娘の結婚式
平成3011月の4日、この日は娘の結婚式の日だ。
 
とうとうこの日が来たか。
時は早いようで遅く、遅いようで早い。この1か月、毎日カレンダーを見ては実感していた。
 
前日、私たち夫婦と妻の母との3人でホテルに車で向かった。女には化粧や着付けという支度時間がかかり当日の朝にホテルに入るのではせわしない、というので前の日に泊まったのだが、妻の姉も母親に付き添いで泊まることになった。
東京日本橋、箱崎ロイヤルパークホテル。挙式もこのホテルで行われる段取りだ。
若い夫婦も前泊でその晩、老若男女の6人でホテルの中華料理のテーブルを囲むことになった。祖母は91歳、一番若い娘の夏実は27歳、夫の悠太君は28歳。私たち夫婦は60歳代の半ば、妻の姉も似たような年齢で、つまり3つの世代が一つのテーブルを囲むのだった。
 
娘はその2か月前、ふとしたことから生まれて初めてパニック症候群を引き起こしていた。
普段は混雑しない時間帯の電車で通勤していたのだが、たまたまその日車両内は人であふれ身動きが取れない混雑で気が付くと呼吸困難の症状になり立っていられなくなってしまったのだという。気分が悪くなり途中下車すると駅のホームに倒れこんでしまった。
幸いにもその時、見ず知らずの二人の女性が心配し駆け付け「私も同じ症状でした」と介護してくれたのだという。目が回って立っていられなくなったのは娘にとって初めてのことで、低血圧なのか何なのか不安になりその日の内に自分の判断で精神科を訪ね、結果的にパニック症候群と診断された。
 
それ以来、電車に乗るのもバスに乗るのも怖くなってしまった。狭い空間、人ごみがあの日の列車内を連想させ気分が悪くなり立っていられなくなる状態が続いていた。勤め先の了解を得て混雑の無い時間帯の出勤と退社にしてもらったのだが結婚式の日、まだ完全には回復していない様子だった。
 
結婚式当日になった。
朝、チャペル入場のリハーサルが30分前に行われた。それまで娘に変わったところはなかった。真っ白いウェディングドレスの娘は思わず息をのむ美しさだった。チャペルの通路の外で、扉が開いてからの歩き方、手の組み方の予行練習があり、娘は緊張のまなざしでガイド係りの女の人の話を聞いていた。
 この時、娘の頬に緊張の赤みが射して心なしか目の周りが汗ばんでいる気がした。これほどまでに近くで娘の顔を見るのは久しぶりなのだがなぜかその緊張した表情には気にかかるものがあった。目線が、妙に落ち着きが無くそわそわとしている気がした。
 
リハーサルの扉が開いた時、歩調を合わせようと娘を見ると頬の赤みと汗は一層鮮明になっていた。馴れないハイヒールを履いているので歩くのに戸惑っているのかと思ったが視線はまっ白いチャペルの壁や宙をさまよっていて様子が変だ。
とっさにもう一方の手で娘の添えられた指先を握ると、同時に娘は足がもつれるようによろけバージンロードの絨毯の上にしゃがみ込んでしまった。
介添人も駆けつけ、抱き起したとき、私は娘の倒れかけた異常さがもつれた足ではなく宙をさまよう視線にあると確信した。
 
チャペルでの結婚式は数分後に迫っていた。リハーサルは簡単に要点だけ続けられ、その間も娘は必死に何かに耐えている風でふらつく身体を私と妻で両脇から抱え、控えの間に連れて入ると娘は糸が切れたようにテーブルに倒れ込んでしまった。肩で息をしているのがベール越しにはっきりとわかる。
 
「どうしたの?気分が悪いの?
妻は心配そうに娘の体をさすり、介添人は気を利かして冷たい水を運んできた。娘の呼吸は今にも停止しそうな呼吸に替わっていた。チャペルの扉が開いた瞬間、娘はパニック症候群を引き起こしていた。
 
 娘は数年に一度の事だが、激しい悲しみや苦しみに耐えられなくなり感情が高ぶると過呼吸になることが何度かあった。
ハァハァハァハァ
と激しい呼吸音がするのだが、胸の奥まで空気が入らず肺の入り口で空気が行き来するだけなのだ。酸欠から目はうつろになり視線に焦点が無くなると目は周囲をさまよいだし意識を失ってしまう。それが過呼吸だ、と私は見ていた。
 これは女が男と違い腹式呼吸が不得手なためで、緊張すると胸だけで浅い呼吸を繰り返し、それは一見して激しく呼吸をしているようだが表面的なだけで根本的なところで酸素の入れ替えが出来ない状態なのだ。落ち着いて肺の奥まで空気を取り入れることが出来れば、途端にこの症状は改善する。
 
しかしこの時、控室で真っ青になっている娘は過呼吸状態の激しい呼吸をしているわけではなかった。
顔色は貧血の人のように真っ青で口を閉じているのに気付いた。ラッシュアワーで人ごみに押され肺が圧迫され息も出来ない時の表情そのものであった。
チャペルに入ったとたん、狭い列車の混雑を思い起こし、あの時と同じように心身が硬直したに違いない。娘のパニック症候群は電車のトラウマに起因している、私はとっさに判断した。
 
「いいか、お父さんが言うようにしろよ」
私は娘と顔を対峙させ、じっと目を見ながら諭すように話しかけた。
「口じゃなく、いいか鼻から臍の下に空気を送り込むんだ。それを1回に5秒以上かけてゆっくりやってごらん。---これは早くやってはダメ。ゆっくり5秒くらいかけて鼻から、臍に向かって空気を送り込む感じでやってごらん」
 私は自らゆっくりと鼻で息を吸う様を見せ、娘に同じ行為をさせた。
「吐くときは口からでいい。それもゆっくりだ。吸うときはストローを鼻の穴に突っ込んで吸いあげるように、いいな」
娘のふらついていた視線は数度その呼吸を繰り返すと落ち着いてきた。過呼吸と同じだ、と思った。目に見えない乗客の壁に押され、トラウマに支配され、あの日のように呼吸を停止していたに違いない。
 
 控室のドアの外で参列者の何人もの足音が聞こえていた。しばらくすると全員がそろったらしくドアの改めて閉じられる音が続いた。我々の控えの間はその入り口のすぐ脇だった。
 娘はこの数分でやっと落ち着きを取り戻したようだった。左右に宙をさまよっていた視線も落ち着いてきたように思えた。しかし、この時ほどもっと時間が欲しいと思ったときは無かった。娘の体調が完全に戻ったという確信が欲しい。あと2分でいい、ゆっくりと休ませたい。私は娘の両腕のツボを指圧し活力をよみがえらせようとしていた。
 
チャペルの中からはハモンドオルガンの音が響きだした。
司会者の静かな語り口が流れると同時に曲は「結婚行進曲」の冒頭を高らかに響かせ始めた。この期に及んで「まだ、休ませてください」とは言えない。
 介添人の案内に従い娘の手を支え、控室を出て通路に向かうと私は形ばかりのエスコート役ではなく娘が倒れそうになったら本気で支えるつもりで肘を差出した。
 
「さっきはチャペルに誰もいなかったけれど、今度は友達が笑顔でお前を迎えてくれる。もう大丈夫。いいか、鼻で深く吸い込むんだ」
扉が開くと着飾った参列者が一斉に振り返って私たちを見ていた。扉まで歩くと娘と並んで会場の全員に頭を垂れたのだが、そのお辞儀をしている数秒の間に娘は再びめまいを起こすのでは、と私は下を向きながらも気が気でならなかった。
顔を正面に起こすと私は娘に肘を預け娘の指先をもう片方の手でしっかりと支えた。娘はさっきの汗ばんだ赤味の射した顔からいつもの白い肌にもどっているように見えた。目線も左右に躍っていない。鼻からの深呼吸が功を制したのだろうか。祭壇の前に待っている新郎はつい数分前の事情を知っているだけに最後まで不安の入り混じった表情で私たち父子をじっと佇んで待っていた。このバージンロードの一歩一歩がどれだけ長く感じたことだろう。一歩を歩いては娘の顔を見て
「ゆっくり、ゆっくりでいいよ」と話しかけ
「鼻で吸うんだぞ」と話し続けた。
 
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「今日という一日を精一杯楽しむんだよ。お前の生涯で最高の日なんだからね。もう大丈夫だよ」
手を放す間際、娘もうなずきしっかりと足元を見つめているのが分かった。もう、パニック症候群もトラウマも大丈夫だ。
何とかバトンタッチできそうだ。よかった。歩みを止めるとそこには真面目な顔つきの新郎が私たちを見つめていた。
 
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娘の手を肘から外すと私は新郎に娘の手を渡し
「よろしくお願いします」
と頭を垂れ、前列の妻の横に座った。今後は夫の悠太君が私の娘を支える番だ。さあ、バトンタッチだ。
 
その後の数十分間、結婚式のセレモニーは滞りなく進み、娘の表情には不安な視線は消えていた。
チャペルに入る前にパニック症候群を引き起こしたことなど参列者の誰も知らない。ハラハラしていたのは私たち両親と新婚夫婦たちだけだ。何事も無く挙式が済んだことがどんなにうれしかった事か。
式場を出ると私と妻は小さく言葉を交わしていた。
「よかったね」
「あとは披露宴だね」
親としての大きな務めが一段落した瞬間だった。