このブログは2018年48日~29日、66歳の男が四国お遍路「別格20寺」を自転車で廻った記録です。その4年前からお遍路を始め88寺を自転車、歩き、オートバイでそれぞれ廻り別格20寺も加えれば108寺つまり煩悩の数になる、と挑戦した模様でこれから別格寺遍路を考えている人の参考になれば幸いです。

 

なぜ自転車で遍路?

 四国遍路と言えば八十八ヶ所の霊場が一般的だが八十八寺のほかに別格の寺が二十ヶ所存在するのを知るようになった。別格という位なのだからスタンダード(standard )に対するスペシャル(special)版なのだろう。その幾つかはかなり辺鄙な場所に籠っているようで情報も少なく、めったに行く人もいないようだ。どんな寺なのか好奇心だけはあった。

 

62歳で定年退職してから私はほぼ毎年四国に行くようになり初回は自転車だった。四国を廻ってみるついで八十八ヶ所霊場も走ってみようという極めて不純な動機で信仰心の厚いお遍路さんに恥ずかしい限りであったが結果的に、廻ってみて自転車で行くのはどうしても無理なところが何か所かあった。

そのリベンジにと翌年に歩き遍路で四国を廻った。やる以上は完璧に---この辺が自称几帳面なA型の性格の現れで、2回廻るとお遍路の道中がだいたいわかった。それなら、と3回目はオートバイで廻った。

自転車、歩き、大型オートバイ、と霊場を廻る手段の違いがそれぞれにどんな持ち味か試したかったのだ。一人旅遍路を3回経験すると観光ツアーと一人旅遍路には全く異質の苦労や感動があるのを身に染みて知った。奇妙な出会い不思議な出来事が多く、それが病み付きになる原因で、いわゆる「四国病」の始まりだった。

平成30年春先になると再び旅心が疼き始めていた。寒い冬の間はじっとしているが木々の梢に芽が吹き出すようにじっとしていられない何かが胸の中に蠢きだすのだった。

 

別格を廻る手段として第一に候補から外したのはオートバイだった。八十八の寺をオートバイで廻った時に判ったがオートバイはヘルメットをかぶりそ視界は狭く、川のせせらぎも鳥のさえずりも耳に入らない。足元に咲く花の美しさも香りも味わえず道中の人との交流もない。

北海道の一直線に続く大地を轟音を立てて突き進む時、オートバイは心地よいが狭い坂道と山の多い四国に大型オートバイは似合わない。オートバイ未熟な私にはかえって危険でもあった。

その点、歩きや自転車には般若心経に云う「無眼耳鼻舌身」の五感が伴い触れあいがあり四国遍路は歩きか自転車が向いている。

 

別格の寺を廻るのに歩きか自転車か、最後まで迷った。どちらも良いところがあり反対にどちらも辛いところがある。辛い部分ばかり思い出され決断に迷った。

歩き遍路は「小さな地獄の積み重ねの日々」と45日間歩き通した経験から骨身にしみていた。毎日30Km 歩く疲れと足のマメ、今日の宿の心配、等。歩き遍路には小さな苦労の積み重ねがあった。

一方自転車には坂道という「大きな地獄」があった。肉体的、筋肉の苦痛で四国の道は山道が至る所に待ち受け、今まで経験したこともない汗を流す日々が続いた。しかし上りがあれば必ず下りもあり「大きな地獄もあるが天国もある」と感じていた。

迷いに迷い自転車を選んだ。未知のルートだが私には八十八霊場を廻った経験がある。大地獄と天国がある自転車にしよう。

 

そう決めると出発の日まで自転車の整備と荷物の準備に時間を費やした。

「テントと寝袋をサイドバッグに積めるか?」「衣類は何日分持っていこう?」楽しい試行錯誤の日々が始まった。

 妻に心配をかけないため「日々の予定とルート」を作り終えると最後の晩になった。

 

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別格二十寺・12日目 徳島港~走行33Km 民宿「森本屋」宿泊

 

4月8日が四国へのカーフェリーが出港する日だった。

フェリーが出港する東京有明埠頭まで、茨城県潮来市から自転車で行くと100Km以上の距離があって港に行くだけで丸一日かかってしまう。早朝に出発しても道に迷えば夕方の出港に間に合わなくなる恐れがある。そこで妻に船橋近辺まで自転車共々車で送ってもらうことにした。昼頃船橋に入れば有明までの距離は30Km前後、そのくらいの距離なら脚の慣らし運動にもなり遅くとも夕方には着くはずだ。

「船橋ララポート」近くのコンビニ駐車場に車を停めトヨタのラクティスから自転車をおろすとそこで妻と別れた。自転車旅の始まりだ。

 ちなみに、四国を走るため自転車練習は全くやっていなかった。3か月以上物置で埃をかぶっていた自転車に出発2日前に「クレCRC」を吹きかけタイヤに空気を入れ近辺を30分走っただけ、それが練習のすべてである。

 

「しかしまぁ、京葉道路沿いの道は自転車には厄介な道ばかりだ」

走り始めてすぐ出発地選びに失敗したことに気付いた。自転車や歩行者向けの平坦な横断歩道はなく、交差点の都度に歩道橋を利用しなければならない交差点が多いのだ。また船橋には運河が多く、変速機のギヤを頻繁に切り替えて高低差のある橋を渡らねばならない。車や歩きでは気がつかないがアーチ形の橋はけっこうな勾配がある。

 

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カーナビをつけていないので十字路や丁字路に差し掛かる度にスマホで現在地を確認するがやたらに時間がかかる。舞浜付近では走っていた歩道がいつの間にか公園に迷いこみ、ぐるぐる回っているうちに右に行くか左かわからなくなった。千葉県境を越え東京に入った頃には汗まみれになっていた。

 

四国行きのカーフェリーにはレストランは無い。中華、和風、洋風、といろいろなインスタント食品が自販機に並んで購入する仕組みになっている。電子レンジもお湯も用意されている。しかし出来るだけ好みのものを食べたい。自転車乗りは身体が資本で食料はガソリンと同じだ。

有明埠頭に一軒だけあるコンビニはメイン道路をそれた場所に建っていた。閑散として私の他に客は誰もいなかった。会計を済ませながら

「ここじゃ場所的に客が少ないですよね」と話しかけると

「ええ。この店、カーフェリーに関係する人しか来ないんですよ」

と店員も自覚している。依頼されて出店しているようだ。やがて乗船手続きを済ませると埠頭で出港待ちの一人になった。

 

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自転車の乗船者は自分一人だけだった。バイクが数台とその他は乗用車とトラックが大半で乗船時間になり長いアプローチの橋を荷物満載のまま自転車を漕いで船内に入っていく。船内に到着すると指示された隅っこに駐輪し手荷物だけ持ちエレベーターで5階に向かった。 

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 一晩中海は穏やかだった。4月9日、お遍路旅に出て2日目、四国到着1日目になった。昼を過ぎ徳島港に着くと空は晴天で初夏の暑さだった。岸壁へ船体から伸びたアプローチ橋を下るとまっすぐ市内へ向かった。今日の宿は港から30Kmほど離れた民宿「森本屋」。地図は頭の中に入っている。

八十八霊場の一番目の寺「霊山寺」へ立ち寄り「別格二十寺」の納経札と納経帳を購入。「別格二十寺」の納経札も納経帳も「八十八霊場」と違っていて共通ではないのは事前に調べてあった。

 

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民宿『森本屋』到着は1625分だった。自転車に搭載している荷物は左右のバックに約7Kgずつの計14Kg、後ろ荷台と前の荷台には2Kgの荷物を積み全部で18Kgの荷物を積んで走っている。交差点ではママチャリにも抜かれるくらい遅く重い。私の乗っているツーリング用自転車「ジャイアント」は車体で約13Kg、総重量は30Kgになる。ギヤは前輪3段、後輪8段の24段切り替え。タイヤは26インチでツーリング、サイクリング用の自転車では27インチが多い中で少し小ぶりサイズだ。

徳島駅前で少し道に迷ったがあとは順調に進んで宿に到着すると走行メーターは33Km を指していた。初日としては極めて順調、予定通りだ。

  

その晩の夕食の席を囲む客はすべてお遍路さんだった。初めてのお遍路の方も多く「どの辺が一番つらい場所ですか」「お薦めの宿、やめた方がいい宿は?」と問いかける人がいた。この日の宿には私のほかにも遍路経験者が数人いて、薦める宿、やめた方がいい宿は共通だった。

 

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多くのお遍路にとってその宿がよかったかどうかは室内設備もさることながら宿の人の「もてなし」にあった。宿主の営業姿勢は必ずどこかでお遍路に伝わり買ってきた惣菜を食器に載せるだけの宿はお遍路たちに敏感に伝わった。冷えた料理を出す宿は嫌われ、温かみにあふれた料理と気遣いのある対応はそれだけでお遍路を慰めた。宿も人なり。賑やかな会話が続いた。

 

 

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別格二十寺・3日目 走行67Km累計100Km  1番「大山寺」徒歩9Km、2番「童学寺」ふれあいの里「さかもと」宿泊

 

この朝も快晴の日だった。お遍路さんたちの朝は早く6時には朝食が始まる。7時になると宿に残っている人は誰もいない。

この日私は一つ目の別格「大山寺」を目指す予定をたて宿に荷物を置かせてもらうと近くまで自転車で走り、坂道が厳しくなった時点で歩いて登る計画だった。この民宿「森本屋」は別格の1番目を往復するには一番便利なところにある宿なのだ。

私には今回のお遍路でこだわりがあった。徳島に入って徳島を出るまでの間はバス、タクシー、電車は利用しないという事だった。頼るのは自力のみ。脚力のみ。どんな坂道でも脚か自転車どちらかの自力で廻ることだった。理由は簡単、昔そんなものはなかった。昔と同じ条件で試したいだけだ。

 

地図上では宿から2Kmの地点にコンビニ「サンクス」がある筈でコンビニを目印に自転車で走り出した。そのコンビニ丁字路で山に向かって歩き始めれば「大山寺」に到着するはずだ。しかし2Km 走っても「セブンイレブン」はあったが「サンクス」は見当たらない。

「あれっ!見落とした?

通り過ぎて先まで行ってもサンクスは見当たらない。セブンイレブンに戻ってレジの店員に

「この店は以前サンクスでしたか?

と尋ねるとそうだという。コンビニ業界も再編成で以前の店が別の店に変わり、または廃業しているところが多い。10分以上時間をロスしたことになる。店でペットボトル2本とおにぎりやパンを買うと

「昼に取りに戻るのでそれまで自転車を置かせてください」

と断って背後の山に向かって歩き出した。地図上ではここから5Kmほど離れた山の上に目的の「大山寺」はある。標高450mの山頂なので片道約2時間というところだろう。

 

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この「標高」だが別格の寺の幾つかが標高の高いところにあるので今回特に注意していた。距離が短く標高差があると急な坂道、反対に距離はあっても標高差がないと自転車でも登れる坂道と判断できる。「大山寺」は前者だ。

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遍路地図に赤い「点線」で記された道は舗装されていない歩き用ルートで、もし強引に自転車を押して登ると斜面から滑り落ちる危険性がある。自転車でお遍路をする場合は場所によって自転車をどこかに置いて歩きに替えることも必要だ。臨機応変を心掛けよう。

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ちなみに3年前歩き遍路をした時、民宿「岡田」から「横峰寺」への山道で登り始めた斜面に裸の自転車が一台放置されていた。

「えっ、こんなところに自転車?」と驚いたものだった。

                                        (その時の記録写真)

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あの自転車は今もってそのままではないかと思う。標高差をあらかじめ確かめないとそんな目に遭う。捨てられた自転車がかわいそうだ。

 

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450mの山頂にある「大山寺」は自転車を途中で置いて歩く典型的なコースだった。誰も途中で会う人は無く、ステッキで地面を強く突いて枯葉の下に潜んでいるかもしれない蛇を威嚇しつつ登り続けた。全体に山道にしてはそれほど急な山ではなかった。ハイキングコースに近い山道だ。

 

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2,3か所の合流した舗装道路に車を全く見かけない。付近に人家もなく、到着した寺の駐車場には車が1台だけが停まっていた。

「これが別格の寺か」とその寂しさ、ひと気の無さを味わうのだった。

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寺では八十八霊場と同じく本堂と大師堂があり参拝を済ませると納経所に向かい納経のほかに念珠の球を求めた。私のほかに参拝者は誰もいない。

「別格二十寺」ではその寺ごとに念珠の球を販売していてすべてそろえると別格20寺独自の数珠が完成する仕組みになっている。私はこの数珠玉を集めるのを今回の自分への励みにしていた。頑張る目標が有るか無いかでパワーに違いが出てくる。八十八の遍路をしていた時も納経帳のページが徐々に御朱印で満たされてくるのが励みになったが「別格」では数珠玉が加わる。納経帳への記帳と数珠玉の費用はそれぞれ300円だった。

数珠玉にも「男玉」「女玉」という大きさの違いがありどれを選ぶか問われたので「男玉」を選んだ。直径1Cm 程の球である。これを20個集まめると数珠が完成できる。境内を眺め一息ついた後に来た道を下り、宿に戻ると時間は1030分だった。意外に早いではないか。

宿に戻り玄関先で自転車に荷物を積んでいるとおかみさんがやって来た。おかみさんは宿の近くでアルバイトをしているという。

「民宿のほかに別に仕事もしているんですか?」と問いかけると

「この仕事だけでは生活は難しいんですよ」

と意外な返事が返ってくる。

傍から見れば他人の家の芝生は緑に輝いて見えるもので、民宿は儲かっているのかと思っていたが経営者にとっては設備投資もあり辛いものがあるようだ。お遍路さんたちのために身を削って民宿を営んでいるのかと改めて思うのだった。自転車に荷物を満載し預かっていただた礼を言うと2番目の別格寺「童学寺」を目指し走り出した。

泊まってやる、じゃないんだな、泊まらせてもらっているんだな。おかみさんは「気をつけて」と走り去るのを見送ってくれた。

 

2番目別格寺「童学寺」は民宿「森本屋」から10Kmくらいしか離れていない。宿からの一本道を進めばよい。この調子だと昼前には着けそうだ。久しぶりの山登りで脚に疲労がたまっていたが平地なのでスムーズに走れる。

ドロップハンドルに取り付けた小さなサイドミラーには後ろから来る車が映り大型車が映ると歩道に逃げ込んだ。そして車が見えないと車道を走った。案外に歩道は段差が連続しいて車道と歩道を隔てるコンクリートを通過するたびに「ガタ」「ゴットン」と振動が伝わる。そのたびぐらつきふらふらとする。車から見れば歩道を走る自転車は巻き込む危険がないので安心だろうが走っている自転車、特に荷物満載の自転車は凸凹道を走ることになり危険いっぱいだ。

吉野川を渡ってから地図を確認し「童学寺」に到着したのは1140分だった。山に向かって走っていると坂が急に傾斜を増しはじめる。「童学寺」トンネル入り口の手前に目的地はあったがここまでは自転車を押して上るほどの坂道ではなかった。「童学寺」には交通の便がよく大型バスも駐車していた。

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門の脇に自転車を置くと納経バックだけ持って寺に入る。この寺の残念なのは本堂が昨年火災で焼失していたことだった。本堂跡は地面だけになっていて仮本堂をお参りすることになる。

色々な寺を見たが寺には過去に火事に遭っているところが実に多い。それも何度も焼失している寺が多い。お線香と蝋燭という環境が火事を招くのだろうが今回の焼失は漏電が原因だろうと記してあった。山奥でしかも人もいない場所で火事が発生すればたちまち全焼の憂き目にあう。

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昼を過ぎ今日最後の目的地、勝浦町の「さかもと」に向かった。計画では「童学寺」から46Km先になる。午前中の「大山寺」への山道、そして「さかもと」への道が今日の山場だ。幾つかの坂道が途中に待っている筈だ。

まずは自転車で徳島市内を目指した。市内を通って「恩山寺」「立江寺」を経由し遍路道に沿って勝浦に入るルートを選んでいた。車ならバイパス近道もあるが、坂道を登るので自転車では遠回りをすることになる。地形図に茶色い山があるとそのルートは坂が予想されコースから外していた。結局、自転車は車遍路よりも長い距離を走ることになる。

 

「立江寺」からの道は平坦なバイパスがあって右か左か迷い「コンビニ」で方向を確認するまで時間をロスしてしまった。尋ねる人がいない間は迷いっぱなしだ。 

勝浦町に入るまでのバイパスが一直線でやたらと長く、若い女の人の漕ぐママチャリに抜かれたと思うと見る間に遠ざかっていく。午前中の山登りが脚に来ているのだろうか悔しいけれど追いつけない。荷物さえなければ楽なのだが。

勝浦に入る長く緩いのぼりの峠道も汗を垂らして登って行く。ここも今日の難所の一つだ。長い坂道は徐々に体力を消耗させボディブローのように効いてくる。しかし坂を越えると町中まで下りが続く道になった。ペダルを漕がなくても走れるのは実に気持ちがよい。アクセルを踏むだけで済む車遍路にこの歓び、醍醐味、爽快感は味わえない。地獄があれば必ず天国がやって来る。いや、地獄が無ければ天国も無い。

 

勝浦町に入ると旧道とバイパスの分岐路の物陰で警察が一時停止違反の取り締まりをしていた。車だったら気づかずに通過するだろうがゆっくりスピードの私は

「建物の後ろに誰かいる」

と、通り過ぎる間際にそちらに目をやった。家の物陰にいた警官は白衣の自転車遍路が急に目の前に現れじっと見つめるものだから一瞬驚きの表情を浮かべ、思わずペコリと頭を下げて来るのだった。

その慌てふためく様子が妙におかしかった。悪いことをしていて親父に見つかったバツの悪い子供のようだ。数十メートル先の空き地では違反で捕まった車が数台、これまたバツの悪い表情を浮かべていた。

 

勝浦町に入ると歩き遍路が何人か目に入った。この近辺に一晩泊まり翌日に鶴林寺、太龍寺に向かうお遍路さんたちだ。私はお遍路さんを見かけるたび「チリーン」とベルを鳴らし挨拶をして通り過ぎていた。一人の女遍路はベルの挨拶に気付くとにっこり笑顔で「頑張って」とエールを返してくれた。何の反応もない遍路もいた。私なりの同じお遍路としての激励だった。

 

今日の宿「さかもと」は勝浦町の中心部を通り過ぎて7Km先にある。小学校が廃校になり町の人たちが地域活性化の拠点として宿泊や学習の拠点として活用しようと立ち上げた建物で今ではお遍路さんの宿として近辺では有名である。

数キロメートル走ると徐々に道は勾配を増してきた。途中で人に尋ねると「新坂本トンネル」の手前で右に折れていけば「ふれあいの里さかもと」は見えるという。トンネルが近づくとアスファルト道路は一段と勾配を増す。いよいよトンネルが目前に迫ると、右側の集落に降りていく分岐路が見えた。一旦立ち止まって眺めると盆地になった集落の中に小高い丘が見える。丘の頂上には大きな建物が幾つか見え、その一つが今日の宿のようだ。

登ってきた分だけ一気に坂道を下るがその先でまた丘に登らねばならない。下り終わり少し走ると再び見上げるような坂道が待ち構えていた。見ただけで絶望的になる。足元を見つめながら自転車を押し急な勾配を登って行くことになった。汗だくになりそれらしき建物のひとつにやっと到着すると、あれっ?誰もいない。電話をかけるとこの建物ではなくさらにその上だという。

スマホを持っている腕も脚も自転車を押し歩き続けたためケイレン直前だ。プルプルと震えている。うっすらと夕闇が覆い始めたころ息絶え絶えで「さかもと」に到着した。

 

受付にいた二人の女性は自転車で来るお遍路は若者に違いないと思っていたらしく汗だくの私を見ると

「ここまで自転車で来るなんて大変でしたね、もっと若い方が来るのかと想像していました」

と微笑みかける。私の年齢が気になるようで二人とも宿泊名簿を書いている私の手元をじっと見ている。その視線に気がつき私は年齢欄に「26」と数字を書き入れると二人の表情は「えっ?」と驚きに変わり目を丸くする。

「---この男の人26歳? うそー、まさかぁ」顔がそう言っている。

「-----あっ、これは娘の年齢でした」そしておもむろに「66」と数字をいれると二人は笑い声をあげた。これくらいのジョークを言う余裕がこの日はまだ残っていた。

 

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この建物は元小学校だっただけに広い敷地、広い部屋が用意されていた。観光地だと部屋の名前に「スズランの間」「楓の間」とか風情のある名前が多いが、この民宿では各部屋「職員室」「教頭室」「理科室」と学校にちなんだ部屋名が用意され、私は「校長室」だった。おおっ、俺は今日、校長か。----まずは広い風呂でじっくりと脚と腕の筋肉をほぐし一息つくと夕食の時間になった。

 

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食堂で私の向かいに座った女遍路さんは青森からやってきた人だった。私が自転車だというと

「あっ、ベルを鳴らして頂きましたよね、勝浦町で」

私はうなずいた。頑張って、と挨拶を返してくれたあの女の人だ。挨拶を交わした同志がこうしてその晩に向い合せの席に座る奇遇。お遍路をしているとこんなことがしばしば起こる。  

 

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妻に言わせると私はA型のせいかこだわりが強いタイプで、一旦こうと決めたら融通の利かない頑固さがあるらしい。今回も「遍路中はすべて自力」とバスも電車も一切利用しない方針だが、話しているとこの青森の人は自由でこだわりの無いお遍路さんだった。臨機応変、なるようになると気楽に構えてお遍路を楽しむタイプだった。こんなとらわれない考え方、生き方が出来たらどんなに気が楽だろう。自分には無いうらやましい生き方を見た思いがした。宿泊者6人は全員がお遍路だった。

 

別格二十寺・4日目 ふれあいの里「さかもと」連泊。走行距離0累計100Km +3番「慈眼寺」往復39272歩、距離換算15Km前後 

 

「さかもと」を宿に選んだのは「慈眼寺」へ行くにはこの宿が一番近く、周辺を廻る拠点にふさわしいと思えたからだった。「さかもと」から「慈眼寺」までは3Km の歩き遍路道が続き更に「穴禅定」や「灌頂の滝」と言った名所もあり、じっくり回るのに適している宿だ。そのため私は前もって2連泊予約をしていた。ここから先は荷物を積んだ自転車で行くのは無理と踏んでいた。この辺は手ぶらで歩くのがベストだ。

 宿からもらった地図には「慈眼寺」迄の歩き順、目印、所要時間が細かく描かれている。「フェンスの上の道を歩く」「民家の庭先を横切る」「コンクリートの道を辿る」など説明が実に事細かい。もしこのマップが無ければ「慈眼寺」に歩きでたどり着くのは極めて困難だという事でもある。「ふれあいの里さかもと」はお遍路の助け、地域の振興の拠点として確かに根を張っているようだ。

 

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 小さなリュックを背負いステッキを持って玄関を出ていくと以前の校庭には野外調理場があって二人の自炊する人影が見えた。色々なタイプの宿泊があるようだ。

今回私は金剛杖を持たなかった。自転車に長い金剛杖を積むとハンドルやペダルの妨げになり最初から考慮に入れなかった。代わりに伸縮式のステッキを1本用意していた。これは登山に使うもので外人の歩き遍路でこれと同じステッキを使う人を何人も見た。カーフェリーや飛行機で、金剛杖はその長さゆえ荷物になってしまう。

背中のリュックも折り畳むと卵ほどの大きさになる登山用のサブザックを用意していた。これは広げれば12リットルほどの収納量があり両手を自由にして山道を登る時に便利だった。地図、食糧、ペットボトル、納経バック程度なら一度に収容できた。登山用品は少し価格が高いが便利さと丈夫さを考えると他に代えがたい信頼がある。ステッキもザックも登山だけではなく色々な場面で活用できる。

 

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「慈眼寺」への道中は八十八遍路道の辺鄙な遍路道と同じであった。人とすれ違うのも難しい肩幅ほどの狭い小路が民家の軒先や斜面の端に張り付いていてそこを通るのだ。遍路札が要所についているので注意していれば山に迷い込む心配はない。

 

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足元には白い花が至る所で出迎え、ウグイスのさえずりがあちこちから聞こえた。そんな山道の途中に小さな避難小屋のような建物があり休憩を兼ねて入ってみたが畳敷の8畳ほどの広さで昔作業小屋として使っていたのか窓は小さく薄暗く陰陰滅滅とした空気が籠っていた。布団まで置いてある。暗い空気が籠って中に入って腰を下ろす気になれなかった。

 

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地図には往路90分、帰路75分とあるがそれはこの山道に慣れた人の速さなのだろう、朝720分に宿を出てお寺に到着したのは105分後の95分だった。

山道はガイドブックに書いてある2割増しで時間を見た方が無難といつも思う。それまでの旅人の疲れをガイドブックは考えていない。個人差もある。いつだったか山の登山ペースが早めに書いてあるので調べると20歳の男子を基準に書いてあると知り納得がいった。60歳なら、70歳ならとそれなりの余裕を考えなければならない。

 

境内に入って見回すと大師堂は目の前にあるが本堂が分からない。普通だと門を入ってすぐ正面が本堂なのだがあちこち見てもそれらしき建物が見当たらない。イメージ 15

 

納経所に尋ねると本堂は奥の院にありますという。奥の院とはここからコンクリートの坂道を500mほど上がった所だという。

 

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「穴禅定はなさいますか?」と尋ねるので、あっ、そこも行ってみたかったと

「はい、やります。お願いします」

と即決で申し込んだ。「穴禅定」もその奥の院にある。受付の女の人は

「今のところ申し込みはおたく一人だけなので1回に3000円かかりますけどいいですか?」と尋ねてくる。

3人なら一人1000円ですが他に今のところ希望者がいないので」

「それで結構です、お願いします」せっかくここまで来たのだ、チャンスを逃す手はない。金を惜しんでめったにないチャンスを逃すのはもっと愚かだ。

「今お二人さんが先に穴禅定に入っていますからその人達が出てきてからになります。人によりますが1時間位かかります。本堂の近くで待っていて下さい」と言われた。

 太さ1Cm長さ10Cmほどのローソク1本、布地の厚い白衣を渡され建物の中でそれに着替えるように指示される。荷物もここに置いて行く。渡された白衣は厚い生地で洞窟の壁で着衣が汚れない為、ローソクは照明の役割という。

「その前に、あそこをくぐれるか通ってください」

納経所の人の指さす方を見ると境内の隅に高さ1mほどの石塀が2枚平行して並んでいる。その石の間をすり抜けられるかどうかで参加資格の有無も決まるという。

お金を払えば誰でも参加できるわけではないらしい。2枚の石塀の間は幅が30Cm 位でデブは通り抜けられない。腹をへこまし石塀のあいだを横歩きで通り抜けると、その先にまた、高さ30Cm程度の石板があってそこに足がかかれば参加資格ありだという。

身体の固い人、脚が伸びない人は駄目という事だ。試してみると通り抜けが出来て脚も岩にかかった。資格はクリアーした。

数十分後に穴禅定に入ってなるほどと気が付くのだがこの事前テストは絶対に必要な条件だった。ここでつかえてしまう人は中に入ると岩と岩に挟まれ前にも後ろにも進めなくなる。「デブでなくてよかった」ほっとしながら奥の院に向かうのだった。

 

後日知ったことだが年に数度、レスキュー隊がこの洞窟「穴禅譲」の中で挟まって出られなくなった人を救助に行くことがある。狭い、真っ暗な空間、産道の中を赤子が進むかのような圧迫。心理的パニックを起こし動けなくなる人がいるようで経験して初めてここのすごさを味わうことになった。

 

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奥の院はかなりの勾配のコンクリート道の先にあった。手摺が道に沿って立っていて坂を上り始めると息が切れてくる。手摺は飾りではなく、掴まって登るためのものでかなりの傾斜だ。500mの距離で高度が100m近く上がる急坂である。何でも若いうちにやっておいたほうがよい。身体は動ける内が華だ。いつかそのうちにと言っている間に人は齢をとる。人はいつでも「今」が一番若い。

 

奥の院は数人の参拝者がいるだけで閑散としていた。

本堂脇の突き出た岩の下に薄汚れた建物があった。振り返ってみると20mほど後ろに鉄骨の足場を組んだ骨組みが見える。足場は絶壁の岩肌にへばりついている。鉄骨足場の上が入り口のようだ。よくもこんな岩肌に穴を見つけたものだと感心する。

 

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本堂脇の建物は屋根が無い。頭上に張り出している岩が天井の役割をしていて、ここでたき火をするので天井岩は煤だらけである。穴禅定をする人の控室でもあるようだ。しばらくすると二人の若い男女が後からやって来た。元気な声で男が挨拶をしてくる。

「おはようございます。納経所にローソクが1本落ちていましたけど、落としませんでしたか?

と尋ねられた。実は登ってくる途中で渡されたローソクをどこか置いてきてしまったのに気付いたが、また戻って登る大変さを思うと戻る気になれなかった。どうにかなるだろう、と構えていた。ローソクは納経所に落ちていたという。この二人も穴禅定の体験希望者だった。落ちているローソクが先に行った人の落とし物だろうと親切に持ってきてくれたのだ。私は礼を言った。これで希望者が1人ではなく3人になった。

「我々3人だけみたいですね」と若い男はニコニコしている。

「納経所に戻ったらお金を2000円バックしてくれるそうですよ。3人で入れてよかったですね」と快活に喜んでいた。女の子は痩せたすらりとした娘で、この男の妻なのか恋人なのかお互いを〇〇ちゃんと呼んでいた。この穴禅定は1回に1時間の予定が組んである。前に入っている人が何分前に入ったのかわからないが一回ごとに一組が入り、何組も入る仕組みではない様子だ。話しているとこの二人は昨夜同じ「さかもと」に泊まっていたという。

「でも夕食の時に見かけませんでしたね」

というと、実は前の日に庭先に野宿のテントを張らせてもらいたいと宿の人にお願いしたらお接待で広い体育館を使わせてもらったのだという。朝の野外調理場で見かけた人影はこの二人だった。

二人は倹約を重ね108の霊場、別格を廻っているという。30歳前後のこの若い二人は深い信頼で結ばれているのが分かった。女の人が男と野宿を共にするのはなまじっかな覚悟ではできないだろう。すべてを信頼しないとそこまで一緒になれない。

男のリュックの中には折り畳みのノコギリがあり、なぜそんなものを持っているのかと問うとほかのお遍路さんがけがをしないよう遍路道に伸びている枝や木を切りながら歩いているのだという。何とも立派な心構えの男だろうと改めて敬意を覚えた。日本人のなかには驚くようなすばらしい人を時に見かける。身なりはみすぼらしく貧しいが心は晴れやかで気高い人物がいるものだ。

 

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雑談をしていると先に穴禅定に入っていた人達が足場に姿を現した。小柄な女案内人と夫婦連れでみんな70歳前後だ。入ってから出るまで50分近く時間がかかったという。男の穿いている白っぽいズボンが赤ペンキでべったり塗ってある、と思った。ところが話を聞くと狭い洞窟を潜り抜けるのに脚がはさまり抜け出そうともがいているうち古傷から出血したのだという。ペンキかと思ったのは血の跡だった。

そういえば申し込む時に誓約書に「怪我があっても責任は問いません」とか一文があったのを思い出した。尋常ではない場所らしいことがそれで分かった。脚の傷は、そんなことは日常茶飯事なのだろう、控室にあったバンドエイドを案内人がペタッと貼っただけで終わりだった。当人もニコニコしていて穴禅定の興奮が尾を引いている様子だ。

いよいよ我々3人の番になった。70歳前後の小柄な女案内人は他の人と交代する様子もない。一人で何度も出入りし案内を務めるようだ。塩で我々をお浄めした後で色々と注意がある。

 

いわく、穴は一人ずつしか通れないので案内人の注意は穴に入ったら次から次に後ろの人に正確に伝言していく。ローソクは左手に持ち横向きでローソクを先頭に入っていく。火が消えたら前の人から火を移してもらい振り向いて火をもらうと岩に腕が挟まり身動きできなくなる。引っかかるバック類は一切身に付けない。ヘッドランプも狭いところではランプごと頭が挟まる、ライトやスマホは手に持つと、落とした時に拾う動作も出来ない。電池ランプのガラスも割れたら危険なのでローソク以外禁止、腹ばいになって通る時に手のひらのケガの元になる、などなど。ここで私はカメラを持って入る予定だったが、案内人の真剣な説明に待合室に置いていくことにした。

女案内人は値踏みするように3人を見比べるとおもむろに一番に私、2番に女、3番に男、と入る順番を指定した。一番手がかかりそうな奴を身近にしたのか、身体の厚みは見比べると私が一番あった。

 「この頭の岩の出っ張りを左手で支えて、次に右手で床に手をやって体を寝かせて」

という具合に真っ暗な闇の中をローソクの明かりだけを頼りに、背をかがめ頭を低い天井にこすりながら奥へ奥へと移動していくのだった。単なる鍾乳洞かと予想していたがだいぶ違う。穴の中は人が通りやすいように削り加工はされてはいない。上も下も右も左も凸凹で、まるで腸の中を通るようだ。足元だけ木材を敷いて平らにしてあるが至る所に凸凹段差が露出している。観光用洞穴ではない。

靴も斜めにしないと通らない。何度か床に横に寝て片手で身体を押しわが身を足側から押しだし進んでいく。低い空間があると中腰で騎馬立ちになり、あるところでは直立し息抜きの時間となり、まるで転げまわる芋虫のように移動を繰り返すのだった。白衣は何度も岩に引っ掛かっては脱げそうになり、その都度に案内人の灯りを頼りに紐を締めなおした。白衣が厚手の生地である理由がこの時わかった。薄手の衣なら岩に引っ掛かり破れてしまう。

  

手に握っているローソクの火が壁に触れると消えてしまい途端に真っ暗になった。もしこれが一人きりだったら進むも戻るも何もできずパニックになるだろう。案内人の声だけが頼りだった。ある場所では突然空間が広がり4人が一緒に見上げると怪獣がミイラになった跡のようなものが壁に浮き上がっている。

「これが手、これが指、この地方を脅かしていた鬼を御大師様が征伐しここに封じた姿がこれだといわれています」と説明するのだった。一番奥にたどり着くと7,8人が立ち上がれる空間になり見上げるとここにも天井の縁には石筍があって5体の仏のように見えその説明が始まる。そこが最終地点だった。ここで案内人は、事前に聞いていた各自の願いを祈りささげた。真の暗闇の中、案内人と参拝者3人の4本のローソクが周囲を照らすだけだった。

 同じ空間を今度は右手を先に進み戻っていく。同じところで再び横になり身体を押しやり、頭を斜めに傾け、を繰り返し進んでいくと出入り口に近づいているのが分かった。ほのかに光りが見えてきた。光あふれる地上に戻ると「生まれた」と感じるのだった。

 この時の感じ方は真っ暗な子宮から産道を通り外界の光を浴びる赤子のようだった。感動した。まさかこんなことで感動するとは思わなかった。これが穴禅定か。ベテランの案内人が付く理由が分かった。再生した気分を味わうのだ。

案内人に感謝の言葉を述べずにいられなかった。その後に本堂を3周、案内人と共にお題目を述べながら回って穴禅定が終わった。体が熱くなっていた。興奮している自分があった。所要時間は35分だった。若いのだ、きっと私も。

 

「灌頂の滝」は舗装道路を下った先にある筈だった。地図によると寺からは2.3Km 離れている。歩いて行くと山の遍路道から舗装道路に丁度出て来たばかりのお遍路がいた。外人の女性で背中には50リッターはありそうな大きなリュックを背負っている。テントや野宿の道具も背負っているような大きさだ。

「どこの国から来たの?Where were you from?と尋ねるとスイスから来たという。外国人ながら108の寺を廻るつもりだというから驚いた。どうも別格寺を歩く人は八十八の霊場も一緒に歩く人が多いようだが大変なことだと思う。何回かに分けてスイスから四国に来ては廻っているという。「お寺まであとどれくらい?」と尋ねるので30分くらいで行けると答え、彼女は上りの道を私は下りの道へ歩き出した。

 

「灌頂の滝」は整備された舗装道路沿いの判りやすい場所にあるのだが人も車もほとんど見かけなかった。見学者が私のほかは誰もいないので呆気にとられた。辺鄙で人里離れたところにあるせいだろうがそれにしても人がいない。滝は庇のような突き出した山上から降りかかり、山肌を流れる滝ではなく雨のようにぱらぱらと降りかかる滝である。庇のすぐ下迄石段が連なっていて上っていくと滝の裏側からの光景が見られるという。この時、たまたま滝の水を汲みに来ていた車の奥さんが、私があまりの階段の多さに上まで登ろうか登るまいか逡巡していると

「上に行くと、えっーとなんだっけ、誰だっけ?仏様が置いてありますよ」と教えに来たので登ることにした。階段は200段以上あった。不動明王が安置されているらしい。歩き疲れていたが今回は疲れるためにやってきたのだ、楽は帰ってからでいい、と階段を上り始めた。時間は丁度12時。

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上にたどり着くと降りかかる雨のような滝を裏側から見ながら昼食の時間にした。「さかもと」で作ってもらったおにぎりが身体に沁み渡っていく。

 

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人間のガソリンは食べ物だなとつくづく感じる。活力源がないと動きも弱る。1時間も滝の裏で休憩すると別ルートで「さかもと」目指して歩き始めた。

 

出発前に「灌頂の滝まで行くなら、戻りのルートは『アート作品』を目印に別の道を通るといい」

とアドバイスを受けていた。

「何ですか?そのアート作品って?

と尋ねたが宿の人は説明しづらい様子で笑っているだけだった。が、歩いているうちカーブに差し掛かるとその意味が分かった。ログハウスが雪崩を起こして崩れかけているような奇妙な建物が堂々とカーブの淵に建っている。設計ミスか寸法違いの材料を使ってしまったのかまことに妙な形をした建物風の作品だった。

 

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この建物に気を奪われていたせいか私はこの先で道を間違え、直後に橋を左折すべきところをまっすぐに行ってしまった。しばらくして変だ、目印が出てこないと気付いた時には遠く離れた地点を歩いていた。尋ねようにも路上に人が見当たらず何軒か民家を訪れて呼び鈴を押しても留守で、ようやく人の居る家を尋ね、だいぶ遠回りしているのを知らされたのだった。今更元の所へ戻るよりこのまま先に行った方が近いといわれ結局「新坂本トンネルを」の反対側から通り抜け宿に戻ったのだった。

 

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この日の歩数は39272歩を数えていた。自転車を漕がなかった代わりに歩き遍路と同じぐらい歩いたことになる。午後250分に「さかもと」に帰り着くと腰が痛くなっていた。自転車は自転車で辛いけど歩きは歩きで辛いものだ。自力で行くのに楽なお遍路はない。

 

夕方までの時間がたっぷりとあるので早目のお風呂にじっくりと浸かった。広い湯船を利用して湯の中で脚や腰の筋肉を揉みほぐし合間に2日分の洗濯を済ませると缶ビールを部屋で飲み疲れを癒した。バッグの中身も整理しよう。明日はどこまでいけるだろう?地図を見ながら当初の予定表を参考に検討を重ねると「鯖大師」まで約80Kmを走ることにした。それほど辛い坂道は無い筈だ。受付の人に宿の予約が可能か電話を入れてもらうと果たして鯖大師宿坊の予約が取れた。順調である。よかった、ついている。地図を見直し明日のルートを確認する。「日和佐」までは海側を通って行こうか、それとも山側を通って行こうか。迷う楽しさを味わう。時間に余裕があるという事はいいことだと思うのだった。

 

その晩、指定された夕食の席に着くと隣には背の高いオランダの女の人が座った。173Cm位のモデルのようにな金髪の女だ。オランダは世界で一番平均身長が高い国だと知っていたがそのスラリとした体型ゆえに夕方「坂本」にリュックを背負って到着した時から目立っていた。その女の子が隣の席だった。

 

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英語は少し話せるので話しをしてみると年齢は21歳、2か月の休みを取り一人でお遍路をしに来たと言う。背の高い人にありがちな男のようなこもる声 (故プロレスラーのジャイアント馬場のような声) で話す娘だった。骨格のつくりがくぐもった声にするのだろうがかわいい顔と裏腹に声にギャップがあった。「シグリッド.キャストバーグ.ジェイプソン」という名前だそうでオランダでは自分の名前と母の名前、父の名前 (父の名前、母の名の順だったか?) 三つの名を並べて名乗るのだという。  へーっ。

日本に来て判らないこと、訊きたい事がある?と尋ねると彼女は前から疑問に思っていたらしく

「日本でタットー(刺青)をしているとお風呂に入れないの?

と不思議そうな顔だ。オランダではタットーはアクセサリー程度の事だけど日本では公衆の風呂に入るのは拒否されている。何故タットーがいけないの? と不思議がっている。

「あなたもタットーを入れているの?」と聞くと彼女は首を横に振り

「私はタットーを入れてないけど」という。

私は考えながら答えた。日本では暴力をふるって平和な市民や企業から金品を脅し取るヤクザという連中がいる。ヤクザは特に背中に刺青を入れている連中が多いが一般の人はほとんど刺青をしない。入れ墨(タットー)は日本ではヤクザの象徴、ヤクザは暴力の象徴なんだ。彼らヤクザは世間から排除されなければならない。公共の場の風呂でも同じ。と説明するとふんふんとうなずき納得したようだった。彼女は日本に来て初めてヤクザという言葉を知ったようだった。何かあったら相談に乗るよ、とメールアドレスをメモしお互いに交換したがその後連絡のないところを見ると無事にお遍路を続けているのだろう。若い女性ながらたった一人で見知らぬ国を訪れお遍路に挑戦するオランダ娘に改めて敬意を表し無事を祈った。

 

このタットーで余談だが、彼女の部屋はたまたま私の隣だった。深夜に彼女がドアをノックし

「相談があるの」と私の部屋にやって来た。

その後の見つめ合う瞳と瞳。触れ合う指と指、ブロンドの髪から甘い香りが漂っていた。それからの二人のめくるめく時間。朝までお互いに身体の隅々を念入りに探り合うことになった。北欧系の女の肌は日光の少ない環境がそうさせるのだろう雪のように白くなめらかだった。スリムな肢体は伸びやかでバネがあった。時折天井に響く彼女の歓喜のうめき声。「Ahh Ahn」---その時へその右側と左脚の股の付け根に小さな黒子(ほくろ)を確かにこの目で見た。明け方まで全身の隅々を互いにまさぐりあい反応を確かめあっていた。---彼女の体に確かにタットーは無かったことをここに証言する。

 

 

---なんてことを言ってみたいものだ。