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宿に戻ると早速荷ほどきにかかった。昨日と今日の二日分の洗濯物は風呂に入っている間に備えつけの洗濯機に入れて洗濯を始める。乾燥機が無いので生渇きの洗濯物は部屋の外の洗濯干しに。夕食は、民宿なので地元ならではの魚の刺身でも出るのかと期待したが学生時代の下宿で出る賄いのおかずを髣髴させる質素なものばかりだった。ビールと焼酎を飲んで何とか溜飲を下げる。上陸したこの初日、疲れて夜の9時前から床について寝てしまった。
 
 ただでさえ早起きになっていた私は、次の朝は更に暗いうちから目を覚ましていた。「せっかくだから朝日に輝く小笠原を撮らなくちゃ」とニコン一眼レフと三脚を持ち、まだ薄暗い夜明け前のひっそりとした街に出る。岸壁には「おがさわら丸」が帰港の日まで接岸したままである。誰もいない街中を歩いていると山に向かって階段があり展望台が上にあると看板があるので登って行く。街も山もまだ眠りから覚めていない。足元の山道は朝露にぬかるんでいる。階段が山頂に向かって単調に延び、10分以上も登り続け息が切れ掛かる頃に頂上に着く。
(朝日が昇り始めた時刻、二見港と全貌を見下ろす高台にてポーズを決めるアホ)
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頂上に着いて見回すと、更にその先に何箇所かの展望台があると案内板にある。汗をかくぐらいのちょっとした山頂歩きのコースだ。結局、港の端から端までの距離を山頂伝いに歩いた格好だ。タコの木という地面に何本も足を伸ばしている木が至る所に根を張っていた。 (タコの木は島中に根を生やしていた)
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足元には大型マイマイがこれもまた至る所を歩いている。朝日が昇り、町を明るく染める頃に何枚もシャッターを押し、山を降りてうろうろしながら戻った。歩いていると色々なものに気が付く。岩肌にはいたるところ横穴が掘られている。防空壕の跡で、さまざまな場所に掘られていた。中には不発弾を軒先に飾っている家もあった。戦争の時、最前線の島だったということが歩いているとよく分かる。
(勿論不発弾なのだろうが、確認に頭を叩いてはみなかった)
 
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この日は朝9時から父島の観光スタートだった。ハイエースがツアーの定員8人を詰め込んで出発。矢田部さんと言う若い男性が運転手を兼ねて要所要所を説明してくれる。宿と港は島の北部にあるが今日の向かう先は反対側の南側である。島内バスの最南端バス停にもなっている場所で下車しガイドが開始される。植物の説明、動物、昆虫の説明と実に詳しく知っている。広い入江の浜辺で漂流物の観察もあり、興味のある中高年の方々はメモやボールペンまで持参で、皆さん大変に勉強熱心である。
    (漂着物を探すにも苦労するほどきれいな砂浜だった)
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植物に関心の深い方が多く、感心するほど勉強熱心な人たちが多い。いちいち名前を確認してはメモし、写真に収める人までいる。それに比べれば我々のような植物にまったく疎い夫婦はただぼんやりと説明が右から左と通りぬけていくばかり。山に入ってからは矢田部さんの本領発揮で、植物の生態系の変化の実例まで説明してくれる。とにかく小笠原は隔絶した島なので固有の動植物が多く、外来種の進入から固有種の絶滅を防ぐため注意しているのが肌身に滲みて判ってくる。
 
(奥が靴底をきれいにするマット、手にしているのが消毒用酢のスプレー、粘着テープのコロコロ。この3点セットで足回りから異種植物や昆虫の侵入を防止して、涙ぐましい努力である)
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この日はうす曇で時々陽射しの出る一日だった。東京港を出発前は連日雨の予報で懸念していたが見事に外れた。バンザイ!
弁当を農業研究センターで食べたがボリュームがあり美味しかった。ちなみに小笠原諸島ではお米の生産は出来ず食料品のほとんどが本土からのものだという。「おがさわら丸」は島民の生活必需品の運搬という重要な役割をも担っている運搬船でもあり、新聞も一週間分がまとめて運ばれるという。この日、南から出発し山道を北上、ほぼ島内一周をまわるコースをたどることになった。頂から見る展望では海底まで見渡すことが出来た。
(底まで青く透けて見える小笠原の海) 
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