景行天皇(即位十八年)六月三日。

高来県(タカクノアガタ=現在の長崎県島原半島)から

玉杵名邑(タマキナノムラ=現在の熊本県玉名郡に渡りました。

そして、その土地の土蜘蛛津頰(ツチグモツツラ)を殺しました。

 

それにしても、土蜘蛛はよく殺されますな。

大和朝廷は反抗的な土着勢力をすべて土蜘蛛と呼んだのでしょう。

しかも、土中に住む人と云う蔑視的呼ばわりをしている。

多分、当時既に政権中枢部の奈良辺りでは珍しくなっていた、

竪穴式住居に未だに住む人々だったのでしょう。

 

前回、

景行天皇は船で葦北を発ち、水島で休憩後、

八代海最奥の八代県の豊村(宇城市松橋町豊福)迄至っているから、

今回は其の地から船を出し、

宇土市三角町-天草諸島間の何処かの海峡をくぐり抜け、

高来縣(島原半島)に渡ったと考えられます。

そして島原半島を海岸沿いに辿ると、多比良辺りから長洲に渡ったようである。

丙子( 六月十六日)。阿蘇国に到着しました。

その国の原野は広く遠く、人の居住(家)は見られませんでした。

天皇は言いました。
「この国に人はいないのだろうか?」
時に二神有り。阿蘇津彦と阿蘇都姫と曰く。

忽ち人の姿になって天皇の前に詣でて、云いました。
「我ら二人有り、何で人が居ないぞや!」
故に其の国を阿蘇国と名付けた。

 

人が居ないことが、阿蘇国の名に繋がる意味はよく解りませんが、

もしかしたら、「あっ、疎(そ=まばら)だ!」の意味かも知れません。


しかし、広い原野で家が殆ど無い地域と云うのは、

阿蘇内輪山内と考えられるので、現在の阿蘇神社に比定したいと思います。

阿蘇神社の祭神は、阿蘇都姫、阿蘇津彦となっている。

神武天皇の実子で勇気がなく、異母兄の手研耳命を射ることが出来なかったために、

天皇の後継者を手研耳命を倒した弟の神沼河耳命に譲り、

自らは多臣(たのおみ)の祖になったとされるが、その多臣の一人に阿蘇氏が居て、

阿蘇氏こそが、阿蘇津彦、阿蘇都姫であるとされている。

多分、阿蘇氏の子孫は、歴代阿蘇津彦、阿蘇都姫を名乗っていたのだろう。

 

景行天皇は日向国でも阿蘇の豪族と思われる熊襲王と接触しており、

それが熊襲八十梟帥なのだが、今回の阿蘇津彦と阿蘇都姫は熊襲王としては、

戦闘力に乏しく、居るか居ないかも判らない程の存在なのである。

本来の阿蘇の神は熊襲八十梟帥と思われます。

多分、大和朝廷系の官である阿蘇津彦と阿蘇都姫は当時熊襲に攻められ、

小さくなって閉じ籠っていた為に、人が居ないように見えたのでしょう。

しかし、それも景行天皇の巡行=ほぼ侵略により解放され、

以降、大手を振ってこの地域を治められるようになったわけです。

 

 

阿蘇神社(熊本地震により被害を受ける前の貴重な姿;阿蘇神社HP提供)

 

景行天皇(即位十八年)安芸七月四日。

筑紫後国の御木(ミケ=福岡県三池郡)に到着し、

高田行宮に住みました。その時に倒れた木がありました。

長さは九百七十杖(千七百五十m程)あります。

百寮(多くの役人)はその木を踏んで通っていました。

その時の人は歌を詠んで言いました。

阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 

魔幣菟耆瀰 伊和哆羅秀暮 瀰開能佐烏麼志
 

朝霜の満ちた御木の差し渡し

まえつきみ(公卿)たちが差し渡した大木の上を渡っていくよ

 

それで天皇は言いました。
「これはなんの木だ?」
一人の老夫がいて答えました。
「この木はクヌギです。
昔まだ、倒れていないときに、朝日が当たって、

杵嶋山(=現在の佐賀県杵島郡・武雄市の山)を隠しました。

夕方になると夕日に当たって、阿蘇山を隠しました」
天皇は言いました。
「この木は神々しい木だ。今後はこの国を御木国(ミケノクニ)と呼べ」

 

ところで、高さが千数百mもある木が現実に存在するはずがありません。

もし本当に高さ千数百mもあったならば、太さも相応に数十mなければなりません。

そんな太い倒木の上を人が歩いていたとはとても考えられません。

仮に直径が数mでも、そんな巨大なものの上を人が歩けるものではありません。

上に登るのだって大変です。

つまり百官は現実には直径数十cmの普通の倒木の上を歩いていたのでしょう。

それを景行天皇の権威付けの為、高さ千数百mと夢物語を書いたに違いありません。

 

因みに豊前国の御木と筑後国の御木は同じ名前になっているが、

豊前国の御木(上毛、下毛)と異なり、筑後国の御木(三池)は神聖な木のことです。

 

 

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