隼人塚 鹿児島観光写真より

 

養老4年(720年)2月29日、大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂(やこのまろ)が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4日、大伴旅人(歌人・大伴家持の父)を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせたとある。

 

隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に立て籠もった。

これに対して朝廷側は九州各地から1万人以上の兵を集め九州の東側および西側からの二手に分かれて進軍し、6月17日には5ヶ所の城を陥落させたと報告している。しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城の攻略に手間取り長期戦となった。大伴旅人は戦列を離れ8月12日に都に戻りその後の攻略を副将軍らに任せている。

 

この隼人の乱について、実際には乱の前から秦氏の隼人族領域への移民が続いていたようである。隼人族は自分らの住処を奪った秦氏に対し、かなりの恨みを抱いていたらしい。

『続日本紀』は和銅7年(714)豊前國から200戸(約5000人)の民を大隅国に移住させたと記す。

たぶんこの時移住した人達も大半が豊前の秦王国に住んでいた秦氏だったのでしょう。

秦氏移住の名目として、技術の導入などが云われていますが、

その実情は、やはり秦氏の人口が増えすぎたからでしょう。

そのため秦氏は、比較的人口の少ない隼人の居住区に移住したものと思われます。


 

凶首塚(宇佐に連行した隼人の首百体を埋めたと云われる古墳)

 

百体神社(首を切られた百体の隼人の霊を慰める為に建てられた)

 

 

このことに対しては隼人達の反発も強く、養老4年(720)ついに隼人達は国司を殺害し、

隼人の乱がおきる。大和朝廷は大伴旅人を征隼人将軍として鎮圧に向かわせるが、

 

宇佐神宮からも女禰宜様 薦神社の三角池に生えた真薦の枕を御神体と成し、

養老4年(720)日向の隼人征伐に従軍し、八幡神のお杖人となり雄々しく武装して、

陣頭に立ち、勝利に導いたとされる女禰宜辛島勝「波豆米」をここに祀る。

以来辛島勝波豆米は、女禰宜として活躍し、八幡神の鷹居社から小山田社への御遷座、

更に現在地の小倉山への御遷座後も辛島氏は女禰宜として代々八幡神に奉仕していた。

 

つまり、隼人族は秦氏に住処を奪われたわけである。

 

だから薩摩には西郷隆盛によく似た隼人族風の顔と、

大久保利通によく似たそれに秦氏系の顔があるのでしょう。

隼人族は隼人の乱から約1150年後の1864には禁門の変で再び徳川幕府に反逆する。

 

この肖像画は西郷隆盛本人のものではないと云われるが、弟の西郷従道に似せて書いたらしいから、

それ程異なってはいないだろう。太い眉と大きな目、隼人族系の顔である。

 

西郷従道 こちらも隼人族系の顔

 

こちらは大久保利通、秦氏系の顔である。最初は西郷を慕っていたが、最後は殺し合いとなる。

たぶん、アメリカ使節団時に魂を西洋人に売ったのであろう。

 

西郷や大久保の生誕地が鍛冶屋町であることからも、秦氏との関係を感じる。

しかも大久保の出生地は鍛冶屋ではなく高麗町であったらしい。

高麗は北朝鮮のことだが、やはり朝鮮なので秦氏と関係があるに違いない。

同じ鍛冶屋町出身ながら、隼人顔の西郷兄弟は隼人族の血が濃いのであろう。

 

鹿児島神宮

 

大隅国内には正八幡宮を標榜する鹿児島神宮(鹿児島県姶良郡隼人町)があります。

 

震旦国(中国)の陳大王の娘・大比留女(おおひるめ)は、七歳のとき夢で朝日を受けて身籠もり、王子を生んだ。 王たちはこれを怪しみ、母子を空船(うつほぶね)に乗せて海に流したところ、「日本の大隅の磯岸に着き給う。その太子を八幡と号し奉る。母はその後「筑前国八椙山へ飛んで、香椎聖母大菩薩と現れ給えり」皇子は大隅国に留まりて、八幡宮に祭られ給えり」とある。

つまり、この段で鹿児島神宮が正八幡宮を標榜しているわけだが、宇佐八幡宮はこのことを偽りとはしておらず、鹿児島も正八幡宮ながら、宇佐も正八幡宮であるとしている。どうやらこのことは、当時宇佐八幡宮では開祖の辛島氏を排除しており、その後ろめたさから、正八幡宮を標榜する鹿児島神宮を排除できずにいたのだと思われます。

 

 

 

 

 

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