Kさんのお墓
秋分の日だった。9月らしい爽やかな風の吹くまだ日差しが強い日だった。妻と、その日の午後、市内にある「県民の森」に出かけた。車で10分も走ったところに広大な森林公園があることは何年も前から知ってはいたが、素通りするばかりで施設の中に入ったことは無かった。子供が小さければ子供をダシにして遊びに行くのだろうがすでに一人娘は成人になり地方都市に学生として出てしまっていた。その日は連休でどこか近場にでも出かけてみようというドライブだった。広い駐車所に車を停めると地元の特産品を展示する建物の中をぶらぶらと歩いた。緑は豊かで、いくつか点在する池やその周囲には油絵の写生をする幾人かの趣味人が絶好の景色の場に佇んでいた。吊り橋や広い野原を散策した。地元に居ながら実にのどかな場所があるものだと感じていた。ここにも3月の大震災の跡が残っていた。水辺の歩道や釣り場は危険注意箇所として進入禁止になっていた。 
その近く、車なら5分も走ったところに、山から染み出した水がつくる小さな池があったのをふと思い出した。そこは以前、運動のため市内散策に自転車で脇道だけを選んで半日も遠出をして見つけた場所だった。辺鄙で人気の無い山裾に差し掛かった時、透き通った池があるのを通りかかって見つけていた。自転車で大通りを避け走っていたからこそ見つけられた池で、車ならまずは通らない場所だった。大きな鯉が数匹、底が見通せる池でゆったりと泳いでいるのが印象的だった。山からの染み出してくる水で濁りの無い池が作られていた。其処を見に行こうと妻を誘った。この町にはこんな隠れた名所もあることを見せてやりたかった。
 
Kさんのお墓はこの辺らしいね』車を運転しながら、突然私は数年前に亡くなったある奥さんのことを口にした。
 
子供が同じ幼稚園にいた関係で妻とKさんは以前から母親同士の付き合いがあった。私は私でたまたま水泳に情熱を傾けている頃で、その趣味から彼女をプールでよく見かけて知っていた。Kさんは自分が中心になって水泳のサークルを主催しそれまで培った技術や情熱を子供達に伝えようと躍起になっていたようだった。
Kさんは若い頃に国体水泳選手として活躍した人で、自分の子供達への熱血の思いをサークルの他の役員に同じように求めるあまり役員たちから疎んじられ、周囲と意見がかみ合わなくなっていた。
指導にかけての熱血ぶりは普通の奥さんには異質で熱過ぎたのだった。子供のためとはいいながらプールに入りきれないほど子供を集めて頑張らなくていいじゃない、Kさんが熱心になるほどに役員との間で溝が出来、結果的にKさんは自分で作ったサークルから排除される形になった。そして別にサークルを立ち上げることになった。
この間のストレスからだろうかKさんに会う都度、彼女の身体からは独特のにおいが感じられた。酒浸りの人に共通のアルコールが身体から抜けきらない熟したような一種独特の匂いである。己の熱血さ、思い通りにいかないもどかしさを自分の肉体を酔わすことで紛らわしているようだった。国体に出た人だけあって体力もあり普通の酒では容易に酔えなかったようだ。そのことが分かったのはある日の夜のことだった。
ある夜、Kさんの飲酒癖を知るきっかけとなる事態が起きた。その晩、用事がありK さんの自宅に電話をするとKさん本人が電話に出たが対応がいつもの日中の彼女ではなく別人のようなものになっていた。声高になにやら主張するかと思うと、突然に怨むような口調になり尋常な人の会話とは程遠い別人の声が電話からは響いていたのだった。呆気に取られていると突然に電話が切れてしまった。日中の会話しか知らなかった私には単なる異変とは思えなかった。何か薬物中毒か異常におちいり、障害を起こしているように感じた。これは変だ、と妻と一緒に車で15分ほど離れたKさんの自宅に向かった。夜、心配して駆けつけた私たちに玄関のドア越しに旦那が顔を出したが、決まり悪そうに頭を掻きながら『実は。これなんで』と酒を飲むしぐさをして見せて苦笑いをした。夜になると毎晩のように台所で強い酒を飲みアルコール中毒のようになっているのだという。彼女の親しい人に念のため聞いてみると『そう、キッチンドランカー』いとも簡単に言い放つのにはびっくりしたもので親しい周囲の人にとっては公然の秘密となっていた。ウィスキーでは酔えなくなってテキーラの度数の強い酒を飲むまでになっているという。
---そのKさんは、自分で新しい水泳サークルを立ち上げて1年も経つかどうかの時に急逝した。
風呂に入ったままなかなか出てこない母親を呼びに次男が風呂場に行くと彼女は風呂の中に沈んでいた。おそらく酒の飲みすぎから来る急性肝硬変の破裂だったろう。翌日、プールに泳ぎに行っていた私は其処で報せを受けると他の数人ととるものもとりあえず自宅に伺った。居間には棺の中でまだ濡れた髪のままKさんは目を閉じていた。その顔は、誰かに不満を言いたげに思われた。濡れて乾かない黒髪のままで棺に納められているKさんが妙にまぶたに残った。数日後の葬儀に行った時、Kさんの水泳の教え子やプール関係者で参列者は溢れていた。たまたま顔を合わせた次男にお墓がどこにあるのか聞くと、地元のある地名を答えた。県民の森の少し先にKさんのお墓はあるらしい。寺も場所も子供の説明では詳しくは分からなかった。---墓がある同じ地域に、その清らかな池もあった。
 
運転をしながら『---Kさんのお墓もこの辺らしいね』妻に言うと『もう何年経つかしら』と二人で指折り数えてみた。Kさんの次男は中学になったばかりの頃で長男は娘と同じ中学3年生の頃だったはず。『---もう5年も経つか』県民の森を後にして車の通りが少ない山道にさしかかっていた。今までとは違う方向から池を目指したため、方向感覚が少し分からなくなっていた。薄暗い林の中に十字路が見えてきた。鬱蒼とした薄暗い林で、まっすぐ行っては行き過ぎだろうと左にハンドルを切った。とたんに道は細くなり人の気配もまったく見えなくなった。『知っているの?この道?』と妻が不安げに言う。薄気味悪い道に入ったと思ったのだろう、私も初めて通る道だった。舗装はされていたがすれ違う車があれば広いところですれ違いをせねばならないそんな妙に淋しい人気の無い道路に入り込んでしまったようだ。『どこか広いところに出るさ』数百メートルも進んだ時、右側に広い空間が見えてきた。ほっとして見ると、其処は墓地だった。林がそこだけ開けて空間が広がっている。ほっとしたと同時に『ちょっと寄ってみよう、ひょっとしてKさんのお墓でもあるかもしれない』初めて通る道路、初めて見る墓地だった。他にも何箇所か山林を開拓したお墓はあるに違いない。ただ、せっかく通りかかったのだからちょっと寄ってみようと思った。駐車場には2台の車が墓参りに来ていた。彼岸花が毒々しく墓地の入り口を飾っていた。知らない土地、知らない墓地だったがなんとなく訪れてみる気になったのはつい数分前に妻とKさんのことを話していて、この近くらしいと話題にしたのがきっかけだった。『ひょっとしてKさんのお墓が在ったりしてね』私は妻に語りかけ車を降りた。不思議に妻も黙ってついてきた。『知らない墓地のお墓を歩くなんて』と反対されるかと思ったが、妻も車から降りてきた。林の中には80基ほどの墓石や墓標が点在し、墓標の朽ちかけの具合から古くからの墓地と思われた。数組の家族が墓参りをしていた。数歩入って振り向くと妻はある墓標の脇で立ち止まり呆然と見入っていた。『Kさんの墓---』それだけ口に出すと涙ぐみハンカチを出した。『えっ?まさか』と言いつつ妻の脇に戻ると、墓標にはKさんの名前が記されていた。
私の後からついてきた妻は、私が素通りした墓標にKさんの名前を認めていた。私と妻は墓標の名前と亡くなった命日を確認すると改めてお互いの顔を見つめ、なんていう偶然だ、呼ばれたみたいだと話し合った。平成23年、秋、お彼岸の最後の日だった。あれは何だったんだろう。
 
 
                       「仏式と神式」
義父の話である。
妻の父親は70歳代の前半の時、ある年の瀬になって緊急の手術を受けた。その直前に町医者に腹部の痛みを訴え、医者からは風邪の影響だろうと誤診されていたが、いよいよ痛みに耐え切れず総合病院を訪れると胃に穴が開いているのが発見され、即その日のうちに手術となった。
 
この話はその手術が終わってからの話である。
師走から年明けにかけて義父は病院に数週間入院することになった。発見が遅れれば危うく命を落とすところであった。手術後、面会に行っても眠っている日々が続いたが、ある日面会に訪れると義父は眠りから覚めていて私の顔を見るなり
『やぁ、マコト君か』
上半身を起こしはっきりと私の名前を呼び、それはまるで誰か面会人が来るのを今か今かと待っていた様子であった。意識ははっきりしている様子で、しきりに不思議そうに首をひねり
『なあ、マコト君。今日は、ずっとさっきからこの二人がいてなぁ』
といって義父はベッドの足元の右と左に目をやった。
『こっちは坊さん、こっちにはどこかの神主さんが、今日はずっと私の両脇に来ているんだ』
そう話すとベッドの両脇を交互に見るのだった。しかし4人部屋のその病室には入院患者の他には私だけで、誰もそんな人達はいない。しかし義父は交互に左右を見ては
『何でここに、さっきからずっと居るのか判らない。帰ってくれないんだよ』
困った様子で私に言うのであった。この二人に帰ってもらいたい、しかし二人ともじっと動かないので困っている。そこに丁度、私が顔を出したのだった。
『どっちかを選べと言うんだ。坊さんの方か、神主さんの方か、どっちか』
義父は真顔で私に相談するのだった。
 
坊さんと神主さん、それはつまり仏式か神式かと言うことではないか、と私は思わずぞっとした。義父は死が近いのではないか。いわゆるお迎えの使者がすぐまじかに来ているのだろうか。葬式を仏式か神式かどちらの流儀でやるのか、その選択の話に他ならない。そういう光景を見るようではもう長くは無いのだろう、それとも痛み止めの薬による幻覚なのか。
『・・・誰も、私には見えませんけど』
そういうと義父は
『えっ? 見えない?』
何を冗談を言っているのか、と驚きの表情をすると
・・・坊さんは袈裟を着て、神主さんは白い服を着て、そこに居るよ!さっきから』
何故理解してくれないのかと義父は嘆くのだった。
 
義父はその後回復し、やがて小康を得た。本当に葬式をすることになったのはそれから実に10年程あとのことだった。
・・・あの時、誰も訪ねずにいて義父がどちらかを選んでいたら、その後の10年は無かったのかもしれない。・・・私は仏式か神式かの選択の時に、邪魔に入った人間なのかもしれなかった。あれは何だったんだろう。