両家の初対面
 41日の日曜、大安。
この日、ホテルに向かう途上の桜は満開を過ぎていた。例年より一週間早く咲き始め、まだ41日になったばかりなのに花びらは風にひらひら舞い始めていた。
 
この日は娘の結婚相手の両親と我々夫婦が初めて顔を合わせる日だ。
さかのぼること数日前、娘からメールで「家系図」が送られてきた。それは婿さんが作った実家の「家系図」でA4版用紙の一番下に「本人」と「娘」が二重線でつながり、弟さんは単線でつながっている。その上の列に両親とその叔父伯母達が横に並び、更にその上列に祖父母、曾祖父母と4世代の絵巻物になっている。
「故人」と注釈の入った人もあれば「85歳」「90歳」と高齢な人もいる。これと同じ形のものを当日両家に渡したいが我が家の家系図もこんなふうに作って欲しいと言うのだ。おやおや、ちょっと面倒なことになったな、というのが率直な感想だった。私も妻も結婚の時にこんなものを交換した覚えがない。せいぜい家族構成ではなかったか。何とも古めかしいことをやろうとしているのだろう。一瞬あっけにとられた。
 
我が家にも祖父の代に作ったらしい手書きの家系図が仏壇に残っており江戸時代の後期頃までさかのぼることは出来るが家系図と云うものは男側だけでは片手落ちで妻の側もつまびらかにしなければならない。
調べるのが面倒だと思う反面、ここまでやろうとするのは二人がしっかりしている証拠に思えた。出来るだけ親族の間柄を文書で残し整えておけば、今後の付き合いで誰がどこのどんな関係なのかいちいち尋ねる必要もなく「家族」というルーツのツールにもなる。叔父や姉に電話し年齢や漢字、ひらがなの確認をすると次の日娘に家系図をメールで送り返した。完成した家系図は当日若い二人が持参し双方の親に渡す手はずになった。
 
どうもこれらの準備、一連の流れは結婚する二人がインターネットで調べた結果のようで「両家顔合わせマナー」と検索を入れると家系図は用意すべき必須事項の一つだった。ネットで育った世代の調べ方であるがこれはこれで役に立つものだ。
 
駐車場に着くとホテル入り口で娘は外に出て我々の到着を待っていた。今日はゲストを迎える立場に徹しているようだ。正月以来3か月ぶりに会うことになるがフォーマルな明るいスーツ姿に身を包み、健康そうな笑顔で手を振って迎えた。
ホテルのロビーでは婚約者とその両親が立って待っていた。ご両親とも私たち夫婦より45歳若いと聞いていたがお父さんは地味な背広、お母さんはシックなスーツ姿だった。お互いが正装である。こんな時、両家はどんな服装で会うべきか妻は娘を介して事前に確認していた。差があってはならない。どちらかが恥をかくような対面であってはならない。我々も、そして若い二人も皆がここでは正装であった。地方とはいえ選んだホテルはこの一帯では最も格式が高く、社交の場として相応しいものであった。
 
この日は祝日で大安吉日、案内されたホテルの料亭には
「本日は予約の方のみで一般の方の飲食は利用できません」
と看板が出ていた。就職祝い、入学祝い、いろいろな慶事が重なっている日のようだった。案内された部屋はズラリ並んだ個室の中の一番奥に位置していてだいぶ前から予約してあったようだ。入り口から一番遠い奥の席に先方の父と母の順で座りその向かいに我々は腰を下ろす。座席は掘りごたつのの形式で、膝を組むのではなく足が伸ばせるのは助かった。子供たちはそれぞれの下座に並び婿さんが今日の進行役を務めるようだ。インターネットで書いてある通りだ。
 
相手の父親が簡単に自分と連れ合いを紹介し説明が長くなりかけ、それを自覚したのだろうが息子を振り返り「簡単な説明でいいかな」と時間の配分を気にし、息子がうなずくと手短に紹介を切り上げた。気を配れる親だとその時に分かった。連れ合いも簡単に自己紹介しそれに続いて私たち夫婦も自己紹介をした。事前にこんな時はこんな挨拶をするものだとネットに載っていたが臨機応変、その場の流れと雰囲気で形式にこだわらずに行こうと決めていた。
部屋付の中居さんは私たち一同が挨拶を交わし終えるのを待っていて一区切りするのを見計らうと
「本日は誠におめでとうございます」
深々と畳に額を下げ挨拶をされた。さすが一流のホテルである。社交の場の専門の人たちに囲まれているという実感がわくのだった。
用意してあったスパークリングジュースの栓が抜かれ乾杯で始まった。乾杯に続いて私はビールを飲み始めたがピッチを抑えた。心臓の病気があるため向うのお父さんはあまり酒を飲めないという。初対面の席で私だけが酔う訳にはいかなかった。
 
子供たちから「家系図」が配られ料理を頂きながら互いに自分の家の説明を始めるのだが先方の親族にはご健在の方が多い。
私たち夫婦より5歳若ければ当然のことにその親、叔父伯母の方も同じくらい若い筈で80歳代が多くを占めていた。昔の世代の兄弟は今の時代と違って大人数で8人前後と人数が多く、双方とも似たような人数であるが我が家の親族の方は既に故人になった人が多い。この10年間に後を追うように旅立っている。そこが大きく違っていた。
お父さんは家庭だけではなく親族を代表する立場にあるようだった。昨年亡くなったお祖父さんが家族郎党の長男として筆頭役でやっていたため、後継ぎとして先祖の流れを継ぐ立場になっている。それが家系図からも判る。しかし時間が経ってその場の雰囲気が少し和やかになってくると叔父や叔母の人数の多さを指さし
「お彼岸や正月、それにお盆に年3,4回はこの親戚がみんな我が家に集まってくるのです。もうこんな集まりはやめにしようと言おうか思っているんです」
と、長男としての大変さを身内に語るように話すのだった。
ことあるごとに集まってくる大人数の食事の用意、後始末に閉口しある時から使い捨ての紙食器に変えたが皆が帰った後の食器だけでも大きなゴミ袋23つも出るのです、と大変さを語っていた。
夫婦ともども親戚が集まることに苦労を味わっているようで、その大変さは私たちの時代でもう終わりにしたい、と真剣に考えている様子だった。それは
「息子が結婚したら、こんな思いを嫁には引継がせたくない」
という表れでもあった。
これらの話はお父さんだけが主に発言し脇にいるお母さんは口を挟まなかった。今日のめでたい席にふさわしく無い話題のせいであったからかも知れない。暖かな午後だった。用意された食事はすべて上品で繊細、選び抜かれたおいしさだった。
 
「気になっていたのですが、お子さんは娘さん一人だけで、お嫁さんに出すことにお父さんとして反対する気持ちはなかったのですか」
突然お父さんは真面目に私の顔を見て言い出した。今日、このことだけは確かめておきたかったと前置きして話し始めた。
相手の気持ち、立場を考えない人にはこんな疑問は浮かばないものだ。私はそう質問されることが意外であり、また同時にうれしかった。心情を押し図る忖度が伺えたからだ。
「正直なところ、全然ないとは言いません。少しはあります」
私は正直な心境を話した。
 
家の後継ぎ問題を言い出すと、特に一人娘はその重荷で結婚のチャンスを逃がす人もいる。今は男でも女でも結婚しないまま独身で終わる人も多い。私は娘には平凡でも幸せな人生を送ってもらいたいと願っている。娘の幸せであって、親の幸せではない。心のどこかに、確かに名前を継いでもらいたい気持ちがないわけではないが、名前が変わってもどこかでDNAが綿々と続いてくれればそれでよしとしなければならないんじゃないのか。そう考えるようになりました。
 
相手のお父さんは何度もうなずき、じっと私の表情を見ていた。やっと生まれて来たのだ、娘には当たり前の幸せな人生を送ってほしい。親のエゴの犠牲なんかなって欲しくない。。子供より先に親は死ぬのだ。
夫婦で「墓終い」を昨年から考えている、とはこの場で言わないことにした。
 
結婚式当日の予定人数やその時に着る和服や洋服の話題に話は飛び、互いの考えや人柄がほんのり判る頃にお開きの時間になった。
 
我が家は、ホテルから車で15分ほど走った所にあり、水戸から来たお父さんお母さんからすれば帰り道の途中である。家系図に載っている身内の写真も居間には飾ってある。今後のお付き合いもあるだろうし、家がどんな処にあるか知っておいてもらいたい。もし、予定がなければ途中寄って行かれてはどうかと誘った。せっかくこの辺まで来たのに何も声をかけないのは失礼かと思っていた。すると意外にも夫婦で立ち寄ることになった。
我々の車が自宅まで先導することになった。先行する車を見失う危険性もあり、娘達が念のため案内係で後続の車に同乗することになった。
 
6人が帰宅すると居間でテーブルを囲み、お茶を飲みながら改めて家系図と見比べ写真に写っている親戚家族を紹介した。文字だけだった家系図に写真という具体的な人物像が加わった。
 
人は第一に本人を見て、次に親を見て、そして兄弟親戚友人たちを見て、更に住んでいる環境に触れその人の生い立ちを知る。当然相手の親もそう思っている筈だと誘ったのだった。
悪い印象は何もなかった。この親にしてこの子あり。お互いにそう思ったことだろう。会ってよかったと思うのだった。夜になってどっと疲れを感じた。どこかで緊張していたのだろう。みんな感じることは同じだろう。
 
あとは11月の結婚式だ。
イメージ 1
(プライバシー保護のため目線は隠しました)