平成27年に四国お遍路、八十八の寺を45日間かけて歩いた時の話です。
四国を徒歩で歩き、「これが道か」と驚いた地区がいくつかありました。四国の「道」、そして出会った「人」の思い出をここに書き留めておきます。
 
その1、大岐の浜
いわゆる四国の「お遍路」は、実際に歩いてみると全体の七割くらいは舗装された道になっていて今では国道や県道として完成された道になっている。残りの三割が今もって未舗装の峠道、山道として残っているのが実態だった。
 
「徳島県」から歩き初め「高知県」に入ると、ほとんどが太平洋沿いの海を眺めながら歩く道になった。ちなみに「高知県」は四国の中でも面積が最も広く、反対に人口密度が極端に少ない土地で市街地がまばらにしかない印象を強く持った県でした。
 
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「足摺岬」に近づくころ『大岐の浜』という地名に差し掛かり、そこには全長1Kmほどのまっすぐな砂浜が広がり、入り組んだ海岸線をそれまで歩いてきたお遍路の目には新鮮な光景に映ったものでした。
 
  
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お遍路地図によればこの砂浜がイコール遍路道になっています。
 
国道から海岸線に入ると地図に従い4月の砂浜を風に吹かれ打ち寄せる波音を聞きながら歩いたのでした。だだっ広い砂浜があるだけで、自分のお遍路姿のシルエットを砂浜に映しながら黙々と歩き続けるのでした。
 
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---やがて直線の砂浜の終わるころに目の前に川が見え、そこには幅10m前後の清流が流れていました。山から下って来る川は海に流れ込み、しかし周りを見ても橋がない。上流の200mほど先に防風林の藪が広がりその辺に道があるのかと行ってみるが、びっしりと密集した植物の壁になっていて人が通り抜けられない。ハタと困った。行き止まりではないか。しかし地図にはこのルートに遍路道の印がある。橋が流されてしまったのか?
 
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川は膝までの深さの浅い川で、ええい、仕方がない、とばかりに靴を脱ぐと片手にぶら下げ、もう片手は杖にすがり川を徒歩で渡り始めた。
 
 
 
 
山から流れ来る清流は冷たく、疲れた脚には心地よいが本当にこの川を渡るのが遍路道なのか、という疑問が消えない。今歩いているのは川の中なのだ。渡り終え見渡すと人の通った跡のようなものが見える。山裾の枝を避けながら坂道を進んでいくと車の走る音が聞こえてくる。人のいるところに来られたという安心感が生まれ、やがて人家が見え大通りにたどり着くと
「川も遍路道だったのか」昔から続く遍路道の厳しさに驚くのだった。
 
 
その2、月山神社
「月山神社」を通る遍路道も高知県にあった。
この「月山神社回り」の遍路道は「足摺岬」を通ってからそのまま海岸線をまっすぐにたどって行くコースだ。この道は次の寺へは遠回りになり、体力と時間を気にする多くのお遍路は「打戻り」次の39番『延光寺』へ向かう。その方が距離も短く半日早く歩ける。私は同じ道を歩くより違う道を歩きたかった。必然的に「月山神社」を通る道に向かったのだった。
 
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 海岸線をひたすら歩いていくと「大浦」という小さな町が海沿いにあり、その小さな漁港のはずれには小高い山があった。

地元の人たちのお墓がその山道には連なって並んでいて息を切らせながら登っていくと木々に囲まれた獣道になり途端に足元が柔らかくなる。
木漏れ日の差し込む鬱蒼とした木立の中、草木を踏みしめ歩く道が「月山神社回り」の遍路道だと知ったのだった。木立の中には地元の小学生の書いた掛札が所々にぶら下がっていて、歩き遍路を励ますたどたどしい文字が記されていた。
 
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「おへんろさんへ、いつもいろいろなところを歩くのはたいへんだとおもうけど、がんばってください。八十八カ所がんばってください,ね。大月小学校三年二組〇〇〇」
       
昨日だろうか今日だろうか、一人の足跡が草木の道にはっきりと残っている。やはり物好きな遍路がいるんだなと思わずにっこり笑ってしまう。人の歩いた跡が道を作る、そんな実感のする道が数十分続き舗装道路にたどり着く。道路わきには小さな神社がぽつんと建っていた。それが月山神社だった。

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何の変哲もない、誰もいない神社で、たまたま通りかかった自家用車の観光客夫婦が一組いて、後にも先にもそれ以外誰も会わない道であった。数分、舗装道路を歩くと山に向かって再び矢印があり遍路道は山道に戻った。
今度の山道も寂しい山道で、薄暗さが増すばかり。足元は獣道になりアップダウンを繰り返すと頂上を過ぎたのだろう、下っていくと小さな小川にたどり着き、川に道が吸収されていく。
せせらぎに沿った肩幅ほどの道は、川の流れに削られ、所々崩れ落ちてしまって足の持っていく場所がない箇所が至る所にある。斜面の木々に掴まって、まるで猿が木から木へぶら下がりながら渡っていく歩き方を余儀なくされ、大きな雨が降った日にはさらに流れに削り取られこの道はなくなってしまうだろう。
完全に道が崩れ、川の中の浮石を渡る個所が何か所か出てくる。川は浅瀬の清流で、幅も数メートル、溺れる心配はないがバランスを崩せば落ちてびしょ濡れになる。
これが道か?いや、これはもう道ではない。木々をつかんで歩く自分はまるでターザンだ。
木々に囲まれた先が明るくなり、海の波音が聞こえると木立のトンネルを抜けた。目の前には波の打ち寄せる海、岩場が広がっていた。無事山道を終えたのだ。
ほっとして周りを見渡し、唖然とした。
「道がない」
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目の前は石が転がって海の波が打ち寄せているだけで道がない。
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「俺は島に流れ着いたロビンソンクルーソーか?
感じた思いはそれだった。
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見回すと、ある岩に赤いペンキで矢印があり、その指し示す方向を見ると防風林が広がりその一角に人の通れるような隙間が見える。明るいから岩の矢印を読み取れたが薄暗くなれば見失うところだ。------岩の上を歩き、たどり着いた防風林の隙間を潜り抜けると駐車場になった。ここは夏には海水浴客が訪れる海辺になっているのだろう。これも遍路道であった。
        
記憶に残る道はこのほかにもあったが完全に道が途絶えたのはこの2か所だった。
「道」のほかに、同じく忘れられない「人」にも何人か出あった。
不思議なことだがお遍路をしていると、なぜこのタィミングにこの人に会うのだろうということがしばしばあった。
              その3、横浜から来たお遍路さん
 
歩き始めて10日ほどたった日の事、高知市内に入る前日のことだった。この頃になると足の裏にはマメが両足何か所かに出来て、夜になると自分で足裏の治療に専念していた。
治療といっても膨らんだマメに針を当て中にたまった水を抜き薬を塗っておくだけなのだがこれを怠るとマメは前日より余計に膨らみ、歩く都度に圧されてその面積が広がり痛みも広がるのだ。自分の足の裏に針を突き当て水を抜かなければ足の裏はもっと傷んで、ついには歩けなくなる。水を押し出す時に痛みはピークを迎えるのだった。
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その日、香南市の民宿「住吉荘」に夕方到着すると、足の裏の痛みはそれまでと違っていた。それまでは「ズキッ」という皮膚の痛みだったが、数日間雨が続き雨の中を歩き続けたため靴下まで濡れ雑菌で悪化した気配だ。ズキンッと骨に響く痛みに代わっていた。
 
民宿の風呂に入りながら明日にはもうお遍路を中止しよう、と考えていた。この民宿からは高知市内にまでは10Km前後と短い距離で、何とかたどり着けるだろう。市内からなら交通の便も良い。帰るなら電車でも飛行機でもバスでも選べる。この足の状態で歩き続けるのは無謀だ。医者に診せれば誰だって即刻中止を勧めるはず。
その晩、夕食の席に着くと向かいに横浜から来た男の人が座った。同じように歩き遍路を続けている方だった。70歳だというが60歳前後の若々しさで、この数日、何度か休憩小屋やふと立ち寄った食堂ですれ違っていた。
雑談しながら「明日には帰るつもりです」
足の裏が傷んでいる話をするとその方はじっと私を見て
-----頑張りましょうよ。止めるなんて何時でもできますよ」
真剣な表情で励ますのだった。
----こんなことができるのは一生に一度のチャンスです。ここまで来て止めるなんて後悔しますよ。こんな機会は二度とないです」得々と諭すのだった。
その言葉、励ましは私に対してなのだが同時にここまで歩き続け疲れてきている彼自身に語り掛けているのだろう。ここに来るまで他人から頑張ろう、といわれたのはこの人が初めてだった。
 
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歩き遍路を止める理由はいくらでも並べられる。足が、何処が痛いだの肉体的な理由はいくらでも並べられた。辛い遍路道、お金、日数、天気、何でも止める理由はそろえられる。
 
----どうしても歩き続ける理由を探すと、それは「意地」だけだった。「意地」があるかないのか。それだけだった。
 
その晩、布団の上でその日のメモを書きながらうとうとと寝かかっていると、横浜のその人がドアをノックして入ってきた。たぶん晩酌で酔いが回っているのだろう缶ビールとコップを2つもって部屋に入ってくると
「駄目です。ここで止めちゃ。頑張りましょうよ。やり遂げましょう。一生に何度もないことです。歩きとおしましょうよ」奮い立たせるように言葉をかけた。
無理に私にコップを握らせ、ビールを溢れるほど注ぐと自分の部屋に帰っていった。半分眠った状態の私はビールを飲み干し、同時に苦みが体に浸み込んだ。
「見ず知らずの私の部屋にまでやってきて、なんで励ますんだろう」不思議になるのだった。枕元にはこの旅に出て買った菅笠があり「同行二人」の文字があった。
静まり返った夜の中で、私の心の中に嬉しさと有り難さが沸々と浮かんできた。一人じゃないんだな、見ず知らずのお遍路さんが励ましてくれたことへの感謝だった。中断しようとしていた気持ちが動き始めた。お遍路を導く「同行二人」そのもう一人は「杖」にも「菅笠」にも「白衣」にも無い。御大師様は旅の途中のいたるところで様々な形でやって来るのだ。
 
翌朝、足の裏は一段と腫れが膨らみ薄黒く変色していた。足裏は立ちあがれない痛みに代わっていた。針では膨らみの水は出し切れないほどになっていた。もっと大きな穴をあけなければ民宿から歩き出すこともできない。-----小さなナイフを取り出すと膨らみの頂点に刃先を挿し、もう1カ所にもナイフで穴をあけると内部から今までと違った色の水が出てきた。緑色のドロッとした「膿」だった。
「般若心経」の言葉を思い浮かべていた。
「無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触」
すべての想いや肉体の感じるすべて、一切はいずれ無くなるのだ。痛いという想いも無くなる。ちっぽけな痛みとは別れてしまえ、
ナイフで空けた穴からは膿があふれて出て来た。強く押し続け両方の足から膿が出尽くすと痛みは軽くなった。
恐る恐る立ち上がってみると足の裏の痛みは軽くなっているではないか。すべて悪いものが出たのだ。歩ける!
打ち止めにする予定場所、高知市内に入ると、それまでなかった「意地」が私の中に生まれとりあえず3日先まで宿の予約を取ったのだった。あの出会いが無かったら私は翌日中断していた処だった。あの横浜の人は、励ましにやってきた御大師様そのものだった。
 
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もう一人、忘れられない人がいる。お遍路旅も40日目を迎えるころ、私は香川県に入っていた。全行程約1200Kmのうち八割の距離を歩いていた。無理を重ねていたため膝の軟骨もすり減り味わったことのない痛みとともに歩いていた。歩き遍路はまさしく修行そのものになっていた。
舗装された国道を歩いていると、通り過ぎた車が路肩に停まり助手席から中高年のご婦人が降りて駆け寄ってきたのが見えた。何の用だろうと思っていると私に向かってビニール袋を両手で差し出し
『私は香川の女なのですが、お遍路さんに接待したくて、ずっと今日はお遍路さんを探していました』
その女の人にはやっと歩き遍路に会えた、会えてよかったという表情が溢れていた。車ですれ違い、私が車とは反対車線を歩いていたので方向転換をし、後を追ってきたのだという。
『私も去年、お遍路をしていました。----その時にいろいろなお接待を頂き誰かにお返ししたいと思っていたのです』そして重量感のあるビニール袋を私に握らせると
----ああ、渡せてよかった』
と嬉しそうに見上げ
『今朝作ったゆで卵やお菓子が入っています。ゆっくり後で食べてくださいね』
と車に戻り去って行った。
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手元のビニール袋には板チョコレートが1枚、おせんべいが数枚、そしてまだ温かみの残るゆで卵が3個入っていた。ゆで卵には塩の小袋までついている。私はビニール袋を背中のリュックに押し込むとその日の宿「千歳旅館」に向かった。
 
地図を見ながら30分も歩くと宿の近くまで来ているのが分かった。目印の「高瀬駅」が見え、近くの建物の脇に休憩所があった。昼から2時間近く歩き続け、やっと腰を下ろせる処に来たので休むことにした。ベンチに座りリュックを下ろすと、つい先ほど接待して頂いたのを思い出しビニール袋を取り出した。
あらためてみるとゆで卵が3つも入っている!
疲労が日ごとに重なり、その頃は食欲もなくなっていて一人ではとても食べきれない量だ。別の小袋には塩も用意してある親切さ!
殻を割って食べると、白い卵にはまだぬくもりが残っていて口中に塩味と卵の美味しさがしみわたるのだった。一口食べてお茶でのどを潤し、また一口と食べかけた時、不意に涙がポロポロ溢れ出て来た。
ぬくもりのあるゆで卵、塩味が体に沁み渡りうれし涙になって出てきていた。溢れる涙が視界をぼんやりとさせ、それでも卵を頬張るお遍路に通りすがりの通行人は奇妙さを感じたことだろう。このご婦人も忘れられない人だった。
 
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このほかにもいろいろな「道」や「人」と出会ったがあまりにいろいろあったので別のブログにまとめることにした。膨大なページになるので暇人だけ読んでください。「マコチンの四国歩き遍路」で検索可能。