「治験入院」
治験入院きっかけ
春先のことだった。65歳の誕生日が近づく頃のことである。年金通知や高齢者医療費の書類が立て続けに届くようになった。いつまでも青年の時の延長のつもりでいたが、
「お前はもう65歳。年寄りの部類に入ったのだぞ」と、頼みもしないのに指摘されるようで「おせっかいな」という思いだった。
 
65歳という年齢は一日になぞらえると何時頃だろう、と思った。
人の誕生は、太陽が顔をのぞかす時刻だろう。周囲を照らし始める朝の5時か6時。真上から太陽が照りつける頃が20代の青春、11時から12時といった時刻だろう。陽差しが弱まり始める頃が中年期、午後の2時か3時。そして水平線を赤く染め西陽になる頃、午後の4時過ぎ、それが今の私の年齢だろう。間もなく夕闇が近づき一日が終わる。その後は闇が覆う。
 
2年前、定年を迎え会社員生活を終えたが「定年」は「停年」とも書き、肉体的、精神的に仕事中心の生活はそろそろ「停め時」を指すのだろう。本人としては働くつもりでも世間から見れば「もういい加減にしな、潮時だ」という辞め時なのだろう。
不本意な事はたくさんあったが、会社員としては立場上は仕方ない、と我慢してきた部分が多分にある。が、これからは好きなことだけをしたい。いやなことは、もうやりたくない。---幸いにも子供は無事に独り立ちし、妻も元気である。周囲に迷惑さえかけなければやりたいことだけをやればいい。今後は悔い無く過ごしたいものだ。年金通知書を見ながら、改めて思うのだった。
 
歳を重ねれば、体の動き、頭の動きも鈍くなる。ある日を境に寝たきりになる可能性もある。周囲にいる年老いた叔父や叔母、高齢者たちを見ればそれは確実である。老化するのは生物の自然な経過なのだ。最後までシャンとしていられる人のほうが少ない。いずれ自分も同じ道をたどるが、その「いずれ」は手の届くところに来ているかもしれない。明日のことはわからないのだ。
長生きしてもおそらく80歳、85歳前後といったところだろう。事故もけがも病気も何も無く過ごせたらとしてだが。そして単に長く生きても意志通り体が動かなければ自由とは言えない。見回してみると周囲には70歳代半ばから急に体が衰える人が目立っていた。元気で動けるのは70歳代迄と考えた方がよい。今からの10年前後が自分の残った時間だ。
 
何もしないのも一生、何かの役に立つのも一生。人は必ずいつかこの世を去る。この自分という存在を残りの時間の中で何かの役に立たせたい、と改めて思うのだった。
 
--そんなある日に「治験ボランティア」という仕事のあるのを知った。
「治験」を詳しく調べてみると、「治験」とは新薬などの開発、実験に生身の人間を使って新薬を試し実際に人体への影響、効果や拒絶反応が有るのかなどを調べることで、資格も特殊な経歴も必要とされないのだった。ある種の病人だけ対象にする場合もあるが健康で平凡な身体だから参加できる場合もある。こんな私でも役に立てるのだ。
「治験」という言葉を「人体実験」という言葉に置き換え、尻込みする人もいるが私は一向に気にしなかった。どうぞ活用してください、こんな身体でよかったら。これが応募のいきさつだった。
 
応募
登録を完了しても、しばらくの間は何の音沙汰もなかった。
1か月ほどして「糖尿病初期の方を募集」のメールがパソコンに届いた。糖尿病患者の新薬の効果を試す内容だが、しかし私には毎年の検査で糖尿病の兆候はなかった。持病もなく常時服用の薬もない私には参加資格はなかった。
実は中年期以降、高血圧とコレステロールで投薬を続けた時期もあったが、薬頼りの生き方が嫌で、退職と同時に医師に相談し減量と運動を定期的に取り入れ自主的に投薬を中断していた。投薬を中断しても体調に変化はなかった。
 
せっかく連絡をもらっても応募資格がないのか、とがっかりするのだった。
数日後、サプリメント体験の募集があったが年齢40歳代までとあり、これまた参加資格はなかった。健康な身体だと何も参加できないのかと思っていると65歳の誕生日を迎えた日、3度目の募集連絡が入った。まさに65歳になったその日だった。
 
・年齢が65歳以上79歳までの日本人で健康な男性
BMI18.5 26.8の方
・常用している薬がない方
・非喫煙者、その他。
 
自分にピッタリの条件だ、それも資格年齢65歳になったその日に連絡が入るとは。健康でも応募できるものがあった、と何かこの連絡を運命のように感じたのだった。呼ばれている気がした。ここに参加しなさい、と。
詳しい内容をみると、しかし日数が長いのが気になった。
 
1回目に2021日。さらにその後の1週間のうち4日間を通院。
病院から解放され一か月は自由、2回目の入院では2324日。さらにその後の1週間のうち5日間通院。
つまり4月から8月までの4か月間に合計で43泊の入院と9日間の通院をすることになる。必然的に仕事を持っている人は参加できない。家族に引き留められる人も無理だろう。旅行の計画を持っている人や毎週定期的な予定のある人は参加できない。
 
ボランティアとはいえ必要経費として交通費は一定額が支給され、持ち出しにはならない配慮があった。ただし全部の日程に参加することが条件で、都合の良い日だけ参加というわけにはいかない。宿泊中の3食は支給されベッドも用意される。入院中は宿泊代も食事代もかからない。毎日のように血液検査があり、注射の苦手な人は参加できない。集団での生活が義務付けられプライバシーは二の次、しかしすべてを納得して協力できる人には終了後にある程度まとまった協力金が支払われる。
 
長期入院となるとその間、妻を一人ぽつんと家に残すことになり、これが一番気がかりであった。自分一人だけでは決められない事だ。私は独り者ではない。夫婦である以上は妻の理解がいる。
 
家族の同意
幸いなことに我が家には高齢者が同居しているわけでなく母は2年前に他界していた。妻は健康で一人娘も東京で独り立ちしている。夫婦だけの生活であり、妻が同意すれば参加できる。
夫としての妻への責任と不安もあったが「こんな経験はめったにできないぞ」という強い好奇心も一方であった。
結局は治験協力費も支払われるので、退院して帰ったらそれで旅行に行こうと説き伏せ理解を得たのだった。持つべきものは理解ある伴侶、よき妻である。
 
第一次検査
応募し数週間して治験検査の日がやってきた。この日、東京には春風が吹き満開だった桜はハラハラと散り始めていた。
平成29年の4月某日、送られてきた地図を片手に私は東京都内の某所、駅から7,8分の狭い路地を歩いていた。気が付いたのはこの病院は一般の病院とおもむきがだいぶ違って看板を表に掲げていないのだった。わかりづらい路地奥に隠れるようにひっそりとたたずみ、外来患者を迎える雰囲気に欠けている。地図なしではたどり着けない建物だった。
ここを訪れる人は今日の日のように高齢の男性のみの時もあり、またある日
は糖尿病の人だけ、またある日は頭髪の薄い人だけ集まるといったある種共通の人だけが集まる病院だ。
開発中の新薬が人体にどんな影響を及ぼすのか試す「治験」専門病院、いったん入院すると途中で外出ができなくなり、一般の病人は誰もやって来ない。もちろん面会もお見舞いもない病院なのだ。
この日、受付で免許証や保険書で本人確認を済ませると26名の参加者は別室に導かれ、誓約書、問診票、交通費振込の口座用紙、意志確認書などにサインが求められた。
午前9時、集まった全員に詳しい検査内容が説明される。
今回の治験目的は、「ア○セ○ト」という認知症薬をシートに浸み込ませ、皮膚に貼付してその吸収性を確かめる実験だった。従来は錠剤で、しかし患者の中には「嚥下障害」の患者もいてうまく飲み込めない患者もいる。そんな患者のため、錠剤以外の方法で効果を試そうというものだった。
「人のため一肌脱いでやろう」
と思っていたが本当に背中の肌を貸すことになる。
 
治験者の中には、特に男性では体毛の濃い人もいるので貼付に支障がないか、傷、やけど跡はないか一人一人背中をチェックするのだった。刺青、タッツーを入れていると治験資格はない。
シートを貼って皮膚に炎症が出るか副作用がないかを1回目の入院で検査し、シートの貼る場所は背中の上、中、下、右、左と毎日場所を変え、その都度に採血し数時間ごとの効果を調べる。2回目の入院では薬が錠剤に変わり同じく血液の薬剤濃度に違いがあるかをチェックする。入院中、少なくとも日に2回、多い日は一日に9回の採血になる。
 
 最終的な人数は26名参加者12名で14名が落とされる。入院初日に雰囲気になじめず辞退する人もいるらしく12人に予備3名を加え15名が初日に集合することになる。翌朝、辞退者3名が出れば予備3人が入れ替わり、誰も辞退者がなければ3名は帰される。どこまでも万が一を想定し念を入れ治験者を選考する仕組みだ。
 
食事についても注意が与えられる。病院側で用意した食事を食べきれないとか好き嫌いがあると、検査結果に異常数値が出た場合、薬が原因でそうなったかそれとも食事が原因か分からない。ばらつきをなくすため、全員同じメニュー、同じ量を完食してもらいます、とダメ押しがだされる。好き嫌いの激しい人は辞退せねばならない。
期間中は散歩も外出もできないという。お菓子や飴、ジュース、酒、煙草の持ち込みは一切禁止、今まで禁を破る人がいたのだろうか入院時に手荷物の検査もするという。不埒にもこの時までポケットウィスキーでも持ち込もうかと思っていたがあきらめることにした。断酒道場に行くのだ、そう思おう、これも修行だ。
 説明が終わった時点で辞退する人はいなかった。みんな覚悟をもって臨んできているようだった。
 
妙な禁止事項もあった。
「期間中は避妊厳守」
とある。男性限定で募集していてなんだろうと首をかしげた。避妊についても 
(精管切除、子宮内避妊器具、経口避妊薬、コンドーム) 
と方法まで書いてある。女性参加者が一緒に参加するならそれもわかるが募集条件は男、しかも65歳以上限定。「その気」がある男も参加しているのか、と両隣の男を思わず見た。ちなみに私はテレビでオカマたちが幅を利かしているのを見るとおぞましいと感じる男である。----なんてことを言いながら退院するころにすっかりオカマっぽくなっていたりして---その辺のところはどうなるのか分からない。
 
すべての禁止項目を守れるか改めて自問した。タバコは辞めて30年以上経って今では嫌煙家。コーヒーも口淋しいときに何となく飲むだけで無ければないでよい。欲を言えば散歩ぐらいはさせてほしいところだが禁止事項となれば致し方ない。
問題はアルコールだった。毎晩酒を休んだことがなく「アルコール摂取禁止」が引っ掛かる。ついポケット瓶のウィスキーでも忍ばせていこうかと思ったくらいだ。
が、これもよいチャンスかもしれない。習慣になって飲んでいるような気もする。そんな自分に神様、仏様が肝臓をたまには休ませろと命じているのかもしれない。
 
説明のあと検査になった。尿検査、採血、心電図、体重、身長、血圧測定と進み、およその検査項目は一般の健康診断と似ているのだが検査は常に係員が二人一組で、一人が数字を書き込みもう一人がそれを指さし確認するダブルチェック方式をとっていた。検査項目が変わる都度、氏名を確かめ治験者の取り違いを防いでいて厳格さが違うのを感じ始めた。
 
ある部署で食物のアレルギーについての質問があった。私は以前「鯖」にアレルギー反応が出たことを正直に答えた。今から20年以上前になるがそれまで鯖を食べても何ともなかったのだがある日の鯖を食べた夜、腕から背中にかけて赤い発疹と痒みが出た。その晩は軟膏を塗って痒みをごまかし翌日にその発疹は消えた。調理のせいか体調のせいかわからなかったがそれに懲りて以来好んで鯖は食べなくなり正直に申告したのだった。
検査係りは私の言葉を聞くと壁に貼ってある入院食事メニューをじっと眺め、そこには21日間にわたる朝昼晩の食事メニューが事細かく書かれていた。
「入院すると5日目に『鯖のミリン干し』が出る日がありますね。---12日目にも『鯖の照り焼き』が出ます。大丈夫ですかね」
と尋ねられた。
「たぶん大丈夫でしょう」と返答した。
 
次に背中の皮膚の検査だった。私は以前からビー玉大の脂肪の固まりのようなコブが左の肩甲骨付近にあるので気になっていた。素人考えで私はそれを脂肪の塊だと思っていたのだった。が、これは医学的には「粉瘤」と呼ぶらしく、粉瘤とは脂肪ではなく皮膚の老廃物が皮膚の内側に蓄積した固まりなのだと知らされた。
夏、シャツを着ると鏡に映った自分の背中のそこが小さくまるで女性の乳首のように膨らんで気になって2年前医者に診てもらったことがあるがその時の医者は背中を一目見るなり
「これは切らなくても大丈夫ですよ」
特に切除を勧めるわけでなく、こんなの気にする必要はない、といわんばかりで診断は終わった。目立つだけで、痒くも痛くもない。二人の検査係りはかわるがわる粉瘤を触って
「この大きさだと支障はないですかね」「大丈夫かな」ぼそぼそ相談し合っていた。係りがどう判断したかはわからなかった。
 
昼に検査は終わり、三三五五の解散で各自が玄関を出ていくことになったが、きっと私は選考メンバーから外れたに違いないと思った。鯖アレルギーと背中の粉瘤、この2つ体質が治験者として適性に欠け失格になるだろう、と。
1週間後の金曜日、内定者12名、予備3名、合計15名にだけ電話連絡するという。大学受験の合格電報を待つ受験生のようだ。朝の10時から午後1時迄3時間、その間に電話がなければ対象外だという。これが一次検査の一日だった。