卑弥呼の冢と考えられる筑後国山門郡瀬高町の権現塚古墳
(原文)
其八年太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
(書き下し文)
其の(正始)八年、(帯方)太守・王頎、官に至る。
倭女王・卑弥呼は狗奴国男王・卑弥弓呼と素より和せず。
(卑弥呼は)載斯・烏越等を遣わして(帯方)郡に詣り、総攻撃する状を説く。
(王頎は)塞曹掾史・張政等を(倭国に)遣わし、
因って詔書・黄幢を倭国に齎し、
(張政等を)難升米に排仮せしめ、檄を為してこれを告諭す。
卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。
徇葬する者、奴婢百余人。
(現代語訳)
正始八年(西暦247年)、
帯方太守の王頎が(馬を飛ばして)、魏都・洛陽の官(邸)に到着した。
【王頎の洛陽官邸での報告】
倭国女王卑弥呼と狗奴国男王の卑弥弓呼(ひみくこ)とは元々不仲でした。
今回、卑弥呼は載斯(さし)・烏越(うえつ)等を(帯方)郡に派遣して、
倭国と狗奴国が遂に相いに攻撃するに至った状況を伝えてきました。
そこで私(王頎)は、塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を倭国に遣わし、
詔書(倭国が魏の同盟国であることを承認した証文)と
黄幢(こうどう=倭軍が魏の正規軍であることを示す黄色の御旗)を倭国にもたらし、
張政に(皇帝、或は帯方太守の私に替わって仮に)難升米に拝礼(謁見)させ、
激(気合を入れさせる文書)を作って、これを告喩しました(倭国中に広く示した)。
ところが張政が倭国に到着した時には、卑弥呼は以て(既に)死んでいた。
倭人たちは、大きな冢を作った。その径は百余歩(約50m)程だった。
卑弥呼と共に殉死して埋葬された者は奴婢(男と女の奴隷)百余人だった。
『魏志韓伝』は記す。
韓国部従事の呉林(という事務官)が、正始七年(AD246)、
「元々は楽浪郡が諸韓国を統治していたのだから」という理由を付けて、
辰韓(12国)のうち8国を分割して帯方郡より遥かに遠い楽浪郡に帰属させてしまった。
このことについて官吏や通訳の現地人への説明は、変転してバラバラだった。
それで説明に納得のできない諸韓国の王である「臣智」たちは激怒し、
ついに帯方郡の崎離営(という郡治所のあった宮殿)を攻めたとあるが、
これは単に呉林のスタンドプレーに皆が惑わされてしまったわけである。
時の帯方太守・弓遵や楽浪太守・劉茂は兵を率いてこの乱を鎮圧しようとしたが、
帯方太守・弓遵は戦死してしまった。全て呉林が要らんことを言い出したせいである。
だが、この叛乱により、楽浪・帯方、両郡の兵は遂に韓を滅亡させたとある。
呉林は全韓を最終的に攻め滅ぼす計画で、楽浪郡支配を主張したのかも知れない。
辰韓は馬韓王が治めていたと云うから、この戦は馬韓・辰韓・弁韓を巻き込んだ戦だった。
この時三韓ともに滅んだようだが、世紀も改まった313年の楽浪郡の滅亡後、
百済や新羅が建国されているから、韓は完全に滅んだわけではなかったのである。
当時の韓は緩やかな小国の連合体であり、離合集散を繰り返していたから、
滅んだとは言っても、国民は何かのきっかけで、直ぐに又、再集結するわけである。
『三国志』巻二十八、毌丘倹伝
当時の高句麗王は宮という名だったらしい。
正始中(240~49)、揚州刺史・毌丘倹(かんきゅうけん)は高句驪がしばしば侵叛するので、
諸軍の歩騎万人を督して玄菟に出征し、諸道よりこれを討った。
高句驪王の宮は歩騎二万人を率いて沸流水(渾江)の上(ほとり)を進軍し、
大いに梁口で戦い(梁の音は渇)、高句驪王の宮は連破されて逃走した。
毌丘倹は束馬懸車(馬も車も使えない艱険の道を)丸都山(吉林省通化市集安)へ登り、
高句驪の都城を屠り、斬首獲虜は千を以て数えた。高句驪の沛者で名を得来という者は、
しばしば高句驪王の宮を諫めていたが、宮はその言葉に従わなかった。
得来は歎息し 「近いうちこの地には蓬蒿(よもぎ=荒地の草)が生えることになろう」 と。
かくて(飯を)食らわずに死に、(高句麗は)国を挙げて得来を賢(人)とした。
毌丘倹が諸軍に命じるには、
得来の墓を壊さず、得来の植えた樹を伐らず、得来の妻子を得たなら皆な放遣するようにと。
高句麗王の宮は単独で妻子を率いて逃竄した。
毌丘倹は軍を引率して還った。
正始六年(245)、
毌丘倹は復た高句麗王官を征伐し、宮は遂に買溝(江原道文川市?)に奔った。
毌丘倹は玄菟太守王頎を遣って官を追わせ、沃沮(よくそ)を過ぎること千有余里、
粛慎(しゅくしん)氏の南界に至り、石に紀功を刻んで丸都山に刊み、不耐城に銘した。
この戦いで毌丘倹の命を受けた玄菟太守・王頎(おうき)が、高句麗軍を苦しめた手柄で、
前の帯方太守・弓遵が戦死した後を受けた、新たな帯方太守となっていた。
この王頎が卑弥呼の窮状を受け、洛陽の官邸まで自ら馬を飛ばしたわけである。
因みに卑弥呼の死に関しては様々な人により様々な説が唱えられている。
(以て)死すを(既に)死すと訳するか、或いは(によって)死んだと訳する説もある。
特に後者の場合は、卑弥呼が殺されたとする説もあるようだ。
じゃあ、誰が卑弥呼を殺したのかとなると、狗奴国軍との戦闘で死んだとする説。
推理小説家の松本清張氏は、帯方郡使の張政によって殺された説を唱えている。
松本説では、若い頃霊験あらたかな巫女だった卑弥呼も年と共に徐々に呪力が衰え、
帯方郡から倭国を偵察に来た張政が、もはや巫女王として役に立たないと見做し、
帯方郡の傀儡政権として使えない卑弥呼に引導を渡したとする説である。
だが、『魏志倭人伝』によると、卑弥呼が死んだあと、
倭人たちによって大いに(大きな)冢(塚・墓・古墳)が作られ、
卑弥呼の死を悲しんだ奴婢百人が殉死して、卑弥呼と共に埋められている。
と云うことは、卑弥呼は死後も倭人たちに慕われていたわけであり、
決して、役に立たなくなったからといって、張政に殺されたはずはないと考えられるのだ。
実際、帯方郡に使者を送るなど、卑弥呼は死の間際迄、倭王として倭国に貢献している。
こんな卑弥呼が帯方郡の傀儡政権だったなどとはとても考えられない。
やはりこの説は松本清張氏の推理作家らしい奇をてらった説と見做すべきである。
狗奴国との戦争はどうやら張政の齎した証書と黃幢、激で、調停がついたようである。
只、その前の狗奴国との戦闘で既に卑弥呼が狗奴国軍に殺されていた可能性は残る。
だが私は、狗奴国戦で危機に至った倭国が魏の助けを求めねばならなくなるなど、
高齢の卑弥呼に心労が重なった結果、急性の脳や心疾患等で病死したと考えている。
なにしろ卑弥呼のこの時の年齢は既に80代半ばだったからである。
卑弥呼の治世年は60数年にも及び、昭和天皇と同程度の長さと云うことになる。
それと、卑弥呼の死の周囲期間に皆既日食が二年続けて起きた説もある。
https://www.nao.ac.jp/contents/about-naoj/reports/report-naoj/13-34-3.pdf
このことが『記・紀』にある天照大神の岩戸隠れの題材となったと考えられているが、
もしそのような事実があったなら、何故『魏志倭人伝』に何も記されていないのだろうか?
『三国志』は讖緯的説話が多いから、このような話は必ず記載されたはずである。
また、三世紀前半という古墳の年代論的に当時・前方後円墳の存在は考えられず、
当時の古墳は方墳か円墳、或は出雲地方の四隅突出型古墳だったはずである。
私は前方後円墳は台与の晋貢献(AD266)以降に出来たものだと考えている。
卑弥呼の冢は天照大神の日輪(太陽)信仰からも円墳と考えられ、
しかも、この冢の建立期間は一年以内の突貫工事で作られており、
建立に九年は掛かるとされる箸墓のような巨大前方後円墳のはずがないのである。
卑弥呼の冢は径百余歩とされるが、一歩を人が普通に歩くときの一歩=50cm程とすると、
百余歩は50m程となる。このような古墳は、筑後山門にある権現塚しかないであろう。
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