吉野ヶ里遺跡の邸閣

 

收租賦、有邸閣、國國有市。交易有無、使大倭監之。

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。

常治伊都國、於國中有如刺史。

 

王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、

皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。

 

下戸與大人相逢道路、逡巡入草、傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。

對應聲曰噫、比如然諾。

 

(書き下し文)

 

租賦を收む、邸閣有り、國國市有り、有無を交易す、大倭に之を監せ使む。

女王国より以北には特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国之を畏憚す。

常に伊都国にて治す。国中において刺史(しし)の如きあり。

 

王(卑弥呼)が使を遣わし、京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及び帯方郡の倭国に使するに、

皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。

 

下戸と大人が道路に相逢えば、(下戸は)逡巡して草に入り、

辞を伝え(物)事を説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるいは跪(ひざまづ)き、

両手は地に拠(よ)り、これが恭敬(きょうけい)を為す。

 

対応の声は噫(ああ)という。比するに然諾(だく)の如し。

 

(現代語訳)

 

(国民は)租(穀物税)と賦(兵役税)を収めている。

(納税した穀物を収納する)大きな倉(邸閣)がある。

諸国では市が立ち、有る物と無い物を交換する。

大倭を以て、市場を管理している。

 

この部分、通説では大倭という名の役人がいたとされているが、

そのような矮小なものに比定すべきではないだろう。

私はこの場合の大倭とは倭国のこと、即ち(大きな倭国)の意味だと考えている。

つまり、卑弥呼は大きな倭国の威厳を以て、市場を管理していたのである。

 

女王国以北には一大率を置いて諸国を検察し、諸国は一大率を恐れ慄いている。

常に伊都国に拠点を置いて治している。中国における刺史(監察官)の如きものである。

 

つまり、卑弥呼支配の倭国政権は国民から税を獲り、大倭の名の下、市場を管理し、

伊都国にて治す一大率が女王国連合参加国に対し、警察権を振るっていたのである。

 

此処においてもはや当時の倭国=女王国連合が単なる神仙思想国家(理想郷)ではなく、

中国に負けないほど統治体制が整った文明国となっていたことが判るのである。

 

伊都国に置いた一大率が諸国(伊都国の南に連続して連なる倭国の構成国)を検察している図。

南の王都・邪馬台国は大倭の名の下に北にある倭国=女王国連合国構成国の市場を管理していた。

 

倭女王卑弥呼が、使を遣わして京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に詣り、

および(帯方)郡が倭国に使者を遣わす時には、皆港において荷を開いて改め、

文書(証書)や賜遺の物(金印など)を王都・邪馬台国に伝送し、間違いはなかった。

 

この文から卑弥呼は帯方郡や洛陽ばかりではなく、諸韓国にも使者を遣わしていたようだ。

『三国史記』【新羅本記】に「倭の女王卑弥乎、使いを遣わして来聘(らいへい)す」とあり、

紀元173年に卑弥呼が新羅に使者を送っていたと記されています。

だが、卑弥呼は238年に魏に貢献しているので、そのときが仮に75歳だったとしても、

173年には10歳となり、台与の即位時よりも若く(幼く)なってしまいます。

 

しかも卑弥呼は『梁書』によると「霊帝光和年中」(178年 - 184年)の終わり、

倭国大乱が終了したときに諸国王により「共立された」と記されているのだから、

173年時に卑弥呼が倭の女王だった可能性は殆どありません。

 

しかも当時南韓に有った諸国連合は辰韓又は弁韓であり、新羅という国はなかった。

だが、【新羅本記】の年紀は信頼できないので、173年が間違いの可能性はあります。

そうすると、卑弥呼が女王在位中に辰韓や馬韓に遺使していた可能性は残される。

 

更にこの文からは、伊都国は倭国の貿易港を担っていたことがわかります。

そうするとわざわざ末蘆国に上陸し、伊都国迄陸行した帯方郡使は観光目的らしく、

しかもあまりにも緊張のないこの帯方郡使は、魏の正使・梯儁等では無かったようです。

魏の正使とされる梯儁らは、大事な証書や賜遺の物を抱えたままなので、

「行くに前に人を視ず」と記される悪路を、不必要な陸行はしなかったことでしょう。

多分、彼らは末蘆国には上陸せず、直接貿易港である伊都国の港に入港し、

伊都国の港において、文書や賜遺の物を一大率に捜露(鑑札)されると、

一大率に引率されて、王都・邪馬台国へ、一月かけて陸行したのだと思われます。

勿論、彼らの齎した文書や賜遺の物は一大率に厳重に管理されて、

王都・邪馬台国に住む卑弥呼に伝送され、差錯を得なかったようです。

 

下戸が大人と道路で出会ったときは、道をよけてわきの草の中に入る。

辞(ことば)を伝え、(物)事を説明するときは、或はうずくまり、或はひざまずき、

両手を地面につけて、これがつつしみ敬(うやま)うことを示す。

この場面はよく時代劇に出てくるような、百姓が殿様に直訴する時の光景に似ている。

 

返事をするときは噫(ああ)という。(中国語)で云う諾(だく)のような意味である。

 

現代日本人も返事の時「ああ」と言うが、これは比較的気が抜けた時の返事である。

それに対し、中国語の「諾」は十分気合が入った「引き受けた!」のような意味だろう。

 

 

 

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