45日目、 87番『長尾寺』88番『大窪寺』 約43000歩 1/2

 

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『歩数計が欲しい』、と宿のご主人に商品のありそうな店を尋ねるが、朝の7時前では近くのコンビニくらいしか店はない。「ひょっとして置いてあるかも」と言うので訪ねてみるのだが

『歩数計は置いていないですね』と残念そうにローソンの店員に言われる。

 

ドラッグストアがあり、そこだと確実に売っているらしいが開店は9時30分。開店まで待つ訳にいかない。街を離れると売店のない通りになる。やはり諦めるしかない。

 

朝食を済ませ、7500円也の宿泊飲食代を支払い7時少し過ぎて長尾寺境内に入る。他のお遍路さんも皆、前後してに宿を出発したがお寺に寄らないところを見ると昨日すでにお参りを済ませているようだ。

 

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 さすがに早朝のこの時刻、お遍路さんはまばらだ。

『志度寺』から今しがた歩いて来たという区切り打ちの女お遍路さん、エンジン全開で歩いているのがそのせわしない歩き方からよくわかる。小柄な60歳過ぎの人で、区切り打ちで大阪から来ていて、今日の結願のあとはすぐに大阪に戻るのだという。

『大窪寺』の途中に『お遍路サロン』がありそこまでの5.2Kmを歩いている内、前を歩くその女の人は「姿」が「点」に遠ざかっていった。

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 『お遍路サロン』は今回是非とも立ち寄りたい処だった。『前山ダム』を通る遍路道上に『お遍路サロン』はあり、その周辺から幾つかの88番『大窪寺』に至るルートがあるようだ。地図だけでは判断のつかない見どころ、険しさもそれぞれにあるだろう。そのルートの違いを尋ねるつもりだった。ここまで来たのだ、一番苦しい困難な道を行きたい。

 

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 朝の澄んだ空気の中、緩やかな舗装道路を一歩ずつ刻んでいくとやがて前方に大きな構築物である「前山ダム」が見えてきた。

 

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 ダムの脇を通る形で遍路道がある。遍路道と行っても県道3号線で、車ももちろん通る道だ。前川ダムを通り過ぎると、『お遍路サロン』と『道の駅・ながお』が道路の左右に向かい合っていた。8時55分到着。

 

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『お遍路サロン』は歩き遍路の動きに合わせるように朝8時からオープンしてお遍路を迎えてくれる。到着すると、さっきの大阪の女遍路さんが椅子に腰かけ御茶を飲んでいて私を見るとニコッと笑顔を向けた。館の事務管理している女の人が『お疲れ様です』と声を掛け

『歩きですか?』と尋ねてくる。

『歩きです』

と答えるとノートを持ってきて名前を書いて下さいと言う。

   歩きで回っている遍路の人にだけ『四国八十八か所遍路任命大使』という記念の証書が渡されると聞いていたがそのために訊いてきたようだ。ノートにはボールペンで様々な人の住所と氏名が書かれていてその最後の行に自分の名前を書き連ねた。ここには昔のお遍路さんの資料がたくさん収められていて無料でじっくり見て回ることができる。 

 

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 休憩所でふるまわれる無料の温かいお茶が美味しい。係りの人はこの人が歩き遍路か車遍路かは館内に入って来る様子を見て察しが付くようだ。歩き遍路は到着した時の行動が一様で休憩所に入るとまずは重い荷をおろしほっとする様子が共通する。たまに複数で歩くお遍路もいるが一人歩きが多く、この点でもそれとわかる。

 この点、後から入ってきた三人連れのおばさんお遍路さん達は違いが一目瞭然だった。元気で明るく、館内に入ってくるなり賑やかで、何より足どりが軽やかだ。背中の疲れも脚の痛みも、彼女たちには無関係だ。係の人も一応は三人がお遍路の格好なので「歩きですか?」訊いていたが、やはり車利用のお遍路さんたちだった。別世界の人種をみる思いがした。

しばらく休んでいると係の女の人から『四国八十八ヶ所遍路大使任命書』の証書をいただいた。

 

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証書には今年7月からこの10 月までにここを訪れた何番目の歩き遍路だったかが書かれていて私は「507番」だった。DVDも1枚頂いた。88のすべてのお寺の四季の模様、写真やビデオが収められている貴重なもので歩き遍路にとって何よりのサプライズプレゼントだ。7月から起算して4カ月で507人目、月に100人ほどのお遍路が歩いて四国を回っている勘定だが7月、8月の暑い時期を避けた春先の方が歩き遍路はもっと多いだろうと思う。

大切に任命書を納経帳の間に挟むと館内をゆっくり見て回った。ここに寄りたかったのは館内の展示に興味があったからで、ガラスケースの中には昔の納め札、納経帳などが展示してある。当たり前の話だが当時のものは全て何から何まで手書きで、達筆過ぎる文字は読むのに苦労する。

 

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  昔は自分の住んでいる地域から他所の地域に出かけるのに理由や許可が必要で、お遍路にも通行手形が役人から発行されていたのが展示物の中に見出せる。次の様な内容が書かれていた。

 

『この書状を持つ者は○○の国の○○村に住む○○家○○と申す者。このたび本人が四国巡礼を発心し認可しました。関所の皆様、宿も含め本人のため便宜を図ってください。もし、この者が行き倒れの場合はそちらの流儀に任せますので、都合の良い場所に杖を墓標に埋葬ください。よろしくお願いします。』

 

 要約すればそういう内容であった。

このお遍路の道、様々な地域のうらぶれた山裾にひっそりとお墓が並んでいるのを見たが、そんなお遍路たちの墓だった。小さな墓石もあれば土饅頭だけになった墓もあった。巡礼中に疲れ果て、病み、路銀を使い果たし、行き倒れとなったお遍路達。

 ある民宿で、宿の老婆が語っていたのを思い出す。遍路道から少し外れた人の通らぬ沢のほとりに白衣をまとった白骨死体が現代でも時々見つかることがある、と。

---この通行手形が原点にあるのかと思った。「四国」は「死国」とも書けると、この道中で何度も考えたものだ。

 

この資料館から先、最後の88番『大窪寺』までは全部で5つのコースがあるらしい。「お遍路サロン」では大窪寺までのルート地図が用意してあって地図を指さして丁寧に説明を始めてくれた。

距離は長くなるがバス通りを歩く3コース、または山越えの2コースの合計5コースだ。中でも山越え『多和神社コース』は距離もバス通りコースと同じ11Kmで山越えまであり厳しいコースだという。5つのコースは最短で2時間50分、最長で3時間半かかるので似たようなものだ。「1粒で2度おいしい」と言うコマーシャルがあったが1回で2度苦しい『多和神社コース』を即決で選んだ。結願の寺、八十八番『大窪寺』には全てを出し尽くし悔いのない状態で到着したい。

 

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途中には何処にもお店はないのでこの「道の駅」で食べ物は調達する。道路を渡り道の駅で弁当と飲み物を購入すると時間は9時40分を指していた。

  歩き始めて2つ目の『山王』バス停を過ぎると標識があって左折の分岐路に入る。ここにもお遍路さんたちの墓石がいくつも並んでいる。脇道に進むと間もなくあとは上りの道になっていく。車も人も通っていない実にのどかな風景が周囲に広がる。まばらに民家が点在していて人の気配さえ感じない。車も1時間に数台が通る程度の林道だ。---30分ほど歩いていると100mくらい先の舗装道路を茶色い何かがゆったりと横切っていくのが見える。犬かと思ったがよく見ると猿だ。結構大きくて一匹があたりを睥睨するように歩いている。普通、野猿は群れているものだと思ったが一匹だけでお山の大将の風格だ。こちらに気が付かない様子なので後ろから口笛を吹くと、さっと木陰に見えなくなった。用心深い奴である。もし向かってきたら金剛杖で立ち向かうつもりだったが何事も無くてよかった。

『女体山』は標高774m、出発地点の『長尾寺』は標高34mなのでこの結願の日は700mの高さを一気に登ることになる。『お遍路サロン』まで延々と緩やかな坂道が続いたがここに来て勾配が日光「いろは坂」を登るような急こう配になって来た。地図によると途中に『太郎兵衛館』があり、寄って行こうと思っていたが不思議なことに建物には全く気が付かないままだった。ここまで人ひとり逢わないのだ。『太郎兵衛館』とは昔そこに建物があったというだけで跡地なのかもしれない。---そんな事を考えながらひたすら登っていると右側に鳥居があり登山道の入り口に到着した。ここから先、舗装は終わり石段と滑り易そうな狭い山道が鬱蒼とした林に囲まれて傾斜を増して登って行く。

 

 

 

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標高500m 、本格的な山道の始まりだ。時計は10時50分をさしていた。この山道入口階段に腰をおろし腹ごしらえの時間にした。「遍路サロン」から1時間10分でここまで来たことになる。文字通りいよいよ最後の山場なのだ。

 

早めの昼食を終え、身仕度を整え立ち上がって進み行く山道を見上げると、杉木立の間から白い光がスーッと幾重もの束になって降り注いだ。映画のワンシーンのように光の束が木々の間に降り注ぐと遍路道の入口をポッと照らした。美しさに感動し暫くその光景に見とれてしまった。まるで光の輪の中を歩くような気がして何かが、出迎えているようだ。

この同じ光景をどこかで見たと思った。そうだ、愛媛の山奥45番『岩屋寺』を終えた次の日、松山に向かう遍路道に入る時に朝の光が、前方に降り注ぎ光の束で迎えてくれた。その時と同じだ。あの時は、よくも岩屋寺まで行けたね、とその労をねぎらってくれたと思えたが今日の光は、今まさに八十八四国遍路を完結しようとするこの日を祝福するかのようだ。こんな光の束はめったに見かけない、何かついているな、そう思わずにいられなかった。どんなに苦しくたって今日で終わる.どうせなら忘れられないくらい苦しんで辿りつきたい。

 

この最後の『女体山』頂上への道は確かに安易な道ではなかった。道幅は狭く、平らな場所を探すのが難しいくらい上りが連続で続く山道となった。入り口の標高500m以後の774m山頂まで猫の額のような休憩所が2か所ほど途中にポツリとあるだけでそれ以外は登るだけの登山道だ。後半になると完全に岩場になり片手で登るのは難しくなった。両手で前方の岩を掴んで身体を引き寄せ、脚だけでなく腕の力も借りて登る急な斜面となった。片手に持っている杖が邪魔になる区間だ。この岩場で後半になるほど上を見上げるようになり、つまり勾配はさらにきつくなり、最後になって岩肌に金属製の「ステップ」が5本ほど打ち付けてあるのが見えた時、ひょっとしてあのステップは急場を踏み越えるための危険個所か、高所恐怖症の私は登るのはもう辞めようか、と気弱になったのだった。---しかし、今更戻るに戻れず、意を決しそこまでたどり着いてみるとステップは実は掴まって安全に頂上にたどり着くための最後の「手すり」だった。「手すり」に身体を預け、体をくねるようによじ登るとそこは女体山の頂上だった。何だ、着いたのか?ここが頂上か!一気に安ど感に包まれるのだった。

(次をクリックすると視聴が可能)

https://youtu.be/CM9Dywxl5M8

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45日目、 87番『長尾寺』88番『大窪寺』 約43000歩 2/2

 

頂上からの展望は素晴らしかった。今日登って来た下界の街並みや道路、山々が霞んだ彼方に広がっている。歩くのを諦めなければ、歩き続ければいつかは到着する。諦めなくてよかった、と感慨を新たにするのだった。

頂上には反対側からハイキングで来た人が数人同じように景色を堪能していた。その人達とすれ違いながら今度は下山を始める。下りはじめて10分もしないうちに舗装道路があり広い駐車場があるのを知り、ハイキングの人達はここから登って来たのかと彼らの元気そうな顔になるほど、と思う。

汗にまみれてそこからさらに延々と下りの遍路道を下りる。最後の苦行だ。靴の中で足の爪が当たり痛くなって来る。『大窪寺』の屋根や建物が眼下に見える。遍路道の残りが見えているので飲み物も整理しようと飲み尽くす。傾斜が緩やかになり山道が石段に変わると山門脇の境内に道は連なっていた。到着したのは13時近くになっていた。

最後の八十八番目の霊場だ。到着したら感激して涙を流すかもしれないと思っていたが意外に湧き上がる感情が無い。ここに来るまでの山中で散々、山に向かって喚き散らしながら歩いて来たせいかもしれない。

『お前は何を掴んだのだ、何を悟ったのだ、空海よ !』

『なんのために人は生まれてきた。空海よ、お前はどう悟った!この山を越えればもう俺の遍路は終わってしまう !』

---山を登りながら、何度も空海に向かって怒鳴っていた。誰も人がいない山中、人目をはばかる必要もない。私の雄叫びを聞いていたのはイノシシか猿だけだ。

     

『大窪寺』の本堂と大師堂の前で長い時間瞑目し、手を合わせていた。

四国に来て、無事にこの結願まで健康に来られたことにまず感謝せずにいられなかった。そして様々な出来事や多くの出会いに改めて感謝を捧げた。生きていく上で本当に大事なものは何なのか、不要なものは何か。今までの浸み込んだ老廃物が少しは汗と修行で浄化された気がした。

---自動車遍路なら何日分もの着替え、飲み物や食料を車に積み込む事が出来る。電車やバス利用の遍路は脚や背中の負担は少なく済む。しかし歩き遍路はすべてを自分で背負って歩く。

歩き遍路を始める出発前、計量してみるとリュックの重量は12Kgだった。実際に遍路を始めるとその日の弁当、飲み物、記念品が日々加わり数十グラム、数百グラムと増えて行った。歩きはじめて10日余り経って不要になった寝袋、マット、簡易テントを自宅に送ると背中の荷は半分になった。その日、背中の軽さ、脚の軽やかさに感動さえ覚えたものだ。『こんなに軽い!』と。

リュックの容積の多くを占めるモノは実は衣類だった。着替えは当初3日分を持っていたが2日分に減らし終盤の頃は1日分になった。ズボン、靴下、下着、長袖シャツ、汗にまみれ着替える衣類は1組あれば足りる、と判った。毎日洗濯し翌朝までに乾かせばよい。それまで「もし乾かなかったら---」「もし洗濯できなかったら---」という考えが決断を阻んでいたが結局自分がしっかりさえすれば「もし---」は必要無いのだ。---事実それで済んだ。

減った荷物も日が経つと増え続け、その都度に整理し送り返した。そんなお遍路の日々から何が本当に必要で何があれば生活して行けるのか判るようになっていったのは一つの悟りであった。---「ゴミ屋敷」の人は一度歩き遍路旅をしてみるといい。何がほんとに必要で何は不要か考えが変わるだろう。屋根の下で寝られて、風呂で疲れを癒やせて食が満たせればそれ以上は要らない。シンプルに人は生きていけるのだ。それが一つの悟りだった。

今までの生活に戻ってどれだけ無駄を捨てられるかがお遍路を終って試される処だ。読まない本をどれだけ壁にしていたか。使わない服、カバン、日用品が家のどれだけのスペース占めていたか。もう、モノにこだわる生き方から脱しよう、そこから始めようと思うのだった。

 

教えよう、伝えようと、人であり言葉であり接待であり様々なものが形を変えてお遍路中の私の目の前に現われていたな。気づけ、気づけと。----このお遍路中に出会ったすべての人に感謝するのだった。

境内で記念に写真を、それも白衣で荷物を背負った姿をどなたかに写してもらおうと人を探すが人の波が途絶えている。誰も写してもらえそうな人が見つからない。境内の門の端でスケッチをしている人が居り、他に人がいないので近寄っていきシャッターをお願いすると手を休めて快く応じてくれた。さすが芸術家らしく私の立ち位置を光の加減からこちらに立った方がいい、と撮影位置を決め一枚は縦に一枚を横に構図をとり写してくれた。礼を言ってその人の手元を見るとなんとも素晴らしい水彩のスケッチで思わず見入った。手早くデッサンし、さっさと色を重ねていくがその創作模様はすごい速さで、筆の動きと絵の具の重ね方に戸惑いと言うものが無い。何より絵の素晴らしさにこの人は単なる趣味の人ではないなと直感する。

 

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尋ねると千葉県柏の人で、個展を開き地元では絵画教室を主宰しているという。沖縄で近く出品する予定でその作品作りで四国の寺を回っているという。頼んだ訳でもないのに名刺を頂き、妙なところで妙な人に巡り合うものだ。鈴木利尾さんという方だった。定年後絵画を始めたというがその色彩感覚、印象派なのだろうか、対象を見ると同時に色を重ねていく筆の動きに思わず絶句。世の中には上手い人がやはりいるものだ。鈴木さんはこの数日間描き溜めた何枚ものスケッチを携えていて『これは○○寺でね、きのう描いたんですよ』と解説入りで見せてくれた。すごい人に逢ったものだ。寺への最後の挨拶を済ませて山門を出ると露店が賑わっていた。

 

境内を出ると露店の女性が私の階段をそろりそろりと降りる様子を見て、にこやかに笑みを浮かべ

『お疲れ様でした。飲んでいってください』と温かな生姜の葛湯を接待してくれる。葛湯は胃から腸にしみ込んでたちまち細胞がうるおされていく。

『今夜はどちらに?』と問うので

『白鳥温泉に泊まります』と言うと

『それなら2つ目のトンネルをくぐった丁字路を左です』

と教えてくれる。地図上では9Km前後なので2時間少しの予定だ。『大窪寺』を後にしたのは2時頃だった。暗くなる前には宿に着くだろう。

 

この『白鳥温泉』に向かう舗装道路はずっと下りの続く単調な道であった。

長いトンネルを二つ抜け、予定の丁字路に来て左に向かいハッと思った。自分で出発前に地図を調べ、この丁字路は右に入る筈だと思い出したのだ。立ち止まって地図を見ると左に行くのは車を利用する道で、あの露店の女の人は間違ってその道を歩き遍路に教えたのだ。丁字路を曲がったばかりだったので時間をロスせずに済んだが、もし鵜呑みのままに行っていたら予定の時間より5割は遠回りにするところだった。調べていてよかった。

丁字路から右に県道2号線をまっすぐ歩くと500mほどで左の道に入る。「界目」というバス停があり迷うことはなかった。人も車もめったに通らない舗装道路で独り占めするように歩いて行き、30分もすると道はそのまま大きく左に曲がる道と直線に向かう道に別れている。分岐路になった。直進せよとお遍路さん向けの目印があり、淋しい道に向かって行くと路は雑草に覆われている。それまでアスファルトの路面の硬さが足裏に響いていたが、自然の路の柔らかさに安心した。鬱蒼とした木の枝が頭上に覆いかぶさり、誰ひとりすれ違わない遍路道だった。女の人なら通るのをためらうような路だ。山の日の入りは早く、辺りがやや薄暗くなる頃に宿に到着すると時刻は4時を回っていた。

 

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『白鳥温泉』の地図を見ると、すぐ道を挟んで『黒川温泉』があり「黒川」と「白鳥」どちらが本当の温泉地名なのかと不思議に思っていた。黒川温泉の方はこの地の地名をとった先発温泉のようだが、後発の規模の大きな『白鳥温泉』が目の前に出来て潰れてしまったようだ。通りから見ると店は廃屋状態になっていた。向かいの『白鳥温泉』は温泉リゾート施設で「しろとり」が正式の呼び名。「ハクチョウ」でも「しらとり」でもなかった。

建物は広く温泉目当ての日帰り客が多く宿泊客はまばらだった。風呂に入る時1台しかない洗濯機が丁度空いていて、風呂を出るタイミングで洗濯も済ませることが出来た。こんなタイミングの良さが旅をしているとなんとも嬉しい。

 

明日は1番目の寺『霊山寺』まで歩いて行きそれで完全な四国一周の完成となる。1番の寺から88番の寺まで88ヶ所で終わればローマ字の「C」と同じで地理的に端と端とがつながらないままだ。「C」を「O」にするために30Kmを更に歩き線で結ぶのだ。それが今回のこだわりだ。

地図上、今日は25Kmを歩いたのは確かだった。歩数計が壊れたので正確なところは判らないが実感として昨日より歩数は少ないものの最低でも43000歩は歩いた気がした。昨日、今日と疲れが溜まったのだろうテレビを見る間もなく眠りについた夜だった。

 

46日目 約58000歩 一周へ (1/2)

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この白鳥温泉の朝食は普通だと7時30分からだと言う。それだと今日の1番『霊山寺』到着が遅くなる気配なので相談すると朝食を7時にしてくれた。朝の食堂に行くと鮭や生卵、納豆など和食のメニューだった。

食べ始めると後から外人が一人やって来て椅子一つ挟んだ隣で食事を始めた。イスラム教徒のような顔立ちで髭をはやしている。この国に溶け込んだ地元の労働者かと思い見ていると生卵をシャカシャカとよく掻き混ぜ、ご飯にかけて食べている。外人は生卵を好まないはずでよくよく日本の食生活に慣れた外人だなと思いながら食事を終え、支度を整えると出発となった。---あとになってこの外人もお遍路だと気付くことになるのだった。

 

7時35分、白鳥温泉を出て一本道の舗装道路を右に歩きはじめる。山間の道は山に遮られて日影の道が大部分だ。緩やかな下り道が延々と続く。

 

 

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今日は地図上では30Km 程の工程を予定していて、途中に大坂峠という旧道の遍路道があるがその険しさがどの程度なのかトンとわからない。

この「大坂」と言う名はほかでも見かける名前で土佐の久礼から37番『岩本寺』に向かう途中にも同じ名の峠があった。関西の大阪から由来の来ている名前なのかと思っていたが単純に「大きな坂道」がある峠から来ているようだ。大きな坂道の峠は日本中至る所にあり、いきおい同じような名前が四国にもある、と言うところだろう。

県道377号線に道が合流すると、これまでなかった歩道を歩く。高松自動車道の高架下をくぐるまで10Kmほどを一直線で行けばよい。それにしても出発してから腰を下ろして休憩できる場所がどこにも無い。

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いよいよ高松自動車道路が近づいたころ児童公園と神社が一つになった公園がありこの日初めてベンチに腰を休めた。

昨日迄の歩きで、右の足の爪を痛めてしまったようで靴下を脱ぐと中指の爪は紫色に変色していた。テーピングで爪を保護する時に爪を横に包むように覆うのがよいのに最初の日縦に巻いてしまい、それが爪を痛める原因になったのかと思う。もうこの爪は死んでしまったと思う。---どこか不調だとその微妙な狂いは時間が経つと全身に来る。変な歩き方、体のずれが長時間の積み重ねで大きな疲れに変わり腰や背中を痛める原因になる。しかしそれも今日で終わる。あと数時間、頑張り通すだけだ。このまま行ってやれ。

このお遍路旅をしていると、思わぬ場所で思わぬ言葉に目が吸い寄せられる。道沿いにある小さな寺があったのでベンチでもあるかと休憩をとりしばらくして出ようとすると掲示板の言葉に目が吸い寄せられる。

『いくら長生きしても、幸せのド真ん中に居ても、おかげさまが見えなけりゃ、一生不幸』

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昼近くに海岸沿いの街「引田」に入り橋を渡ると目の前には光洋精工と言う大きな工場があって、渡り終え左に向かうと海が見えて潮の香りが漂ってきた。『東海寺』という番外の寺が遍路道沿いにあるようなので、ついでに寄ってみようと地図を頼りに探すが狭い路地に入ると他の寺に間違って入ってしまった。近所の人に尋ねそこから200mほど離れた場所に『東海寺』はあった。

 

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この街で食料を買っておかねば、あとは山の中で食べ物飲み物が手に入らなくなる。道路工事の旗振りをしている警備員がいたので昼食を買えるところを尋ねると、海岸線沿いの道路に降りると「ローソン」があり他は無いという。

『私らもそこでお弁当を買って来るんですよ』という。店の方向を確認し

『ところで、今日は私の他に何人お遍路さんがここ通りました?』と尋ねると

『おたくが初めてです』とニコッと笑った。---なるほど他にお遍路を見かけない訳だ。

JR高徳線の線路を渡り「ローソン」のある県道11号線に出ると海は目の前だった。コンビニ弁当でも、と思っていたがその向かいにあるお店に車がひっきりなしに入り出ていくのが見える。

 

地元のうどん屋で、混雑ぶりからかなり流行っている店だと判断し入ることにした。香川ではよく見かけるセルフサービスのうどん屋で海を目の前に見渡せる窓際のテーブルに腰をおろしてうどんを味わう。

 

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さっぱりとしたダシの利いた汁を最後まで飲み干すと流れ出た汗も補充できた気がする。おいしい冷たい水をペットボトルに補充し結局「ローソン」には立ち寄らず自販機で小さな350mlのお茶を念のために買うだけの立ち寄りとなった。この「念のため」のお茶を買っておいて後で助かる事になった。

  

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うどん屋を出て県道を100mも歩くと向かいからお遍路姿の人が歩いて来る。今日初めて会う遍路だ。近づいてくる顔を見ると見たことのあるような外人でひげが濃い。

あっ、今朝の朝ごはんの時に隣にいた外人だとすぐに気が付いた。

相手の外人も今日初めてお遍路を見たようでにこやかな顔で近づいてくる

『あなたは今日何人遍路を見た?どこに向かっているの?』と英語で話しかけるとニッコリと嬉しそうに

『あなたは今日初めて会うオヘンロです。私は1番のお寺に行くつもりです』と言う。このお遍路さんはドイツから来たという。今朝、隣り合わせで朝食の席にいたね、と言うと、えっ?はっ?という顔をしている。朝食の時には白衣は着ていなかったので互いにお遍路さんだと気が付かなかったのだ。泊まった『白鳥温泉』の名を念のために言うと、ああっ、今朝、隣の席で食事していたのはあなただったの!?目を丸くしていた。

『私も今から1番に向かう。しかしあなたはどこを通って行くつもりなの』というと地図を出し、その地図は英語版の遍路案内でこのルートを行くつもりだと指さす。  

それは私が今から行くのと同じ大坂越えのルートだった。やはり食料を求めて海岸に来たらしい。そこで、うどん屋でおいしい店があった、安いし美味いし早い、と振り向いてその店を指さし勧めるがその外人は日本語を話せないので今までうどん屋に入ったことは無く食べたことも無いとのこと。この香川県はうどんで有名な県だ、ここに来てうどんを食べないのはドイツに行ってソーセージを食べないのと同じだ。一緒に店に行ってオーダーを伝えてあげようか、と言うとそれはありがたいとニッコリ。店に戻り店頭の写真から食べたいものを選ばせ彼の替わりオーダーし「トレーを持って待っていればうどんを載せてくれる。そのまま並んで進んで行けばいい。他に食べたいものがあれば別の皿に取って最後に現金を払うんだ。席は好きなところでいい、食べ終わったらトレーはあそこに返すんだ、と説明するとウンウンと頷いていた。俺はもう食べ終わったから先に行く、君の長い脚だと途中で追いついて来るだろう、ゆっくり歩いて行く、どこかで会うだろう、と言って別れた。

 

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再び線路を渡り、線路沿いにある判りづらい遍路道に入った。これが道か?廃道ではないのか?あまりに草ぼうぼうで果たしてここを通る人がいるのかと首をかしげたくなる道だ。しかし遍路道の印がある、本当か?首をひねりながら山道を進んでいくとだんだんと昔の峠のような雰囲気になって来た。

 

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この「大坂峠」は江戸時代までは人だけが通れる山道で牛や馬は通れない険しい峠だったようだ。明治初期になって拡張工事を行い馬車や牛車も通れるようになりそのおかげで流通も活発になった由緒ある峠だ、と途中に看板がある。

     

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そんなに急な傾斜ではないが牛や馬もこの峠ではガタガタ道で疲れ果てただろうと想像する峠道だった。ハイキングコースに向いた適度な勾配が山の頂に向かって高度を上げていく。

標高380mがこの峠の頂点だ。ベンチに腰をおろし休んでいると、さっきのドイツ人がやはり追いついてきた。

『うどんは美味しかった?』と聞くと親指を立て『デリーシャス』とうっとりとした顔で頷いた。

彼は31歳のドイツ人。ヨーロッパ、スペインにもキリスト教の長距離巡礼地がありサンティアゴ・デ・コンポステーラと言って世界的に有名な巡礼地があるのだが、日本の四国遍路はその倍もの距離があるのをインターネットで調べ、魅力を感じてやって来たという。小さな会社を家族で経営していて親と兄弟の了解を得てこの旅に出たという。名前は「マルクス」と言う。

『「マルクス、レーニン」って知っている?昔、日本じゃ「マルクス・レーニン主義」と言う思想が流行った時があって』というが初めて聞くらしく首を振った。マルクスと言う名前自体がドイツではあまり多くないらしい。峠の頂上に着き見晴らし台に二人で登って行く。さっきの「うどん屋」が霞んで海辺に見渡せる。

『あそこから俺たちここまで来たんだよな』

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持っていた羊羹を「これが日本の伝統的なお菓子だ、子供から老人までみな好きだよ、食べてみな」と分けると、もの珍しそうに味わって、旨いね、と頷いた。

 

 46日目 約58000歩 2/2

 

『さあ、ここから先は自分のペースで行こう。私はあなたよりきっと足が遅い。あなたはあなたのペースで遠慮なく先に行ってくれ。私のことは気にするな、自分のペースを守るのが一番いいのだ』

と言うと、マイペースの大切さを体験しているのだろう

『ありがとう。うどん、ヨーカン、日本の初めて食べる食べ物に接する事が出来ていい日だった。美味しかった。いろいろありがとう』

彼は私と並んだ記念写真を撮り、山道を先に進み始めた。

(---後日、その写真はメールで送られてきた。ありがとう、マルクス。)

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 私も無理に人のペースに合わせて歩きたくない。無理をすると足を痛めることになる。それは半年前の歩きお遍路で身に沁みて判っていた。---山道を降り始めると間もなく、マルクスは足を滑らせ10m 前でスッテンコロリと尻餅をつき、ケガがなかったのだろう、また何事も無いように慎重に下り始めた。こんな、ルート外のところにも遍路ころがしがある。 

 

10分も山道を下ると舗装道路に出た。歩き遍路道は最短コースをとるため何度も九十九折を繰り返す自動車道路を幾度か横切るのだがしばらくするとマルクスが分岐路で地図をにらんでいた。

まっすぐ突き進む獣道、右への舗装道路、左への舗装道路、どっちが次への向かう方向なのか判断しているようだ。分岐印の各方向には地名が書いてあり日本語の読めないマルクスは地図だけで判断しようとしていたのだった。---地図だけ頼りにお遍路を回るということは外人にとって大きなハンディだ、と改めて思った。

私が『霊山寺』の方向は左だ、矢印にもそう書いてある、と言うとマルクスは安心して再び私と一緒に歩き始めた。午後2時を少し過ぎた時刻だった。

『この調子だと夕方5時には寺に間に合う』マルクスはドイツ人らしく地図から残りを計算し笑顔を見せる。『霊山寺』まで地図ではここから9Km前後、私の脚でも午後4時半頃には到着できると計算していた。考えが一致して、二人で安心して歩き始めた。---しかしこの気のゆるみがいけなかった。

昨日はどんなルートを通った?おやっ、同じ山越えだったんだね、山頂のあのステップを通った?急な岩場だったね。---松山ではユースに泊まったって?俺もあそこは泊まった、黄色い壁の建物だろう?----お互いに同じところを通って来たので思い出話に話が盛り上がった。マルクスもこの遍路中に2度大きく道を間違い、とんでもない場所まで行って戻ったという。

しばらく下り道を歩き続けていると右側に池が見え、地図ではルート上に池は無いのに変だな、地図に載るか載らないかのような小さな池だから地図に載っていないだけかな、と不思議に思いながら坂道を下り続けた。そして道の藪が途切れて視界が広がった時、右側に鉄道線路が目に入った。  

エッ?電車はこのコースに添って走って無い筈だ、とマルクスを呼びとめた。おかしい。違う道に入り込んだようだ。そう言うとマルクスも自分の地図に見入って現在地を確認している。どうもおしゃべりをしているうちにどこかで左折するところ右に来てしまったようだ。分岐路に気が付かないほどおしゃべりに神経が行っていたのだろうか?やはり遍路は一人でないと集中できないのか。二人して慌ててUターンして坂道を戻った。

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ずっと楽な下り道を降りて来たが、下った分そのままが登りになり辛い。むきになってスピードを上げる。挽回しないと辿りつけない。今日は徳島駅からの夜行バスを予約している。バスに乗る前に風呂にも入りたい。下手すると総てが狂ってしまう。

30分近く坂道を登り、あっ、ここに分岐路があった、と判った。その分岐路は下り側から登って来て気が付くY字路で、反対の上から降りると見過ごすような左折路になっていた。これでは注意して歩かないと判らない。さっきおかしいなと思いながら通った池の謎もこれで理由が分かった。周囲は山に囲まれ心なしか陽射しが弱くなって焦りが出て来た。路面に映る二人の遍路影もさっきより長く伸びてきた。

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無事に辿りつけるだろうか?間違った道の往復で登り下り3Km前後、1時間近くロスしている。100m標高を下り、また100mの高さまで戻った。このロスで納経の時間に間に合わなくなるかもしれない。

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ミスした時間を取り戻そう、挽回しようとさっきから二人して必死にスピードを上げる。道は山肌をぐるぐると縫い50mの標高まで下り、最後の標高230mまで上るコースになった。道も砂利道に変わり『卯辰越』という最後の登りだ。

登り続ける道がやたらと長く感じられた。往復した分だけ疲れも重なり、今まで経験したことのない脛(すね)の痛みを覚え始めた。無理を重ねたためだろう。脚の裏側の筋肉が痛むのは何度も味わったが脚の前側、脛(すね)に痛みを感じるのはかつて無かった。あと残り7Kmか8Kmの筈だが脚がもつだろうか。

 

うどん屋で補充してきた500mlのペットボトルはスピードをアップしてから咽喉が渇き飲み尽くしていた。山の中で周囲に自販機は無い。我慢するしかないか。こんな咽喉の渇きはこの四国遍路のなかで初めてだ。

水が無いと思うと余計に咽喉が渇いて来る。仕方がない、飴でも舐めて渇きを忘れよう、とリュック探ると念のために買っておいた350mlのお茶がポロッと出て来た。買ったことを忘れていたのだ。ごくりと飲んだそのお茶はこのお遍路中で指折りの美味さだった。助かった。

峠を越えた頃に尿意を催した。トイレは当然のことながら周囲にはない。

『おーいマルクス、今からトイレタイムにするけど写真は撮らないでくれよ。股間に「大蛇」を写すことになるぜ』

と言うと、ハッハハと笑い、彼も今まで我慢していたらしく向こうを向いて道端に放尿を始めた。神聖な遍路道であり本当はトイレで用を足したいのだがどこにもトイレなどない。弘法大師には申し訳ないが「日本の大蛇」と「ドイツのニシキヘビ」の連れションタイムとなったーーー。

 

その後の夕暮れは早かった。『卯辰越』の下りになると周囲は急激に薄暗さを増してきた。山の夕暮れは早い。私はこの時点で納経の時間に間に合わないのを悟った。急ぎ足で行っても夕方5時半を過ぎるだろう。納経は夕方5時までで、この距離だと間に合わない。

私は一番『霊山寺』に行くことの意味を自分なりにマルクスに話した。一番から始めて再び一番に戻ることに宗教的意味はないと思う。昔は88番目で終わり1番に戻るなんてしなかったようだ。1番に戻るのは四国を一周したという自己満足だけだ。それは自分だけの誇りの問題だ。再度、納経所で筆を入れるなら再度四国を回らねばならない。写真を撮ればそれで立派な証拠、納経帳代わりになる。一周の証はどちらも同じだ。そうマルクスに話すと、撮ってあげるよと言ってくれた。

『ドイツ館』と言う建物がこのコース上の最後の頃にあり、私はそこも今回見ておきたかった。『ドイツ館』は第一次大戦の時、捕虜になったドイツ兵たちがここに収容された所で後に市民たちとも交流するようになりここをきっかけにドイツの文化が広まった場所だ。ベートーベンの「第9」が日本に定着したのもここがきっかけだと言われる。知っている?君のおじいちゃんが、ひょっとしてここにいたのかもしれないよ、と言うと彼は興味を示し、しかし『シンフォニーNo9』と言っても判らない様子なので、私は薄暗くなった夕闇に向かって『ランランランラーラララ』と『歓喜の歌』を朗々と歌い上げると、彼は、アッそれ知っている、と笑顔を見せた。私たちはそのドイツ館の建物の横を通り過ぎようとしていた。ライトアップされ、今では観光名所として土産店やレストランが入っているのだろう、レンガ建ての立派な建物だった。

 

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私とマルクスは時間がないのでその脇を眺めながら通り過ぎるだけだった。マルクスは今夜『霊山寺』近くの民宿に泊まる予定で、翌朝ここを再度尋ねてみると言い出した。

 

5時半を過ぎ『霊山寺』に到着すると周囲は夕暮れに包まれていた。納経の時間は終わっていた。門前でマルクスが私のカメラを構え写真を撮ってくれた。この四国の1200Kmを自分の脚だけですべて歩き抜いたそれが証だった。

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この日、道を間違えたこともあり34Kmは確実に歩いたようだ。歩数は今までの経験から55000歩前後は歩いたと実感した。この3日間で少なくとも130000歩から140000歩を歩いたと思われる。歩数計が壊れ正確なところが不明なのが残念だがそんなものだろう。

 

今年の3月から43日間、それに今回の3日間の歩数を加え合計約203万歩、これが四国一周の歩数だった。

 

門前でこのドイツ人、マルクスさんとメールアドレスを交換し固い握手をして別れた。誰もいない『霊山寺』に入ると、本堂、大師堂に一周が出来たことの報告と感謝を捧げ、思うことは、レッツイッビー、やろう、やってみよう、人はやろうと思えば成るように為るものだ、と確信するのだった。こうして私の四国一周歩き遍路は終わった。

 
 
(通算)  47日目  結願の日

一周してしまうと残っているのは「高野山参り」だけになった。

---この最後の締めは妻と行こうとかねがね考えていた。四国霊場をすべて回った納経帳、朱印で一杯になった白衣、それは妻にあげる。その締めくくりにはプレゼントされる妻が同席していなければならない。勝手にそんな絵を考えていた。

平成27年11月23日、潮来から高速バスで東京駅、新幹線を乗り継ぎ「高野山」に着いたのはその日の午後だった。天気予報には曇りと雨のマークが数日続き少し心配だった。日本一の傾斜角度30度という「極楽寺」から「高野山駅」へ向かうケーブルカーは連休最後の日で下りは人の姿が多かったが登りは空いていた。

 

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数週間前から予約していた宿『西門院』は私たち夫婦を含め宿泊客7、8人で広々とした宿坊はガランとしていた。小雨が降り標高900m近い高野山は少し肌寒かった。夕暮れ近くに見に行った高野山金堂の仁王像はそれまで歩いた四国の八十八の仁王像のどれよりスケールは大きく、さすがは総本山だけあって圧倒的な力強さだった。

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「高野山」は奥の院からすべて見て回ると最低でも丸一日はかかる。前日の夕方に一部でも見ておこうと夕食前に1時間ほど近くを見て回ったが何もかもスケールが大きくびっくりだった。

 

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「高野山」ではホテルは見かけない。寺と宿坊の街で、所々に生活用品を売る店や土産店が点在していると言っていい佇まいだ。夕食は当然ながら精進料理で三つのお膳が用意される豪華さだ。一切食事に肉や魚は使っていないと言うがダシも効いて美味しく予期していたより十分な満腹感を味わえた。

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翌朝、小雨は止んでくれた。この高野山では周回バスが回っていて、あらかじめ周遊チケットを買っておいた方が便利とパンフレットにもあり乗換駅で購入していたのだが街の端から端まで歩いても片道で3Km前後、脚で街の風情を味わいながら見て回るのには適度な距離で実際にバスに乗ったのは降り立った駅から街までの往復だけ、後の街内は歩いて廻れる距離だった。街の情緒は歩いてからこそ判るものと妻も歩くことに賛成だった。私にとってお遍路で四国を毎日20Km~30Km歩いていた日々を考えればこの程度の散策は散歩程度で、バスに乗るなんて不甲斐無いと考えていたので妻の同意はうれしかった。最後まで歩き遍路でありたかった。

 

奥の院の入り口に着くと歴史上の人物たちの墓石が参道を取り囲んでいる。織田信長や豊臣秀吉、その他の諸大名、歴史を作った偉人の墓が独特の尊厳さ、霊気を山中に放って幽玄の世界を築いている。高野山の世界はここにあるのかと身に沁みて感じる場所、瞬間だ。途中木漏れ日さえ差し掛かる。

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奥の院の建物、その真裏に弘法大師の墓が安置されている。これまで四国八十八の寺を参拝しているとき各お寺では本堂と弘法大師と2か所に祈りをささげたがここは弘法大師の御前なので本堂への祈りはないものと思い建物の周囲を掃除していた方に念のため尋ねるとそれでよいという。

『建物の裏側に回ると弘法大師の御廟がありますから』と。

やっとここに来たか、と建物に入り周囲を取り囲む回廊を裏に向かって左回りに歩いていく。私は宿を出るときから白衣を着て歩きお遍路の格好になっていた。いよいよご対面だ。まっすぐな回廊を折れると数人の人影が山側に向かって参拝している。山肌をくりぬいた祠の中に弘法大師空海は眠っている。用意してきた蝋燭に火をともし納札を入れると最後の般若心経を唱える。妻には昨晩、寺に入ってからの作法や順番を一夜漬けで伝授していた。妻のたどたどしい様子は初日のお遍路の自分を見るようだ。今まで必ずどこかで躓いたり淀んでいた読経がここにきて自分でも驚くほどすんなりと流れていく。今まで納め札には様々なことを願い書いてきたがこの最後の時、5月に亡くなった母の冥福を願った。弘法大師さん、どうか母の事よろしくお願いいたします。導いてやってください。

納経所に行くと用意してきた白衣、その中央に最後の高野山の朱印が押され、納経帖にも筆と朱印が押され私の四国遍路は完結した。

 

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高野山の奥から大門まで歩いた。高野山の街中を端から端まで歩いたことになる。昼に宝物館に入るころに小雨が降りだした。じっくりと見て回ると意外に時間もかかるものだ。寒いので建物の出入りのたびにトイレに入った。

 

この街中には観光地とは違って大型のバスを収容する大きなドライブインやレストランがない。昼食に食堂に入ると、ここでも外人がテーブルの半分以上を占めていてわれら夫婦は片隅に座り、まるで異国のレストランにいるかのようだった。

その晩、大阪の街中にホテルを変えると賑やかな通りを散策、たこ焼をほおばり都会を味わった。三日目、寄り道をして伊勢神宮に足を延ばし、この日の夜には自宅に戻ったのだった。

 

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---終わってみてお遍路とは何ぞや、と思う。

3月にお遍路を始めた頃、足の痛みに苦しみ、いつも不安が付きまとっていた。こんな足でどこまでいけるだろう、何処でダメになってしまうだろうと毎日が崖っぷちだった。そして妙な時に妙な人がポッと目の前に現れ励まし勇気を授けてくれる毎日だった。しかし、10月から再開した今回の完結に向かうお遍路には最初の頃の「立ち向かう」感覚が乏しいのに気づくのだった。それまでの40日以上の経験が「読み」を持つベテランにさせ、残りの歩き遍路を余裕で味わえるほどになっていた。

不安も痛みも承知。「結願」は挑戦の果てではなく、当然となっていた。この時点で私は最初の歩きはじめの頃のお遍路さんではなくなっていたのだ---。

 

今回、母の死というどうしてもお遍路を中断しなければならない理由があったが、歩き遍路は中断せずにやり通すことに意味があると今にして思う。苦しみの中にこそ、修行がある。修行に痛みはつきもの。自分を追い詰める旅こそ本当の四国お遍路だ。

たぶん、膝が完全に復活したとき、私はまた四国遍路の旅に出ることだろう。3度目になる四国遍路、今度は逆に回るのか、それとも番外の別の寺まで回りながらになるのかわからないが、苦しさ、辛さ、みじめさを求めていくことだろう。それが遍路であり辺路だ、と確信するようになっていた。  

 

                            了