正月に娘の彼氏がやってきた。
最初に娘が彼氏とやってきたのは3年前の冬で、結婚相手を紹介するためだった。
中学、高校と同性の友達は我が家にやってきたが男の子を連れて家に来たのはそれが初めてだった。
「いよいよその時が来たか」
前もって来訪の日を言われると、なんだか照れくさいようなドタキャンしたい心持だった。それが3年前のことである。
翌年つまり昨年、2度目に正式な結婚申込のため彼氏はやってきた。私には何の異論もなかった。女は自分で好きになった男と一緒になるのが一番だと思っていた。相手は至極当たり前の男であった。二人兄弟の長男で理科系の教員、常識を持ち合わせているのは初めての日に酒を飲みわかっていた。連れてきた相手に口出しする気持ちはなかったが正直なところ一人娘なので、嫁にやるとなると自分の家の名前を自分の代で絶やすことになり、そこだけ負の気持ちが働いた。何かその時になって妙な責任感が自分の中に蠢いてくるのだった。
しかし、そんなことを主張し始めると親のエゴ、家のエゴで子供は犠牲になり結局はろくな結果にならないのを周囲で幾つも見ていた。形式大事より子の幸せ。「名」より「実」。どこかで私のそして妻の、我々のDNAが引き続いてくれればそれでいいではないか。そう思うことにした。
 
 彼氏が申込みにきた日から数か月して彼氏の身内、祖父が亡くなった。若い二人は都内のホテルの結婚式の仮予約までしていたが身内の不幸があった年は晴れ事を行うべきではないという考えが先方の家にあり予約を中止した。
伝統を覆してでも結婚する勢い、勇気は若い二人には無く親の考えをまずは尊重する気配りがあった。二人とも周囲に気を配る優しい性格なのである。初めて会って酒を飲んだ席でそれはわかっていた。結婚の延期に対し私はもどかしさを感じずにはいられなかった。もし翌年も誰か身内が亡くなったら、また先延ばしするのか?と。
私は自分の人生観が特異なせいかもしれないがそれらの対応に少しイラついていた。生者より死者が大事か?死者に遠慮すべきではない。死者より生者が大事。
私には平和に満足する日常感覚が欠けているのかもしれない。いつ人は不意に死んでもおかしくないという刹那主義的な死生観が私にはあった。
 
----私は22歳から2年半、外国航路の船乗りをしていた時期があった。台風の日、私の乗っていた全長100mに満たない貨物船は南シナ海の沖合で30m幅の波に次から次と翻弄され続けていた。山の裾に落ちるように船が波の底に沈み、浮き上がり、翻弄され続けた日があった。ああ、こんな波に巻かれたらいくら救命胴衣を着けても誰も確実に死ぬ、とその波をじっと見ていた。そんなことが何度かあって結局は25歳の時に船を降りたのだが「人はいつ死んでもおかしくない、やれることをしておくべきだ」と考えるようになった。それは、農耕民族的な「来年も必ず花は咲き、季節は巡る」とは反対の「来年があれば見っけもの」という刹那主義、即決主義を私に植え付けた。ぐずぐずと結論を先延ばしにし、やるべきことをやらないのは生きる事を放棄しているのと同じだ。「明日が命日と思え」という人生観が根本に備わっていた。
 
「親が亡くなったから結婚は来年」へえっ来年も命はあると思っているのか、私は思わず苦笑していた。明日が命日かもしれないのに綿々と明日は続くと考えているのか、いら立ちを覚えていた。
 
正月、彼氏の来訪は3度目であった。暮れから正月にかけて水戸の実家で過ごし上京する途上、我が家に立ち寄る形だった。結婚の大まかな計画を両親に相談し、その報告を兼ね挨拶に立ち寄ったのだ。
いつもの料理屋に4人で向かい、それが定番のようにいつもの料理で向かい合った。
「親や祖父母の親戚が水戸周辺に多く、高齢の人が多いので地元で式を挙げてもらいたい」
というのが父母の意向らしかった。水戸はここから車で1時間半ほど、距離的にも異存はない。仮に東京でも高速が使えるので大差なく、いずこで結婚式を挙げてもこちらに不満はなかった。
親戚同士の顔見せ的な結婚式を水戸で行い、仕事や仲間へのお披露目は別の日に東京で、と2つの式を挙げる計画を聞かされたが異論ははさまなかった。それがいいと思う背景は二人の都合のなせる業で、当事者外が口出しすべきではないと思っていた。
 
意外だったのは、この二人、結婚しても水戸に行く気はなく東京で生活を続ける計画だったことだ。「長男だから水戸に戻る」とは考えないのが意外であった。
そこで一歩踏み込んで「でもいつかは戻るんでしょ?」と尋ねると、「ええっ、仕事が終わって定年になった頃にはそうするつもりです」と言う。つまり教師として現役でいる間は親との同居は考えていないのだった。
これには私の方が驚くのだった。私は長男だからと25歳になって実家に戻り、その後に縁があって30歳前に妻と結婚し62歳の定年まで親と同居し暮らしてきたが、なんだかんだと物わかりのいいようなことを言いながら自分の方がよほど慣習に縛られている人間に思えた。拍子抜けするほど家に対する考え方が私たちと違っていた。
娘も親との同居など全く予想していなかったらしく「水戸で暮らすのでは」と私が言うと怪訝そうな顔をした。彼には弟が一人いてその弟も東京で働いており、つまり二人兄弟の誰も家に残らないのだ。
私は娘を「嫁に出す」立場だと思っていたが結婚後の生活の場が東京の二人だけの所帯なら娘を「嫁に出す」ではなく娘は「嫁になる」だけなのかと気分が軽くなるのを覚えた。娘は婿さんだけの家族になるのでもなく、婿さんも我が家だけの家族になるのでもなく、どちらの家族でもある。いわばニュートラルな存在、共通の家族なのだ。
 
料理屋に着いたのは昼に近い時間だった。
婿さんは夜までには東京に戻るつもりだという。昼からの酒は利くので、料理を主体にビールから焼酎のボトルへと自制して飲んでいるつもりだった。
 
 我が家の娘は我々夫婦が結婚して9年目に授かった子で、娘の彼氏も7年目に授かった子だという。つまり双方とも親が待ちかねていた子でその時の喜びはどんなだったかと話していると、急に酔いが回ったのか私は娘の生まれる前の苦労を思い出し、ぼそぼそと話し始めていた。実は娘の生まれる前、4か月で流産した子がおり諦めていたがその後にやっと授かった子なのだと話し始めていた。
「娘が生まれた時は小さい指先一本一本を数えてね、手と足に10本の指があって健康で生まれてきてくれたことがどんな嬉しかったか」
と話し始めると酔いのせいか言葉がつまり突然に涙がこみ上げてきた。突然にとめどなく涙がこみ上げ、おそらくは妻も娘も私がそのように泣くのを見るのは初めてで驚き呆然としていた。私はひとしきり悲しかった日の事、嬉しかった日のことを嗚咽とともに話すと「よろしく頼む」と婿さんに頭を下げ「この一回だけ、もう泣かない。きっと一生泣かない」と言った。
何かしらずっと溜まりつづけていたものが堰を切ったようにあふれ出た瞬間だった。40年前に父が死に、2年前に母が死んでも涙を流すことはなかった。もう、私は死ぬまで泣かないだろう。