宇佐神宮の本殿(上宮)へ向かう参道 

 

大分県宇佐市には豊前国一之宮である宇佐神宮(宇佐八幡宮)があります。

 

この宇佐八幡宮は全国に約四万四千社程分布する八幡宮の総本社でありまして、

京都の石清水八幡、鎌倉の鶴岡八幡、東京の富岡八幡も全て宇佐八幡の分社です。

 

鎌倉の鶴岡八幡宮

康平6年(1063)源頼義が奥州平定の際に源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の

石清水八幡宮を鎌倉の由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりでその後、源氏再興の旗上げをした源頼朝が

治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しした。

 

そんな宇佐八幡宮小椋山=小倉山(亀山)という山の上に建てられています。

この亀山を前方後円墳と考える人がいますが、はたしてそれは本当なのでしょうか?

 

小椋山(亀山)の衛星写真(google提供)。宇佐神宮本殿(上宮)は後円部の頂上付近に鎮座する。

 

成程。オレンジ色で囲んだ亀山の外周ラインは確かに前方後円墳の形態を成してます。

すると亀山の墳丘長は地図の右下に記される50mの尺度と比較しても解るように、

全長が優に300m以上にも達し、箸墓を遥かに超える巨大前方後円墳ということになる。

 

又、『託宣集』には御量・御秤(みはかり)石が北大門内衛士屋前にあると記されている。

この御量石亀山古墳の石棺だと信じられており、亀山古墳説の根拠となっている。

北大門内衛士屋の現在地は不明だが御量石は実は二之御殿の直下に埋まっており、

大正五年の式年遷宮工事の際にこの御量石を実際に見た工事関係者がいるらしい。

 

そして菱形池は箸墓始め多くの前方後円墳の周囲に掘られた周濠の可能性もあります。

菱形池周濠として小さいのは後世においてかなり埋め立てられたのかも知れません。

 

 

箸墓(墳丘長278m) 隣接する周濠と思われる池は菱形池より遥かに大きい


 

元々宇佐の地には弥生時代以降多くの人が住み着き、王が統治する国がありました。

宇佐神宮に程近い駅館川右岸の台地上にある川部・高森地区には古墳が数多く作られ、

宇佐国王や豪族のものと思われる最大全長80mの福勝寺古墳をはじめ、赤塚古墳など、

6基の前方後円墳を中心とする円墳や方形周溝墓など約120基の墳丘墓が分布します。

 

 

宇佐(川辺・高森)古墳群の中で最も古いとされる赤塚古墳(墳丘長57.5m)

 

赤塚古墳は3世紀末築造とされており、その場合には菟沙津彦の墓もあり得ますが、

実際は赤塚古墳から出土した箱式石棺内から三角縁神獣鏡5面が見つかっており、

どうやら4世紀中盤のもので、神武東征後大和朝廷期に作られた古墳と考えられる。

 

 

さて、次はいよいよ宇佐神宮(宇佐八幡宮)本殿(上宮)にお参りしてみましょう。

 

宇佐神宮上宮礼拝所 左が一之御殿、真ん中の大きいのが二之御殿、右が三之御殿

 

 

宇佐神宮(宇佐八幡宮)本殿(上宮)は三つの御殿で出来ていて、

一之御殿には八幡大神(第15代・応神天皇=誉田別尊)

二之御殿には比売大神(※宗像三女神=多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)

三之御殿には神功皇后(仲哀天皇皇后:息長足姫命=応神天皇の母神)

が祀られています。

 

宇佐神宮の社伝(御由緒書き)によりますと、

御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊であり、

571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご顕示になったといわれます。

725年(神亀2年)現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。

これが現在まで続く、宇佐神宮の創建です。


又、宮司を取り持つ宇佐家、大神家、辛島家文書には宇佐神宮の伝承が残されており、

それを総括したものが、以下のようになります。

 

欽明天皇の29(569)年、宇佐神宮境内の菱形(ひしがた)池のほとりの泉の湧くところに、

突如ひとつの身体に八つの頭を持つ奇異な姿をした鍛冶をする翁があらわれました。

村人が見に行くと、五人行けば三人殺され、十人行けば五人翁に殺されてしまいました。

そこで大神比義(おおがのひぎ)が見に行くと老人の姿はなく、代りに金色の鷹がいました。

比義が『誰かによって鷹に変えられたのか或いは自分の意志で鷹になったのか』と問うと、

鷹は金色の鳩(はと)となって比義の袂(たもと)の上にとまりました。

そこで神が人を救済されようとして、自ら鷹に変身されたことを知った比義が、

3年あまり断食をして祈り続けたところ、ついに欽明天皇32(571)年2月初卯の日に、

この泉(菱形池)のかたわらの笹の枝の上に光輝く3才くらいの童子が現れ、

『我は誉田天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。』

『護国霊験威力神通大自在王菩薩で神道として垂迹せし者なり』と告げられました。

そしてたちまち黄金の鷹になって駅館(やっかん)川の東岸の松の上に止まりました。


そこに和銅元年(708)鷹居社を造り八幡様を祀り、霊亀2年(716)小山田の林に移られ、

ここに小山田社を造営。神亀2年(725)年に現在の社地、亀山とも小椋山ともいう、

山上に移されて八幡大神様が鎮座されたのが、今の宇佐神宮の創立です。

 

これ以来宇佐神宮の主祭神は八幡大神であり、応神天皇のことだとされるわけです。

 

そこで第15代応神天皇とはどのような天皇なのかを『記・紀』から辿ってみますと、

第14代仲哀天皇の皇后とされ応神天皇の母君である神功皇后(息長足姫)は、

筑紫香椎宮で神憑りして住吉三神に祈り、韓国出兵に関する神託を請うたところ、

夫である仲哀天皇は神の声により琴を弾きながら、不審な死を遂げてしまいます。

 

その後神功皇后武内宿禰らを配下に筑後山門国の女王田油津姫を討伐すると、

倭の海人族を玄界灘に大集結させ、対馬海峡を渡って、三韓征伐を成し遂げました。

三韓征伐から帰国した神功皇后は筑紫宇美國で応神天皇を産んだとされています。

 

以上より、応神天皇は筑紫から程近い宇佐に住んでいたことがあるかも知れません。

このことは宇佐神宮応神天皇が祀られることに何か重大な関りがありそうなので、

今度又、筑紫から豊前にかけての応神天皇に纏わる伝承を探ってみようと思います。

 

 

だが、いくら宇佐神宮の主祭神が応神天皇だとは云え、応神天皇が葬られる古墳は

大阪府羽曳野市誉田に国指定の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)が実際にありますので、

亀山古墳に葬られる本当の被葬者とは、どうやら応神天皇ではなさそうです。

 

応神天皇は九州から近畿に東征すると、当時大和朝廷の実質天皇だったと思われる

忍熊王篭坂王を倒し、大和政権を簒奪して、河内王朝を築いた始祖と考えられます。

この辺り神武東征と足跡が似ており、九州勢力による複数回の東遷があったようです。

 

 

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)【大阪府羽曳野市誉田】  墳丘長が425mもあり、

大山古墳(仁徳天皇陵)【大阪府堺市】の墳丘長486mに次ぐ、日本第二位の巨大古墳である。

 

 

亀山古墳の被葬者が応神天皇でないとすれば、本当の被葬者は誰なのでしょうか?

また、その人物(神)は宇佐神宮の御祭神とどのような関係があるのでしょうか?

それを知りたければ、宇佐神宮の御由緒書の続きを読むと解るかも知れません。

 

宇佐は玄海灘沿岸部の奴国周囲や出雲国及び畿内同様に早くから開けたところで、

『日本書紀』には、神代に比売大神様が宇佐嶋にご降臨されたと記されています。

比売大神様は八幡様が現われる以前の古い地主神として祀られ崇敬されてきました。

八幡神が祀られた8年後の733年(天平5年)にご神託により二之御殿が造立され、

宇佐の国造は、比売大神さまをお祀りしました。

 

三之御殿は神託により、およそ百年後の823年(弘仁14年)に建立されました。

応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしています。

神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、

そのご威徳が高くあらわれています。


また、宇佐神宮の拝礼作法は二礼四拍一礼となっており、

この拝礼作法は日本全国の神社で宇佐神宮と出雲大社だけとされています。

 

この伝承からも、比売大神八幡大神が宇佐に祀られる以前からの古い神で、

宇佐の地主神として祀られ崇敬されてきたとありますように、亀山古墳の被葬者は、

宇佐神宮が現在の形になる前から宇佐の地に祀られていた土地固有の氏神、

即ち、比売大神である可能性が非常に高いのではないかと考えられます。

 

元々、大神比義は大和朝廷が三輪山の大神神社から派遣した宮司と考えられますが、

大神神社(おおみわ)神社には大国主神と同一神とされる大物主神が祀られています。

大神比義は出雲勢力の生き残りなので、宇佐で二礼四拍一礼を復活させたのでしょう。


 

 

(以下次回につづく)

 

 

 

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