『魏志倭人伝』には倭国=女王国連合周囲国の記載がある。
これらの国々は現代日本でもほぼ同じ関係のはずで、他所の世界の話にする必要はない。
つまり我々現代の日本人とは非常に親密な、現実にすぐ手が届く国々の話である。
女王国の東、海を渡ること千余里。復国有り。皆倭種なり。
ところが、私が邪馬台国に比定する筑後山門のすぐ東には海は無いので、
この女王国は倭国の王都・邪馬台国のことを言っているわけではない。
以前にも書いたようにこの女王国は邪馬台国のことではなく、
九州北部の小国三十国の連合国としての倭国、即ち【女王国連合】のことである。
倭国の範囲は九州北部を西海岸から東海岸線迄全てカバーしていたと考えられる。
つまり女王国の東の海を渡って一千余里(50~100㎞)の距離に有る倭種の国とは、
女王国連合の東端にあたる大分県辺りの国(邪馬国・鬼奴国・為吾国)から見て、
海を渡った東に在る国、即ち四国の伊予国(愛媛県)辺りのことであろう。(☟図)
但し当時、「女王の境界盡きる所」と記される【奴国】以北の北九州地域には、
倭女王卑弥呼の支配力の及ばない宗像国以下【豊芦原中国】の領域があったので、
女王国から本州は見えにくいわけだが、一応邪馬国(現在の中津市辺り)から、
東北方向の海の先に、本州の一部である周防国が見えていたため、
この【倭種】と記される国の中には、本州も含まれると考えられる。
つまり陳寿はこの文で、【倭国】=【女王国連合】とは勢力圏と支配者(王)の異なる
【豊芦原中国】=【大国主連合】の存在を暗に示しているのである。
【豊芦原中国】は北九州の【奴国】より北側と本州西部及び四国に在る小国を含んでおり、
倭人系の人々が住んでいるが、【倭国】=【女王国連合】とは異なる連合国なので、
陳寿はわざわざ本州と四国を(倭人の國)とは書かず、(皆倭種)と書いたわけである。
北部九州の女王国連合=倭国を中心とした、西日本地図
赤は狗奴国=熊襲・隼人連合
青は豊芦原中国=素戔嗚尊・大国主命連合
緑は侏儒國
次に『魏志倭人伝』には
又侏儒国あり。其の南にあり。
人の長三、四尺。女王を去ること四千余里。
と記されます。
この女王国から南四千余里の距離に在った侏儒國(小人国)とは何処の話か?
因みに帯方郡使はこの侏儒國へ実際に行ったとは到底考えられません。
すると『隋書』「倭国伝」に「夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」
と記されることからも、倭人からの伝聞だけでは里数は解らないはずなのに、
この侏儒國に関しては「女王を去ること四千余里」と里程が記される。
すると陳寿はこの四千余里(300㎞程)の里程をどうやって知ったのでしょうか?
私の考えるには『魏志倭人伝』に【計其道里、當在會稽東冶之東】
(邪馬台国への)道里を計るに當(まさ)に会稽東治の東に在り。
と記されるが、この位置が実際の邪馬台国からはかなりズレている様に、
陳寿は『倭国報告書』を参考にしながら、かなり悪戦苦闘しつつ、
自分で地図を書き、倭国の国々の位置を推測していた様子が見て取れます。
たぶん漢から魏晋時代にかけての中国においては、
「女王国(倭国)の南に侏儒國がある」との風説が流通していたと思われます。
陳寿はこの風説にある侏儒國の位置を比定するにおいて、
洛陽に在る官邸の書庫の奥から手に入れた【倭国報告書】を基に憶測し、
女王国の南、女王を去ること四千余里の里程記事を書いたのだと思われます。
そうなると実際に女王国=邪馬台国から南に四千余里(300㎞程)の位置には、
九州の南海上に浮かぶ種子島と屋久島が在ります。
このうち、種子島には広田遺跡と云う弥生時代の遺跡があり、
http://www.town.minamitane.kagoshima.jp/institution/hirotasitemuseum.html
そこで出土する人骨は『魏志倭人伝』に記されるように、
身長3~4尺(当時の尺度で70㎝~90㎝)と迄は当然いきませんが、
当地の成人身長は本土(九州)人よりも10㎝ほど低い、140~150㎝だったようです。
だが、この身長は現在でも琉球などの南の島のお爺、お婆にはよくある身長で、
日本人的には特に違和感を感じる程のものではありません。
だが身長の大きい人の多い中国などの大陸人から見たらかなりの低身長で、
中国人は種子島・屋久島の人が小人の様に身長が小さいと考えていたようです。
ところが実際にインドネシアのフローレス島には身の丈3~4尺の小人が居ました。
古代中国の内陸の遺跡から南方の島の貝の貨幣が見つかっていることからも、
当時の中国に南方の島に住む小人の情報は伝わっていた可能性があります。
陳寿はこれ等の話を混同し、種子島・屋久島人の身長を3~4尺と書いたかも知れない。
もし侏儒國が実際に種子島・屋久島だとしたら、
邪馬台国(筑後山門)から南方に丁度四千余里(300㎞程)の距離にあり、
陳寿は侏儒國の位置をかなり正確に言い当てていたことになります。
更に『魏志倭人伝』には次のように記されます。
又裸国・黒歯国有り。復その東南にあり。船行1年にして至るべし。
これ等のうち黒歯国は『淮南子』や『山海経』に収められた南海の伝説中にあります。
黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 一赤一青
【在其旁 一曰 在豎亥北 爲人黑首 食稻使蛇 其一蛇赤
下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北
居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝ー】『山海経』第九 海外東経
曰く、豎亥(ジュガイ)=兎の臣下の仙人の居た所の北に黒歯国があり、
其処の人は首の色が黒く、稲を食い、赤や青の蛇を使っている。
黒歯国の北に在る湯の谷の上には扶桑の木があり、
扶桑の木には十の太陽が生って、九の太陽は下の枝に在り(隠れていて)、
一つの太陽が上の枝に在る(これが天上に輝いている)とされる。
裸国・黒歯国はこれ等の特徴を持つ人々の住む南方の島国のようです。
例えば、ポリネシアやミクロネシアなどのような島々のことを言っているようだ。
特にミクロネシア諸島のパラオ共和国は日本から船行一年可となり、
即ち当時のアウトリガーカヌー等で水行一年くらいにて至る距離にある。
倭の地を参問するに、海中の州島の上に絶在し、
或いは絶え、或いは連なり、周施(しゅうせん)五千里ばかりなり。
この文章の訳を過去の研究者の殆どが、
倭国に訪れた裸国や黒歯国の人達が倭人に質問し、
倭人が彼らに倭国についてこのように答えたと考えてきたようだが、
私はその逆に倭国に訪れた裸国・黒歯国の人達に倭人が質問し、
彼らが自国(裸国・黒歯国)のことを話したものだと考えている。
どうしてこのような間違いに到ったかと云うと、この
或いは絶え、或いは連なり、周旋五千里ばかりなりの記載が、
南洋の裸国・黒歯国と倭国周囲の島々の姿に共通するからだと考えられる。
パラオ共和国の地図
或いは絶え、或いは連なり、周旋五千里ばかりなりの記載に見事適合する。
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