに「5Km」「4Km」とカウントダウンを始め「七子峠に1Km」と表示が出たところで気力が戻ってきた。私は機械になりきっていた。肉体はペダルを踏む機械そのものに徹した。峠の上に出る迄泣き言を封じ嘆きを封じ、そしてこんなバカなことをやっている自分を自分自身が呪うことを封じた。私は自転車の一部であった。心を持った人でなく機械であった。

 

(七子峠到着の映像はこちらから見られます)

https://youtu.be/bxDi3ZOglvM

 

峠に達した時、風が変わった。それまで感じなかった風が顔にフーッと正面から押し寄せてきた。それは上りが終わった合図だった。結局、一度も押して歩かなかった。4年前と変わらない。峠も、自分も。

 

「地獄が終わった」

予約していた宿には峠に入った段階で到着時間がかなり遅れる見込みだと連絡を入れていた。内心、果たして到着できるだろうか確信も無かった。ボトルの水は峠にたどり着いた時もうちょっとで無くなりかかっていた。一軒だけポツリと立っている「ドライブイン七子茶屋」で飲料水を補給すると機械に徹していた意識が人間に戻ってきた。

峠を越え、ペダルを踏まずに走る幸せを味わっていた。窪川に入ると「岩本寺」を目印に街中を走り続けた。外はまだ十分に明るかった。夕方の6時きっかりに宿に到着した。2時間前、峠の手前では「ひょっとして7時過ぎになるかも」と思っていただけに自分自身がびっくりするのだった。

この晩のビールは遍路旅に出て以来最高の味だった。冷えた生ビールが一気に身体に染みわたった。この日の行程は80Km予定していたが宿に到着するとメーターは97Km、今までに最高の距離、中身も一番濃い走りの日になった。

 

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夕食後この「美馬旅館」2階の部屋に戻るとカーテンに浸み込んだニコチンの匂いが身体に染みついてきた。タバコが大の苦手な私は敏感に反応し頭痛がしてくる。このままでは体調を崩す、とおかみさんに申し入れると1階の別の部屋に替えてくれたが昔風の作りのこの旅館では禁煙室も喫煙室も無いのだろう、短時間のうちに身体に染みついたニコチン臭は気分を悪くしこの旅館を選んだことを後悔した。

 

子供に何か異常がある家庭で親のどちらかが煙草を喫っているケースが実に多いのに私は気が付いていた。肉体に染みついたニコチンの毒素が細胞組織に入り込み、傷つけ、健全さを損なった細胞が本人だけでなく子供に遺伝子として伝わって行く。喘息の子、アトピー皮膚炎の子、知能障害のある子、気をつけてみていると子供の疾患は親が原因になっている。煙草を喫っているかどうかを私は1m内にその人が近づいただけでわかる。カーテンに浸み込んだニコチンは澱んだ空気になって私の体に入り込み拒否反応を起こした。

 

よほどのことが無い限り旅館には泊まりたくない、と思ったのはこの日がきっかけだった。この日以降、私は出来るだけホテルを、それも禁煙室を希望して泊まることになった。

 

明け方早くに目が覚め、部屋の中で予定を復唱した。この四万十町の窪川からは381号線で宇和島市方面に進路を変えるのがベストと思えていた。ただこのコースは川に沿って道がうねうねと曲がりくねっていてやたらと距離がある。山がある為に曲がりくねっているのか坂があるためなのかがよくわからない。それが一番不安だった。しかしこの道を通らなければとんでもない遠回りになり日数が増える。帰りのカーフェリーはゴールデンウィーク初日の便を予約済みでこの期間中の変更は難しいだろう。この選択、この道に賭けるしかないのだ。