①榎一雄の 【放射説】の登場。
京都帝国大学教授・内藤湖南の唱える【邪馬台国畿内大和説】と
東京帝国大学教授・白鳥倉吉の唱える【邪馬台国九州山門説】による全面対決、
『邪馬台国論争』で盛り上がっていた大正期~大戦をはさんで昭和中期になると、
その頃登場したのが、東京帝国大学・白鳥教室出身の榎一雄でした。
榎は自らが纏めた【放射説】を用いて、邪馬台国九州説を展開しました。
即ち、伊都国以降の
東南奴国に至る百里と
東行不彌国に至る百里、及び、
南投馬国へ至る水行二十日と
南邪馬台国へ至る水行十日陸行一日は、
何れも伊都国を基点として、別々の道程が放射状に記されたもので、
伊都国から邪馬台国へは
水行したなら十日、陸行したなら一月で至ると読む学説です。
榎一雄の唱えた放射説の図: 伊都国から邪馬台国への1500里は水行なら十日、陸行なら一月で至る
其れ迄邪馬台国研究者たちは、『魏志倭人伝』は連続的に記されていると、
当たり前の様に考えていましたが、【放射説】は彼らの発想に根本的な転換を促しました。
確かに【放射説】を用いると、『魏志倭人伝』の記載其の儘に、
南投馬国へ至る水行二十日及び
南邪馬台国へ至る水行十日陸行一月の日程距離と
伊都国-邪馬台国間の千五百里の里程が
同時に成立する範囲内に納めることが出来そうです。
榎は【放射説】の成り立つ根拠として、
倭国を訪問した帯方郡使は、首都・邪馬台国迄は実際に行っておらず、
『郡使往来常に駐する所』と記される伊都国に駐留した儘で、
倭人からの伝聞を参考にして、
伊都国以降の道程を伊都国を中心に放射状に記したと説明しました。
又、唐代の『六典』には「歩行一日五十里」とあります。
すると、陸行一月は50里×30日なので、1500里となり、
【伊都国-邪馬台国間】の1500里に見事に適合するわけです。
② 【放射説】を全否定した古田武彦の説
【放射説】は『魏志倭人伝』の記載を一切改変せずに成立する画期的な説でしたが、
この【放射説】に、真っ向から異論を唱えた人物がいました。
それが先ごろ亡くなった『邪馬台国は無かった』の著者・古田武彦です。
古田は、「歩行一日五十里」は漢や唐代の長里「一里=435m」で使われる話であり、
『魏志倭人伝』で使われる短里「一里=70~90m」には適応されないと云います。
しかも、榎が帯方郡使は伊都国までしか行っていないとするのに対し、
『魏志倭人伝』には、
正始元年、(帯方)太守弓遵、建中校射悌儁等を遣わし、証書・印綬を奉じて倭国に詣り、
倭王に拜假、並びに証を齎し、金・帛・銀罽(ギンケイ)・刀・鏡・彩物を賜う。
と記されており、
帯方郡使は明らかに倭国の首都・邪馬台国を訪れていると云うのです。
これには流石の榎も返答に窮したらしく、【放射説】はその後お蔵入りした儘です。
古田はその著書『邪馬台国は無かった』において、
当時マンネリに陥っていた【邪馬台国論】を根底から覆しています。
例えば、卑弥呼の貢献年は通説の景初三年ではなく原文通り景初二年が正しい説、
こちらも通説である女王国の位置は後漢書にある「会稽東冶(とうや)の東」ではなく、
『魏志倭人伝』『紹興本』『紹煕本』の通り、「会稽東治(とうち)の東」が正しい説などは、
確かに古田歴史観の面目躍如と云う処であり、私も全面的に合意するものであります。
しかしながら、
古田説のメインとなる【邪馬臺国】は間違いで、【邪馬壹国】が正しいとする説などは、
古田が12世紀出版の『魏志倭人伝』刊行本『紹興本』や『紹煕本』ばかりを重要視し、
『後漢書』や『翰苑』に【邪馬臺国】と記されることを全く顧みない考えです。
古田は范曄が『魏志倭人伝』を誤訳してるから『後漢書』は信用ならないとしますが、
『後漢書』に【邪馬臺国】と記されることと誤訳とは全く別の問題であり、
刊行本成立以前の『魏志倭人伝』に【邪馬臺国】と書かれていた可能性を示唆します。
しかも古田は七世紀の唐の時代に張楚金が『魏志倭人伝』を引用した『翰苑』にも
【邪馬臺国】と記されることに至っては、完全に無視しています。
実際「臺」と「壹」はよく似た漢字で、
特に筆で書くと非常に見分け難く、
何百年も写筆を続けているうちに書き写し間違う可能性は高いと思われます。
そして、間違って書かれた写本を、
『紹興本』『紹煕本』が採用してしまったと考えられるわけです。
どうやらこのような、『紹興本』『紹煕本』が発行される前の段階で、
「臺」が「壹」と誤って写筆されてしまった可能性に関しては、
古田武彦氏の頭の中からはすっかり抜け落ちていたようです。
そして放射説を一蹴した古田自身の『魏志倭人伝』の道程解釈では、
南邪馬壹国へ至る水行十日陸行一月の起点を、
不彌国や伊都国ではなく、帯方郡に置き、
水行十日陸行一月の日程距離は、
帯方郡-邪馬壹国間の萬二千余里と一致するとしています。
更に「郡より倭に至るには海岸に循いて水行し、
韓國を歴て、乍は南乍は東、
其の北岸狗邪韓國に至ること七千餘里」の文に関しては、
帯方郡使は船で帯方郡を出立後、
韓国西沿岸の途中で水行を止めて上陸、
その後朝鮮半島内をジグザグに陸行し、
狗邪韓国に至ったとしています。
更に対海(対馬)國が方四百余里で、
一大(壱岐)國が方三百余里と記されるのは、
郡使達がこれ等の島内を陸行で辿ったからであるとし、
方里の二辺を足した八百里と六百里を里程に加えねばならないとしています。
そうすることで、帯方郡以降の里程は、
7千余里+千余里+8百里+千余里+6百里+千余里+500里+百里=萬二千余里
と不彌国迄で萬二千余里に達し、不彌国から里数ゼロの邪馬壹国は、
不彌国の玄関先だとしている。
こうして、邪馬壹国を奴国と不彌国の目の前に在る博多に比定しています。
奴国に関しては、伊都国から不彌国とは別ルートだとし、
どうやら奴国と不彌国に関しては伊都国を基点とした放射説を借用しているようです。
更に、投馬国に関しては、不彌国の港から出港し、
南に水行したとして、
不彌国以降の水行が20日だと唱えています。
(☝上図及び☟下図)
此処でも古田は不彌国を基点とした放射説を用いて、
邪馬壹国と投馬国の道程を導き出している。
上図の不彌国から太平洋岸を辿って、投馬国へ至る点線が古田氏の云う南水行20日。
本来『魏志倭人伝』には不彌国について記された後、
南投馬国に至る水行二十日、
南邪馬台国に至る水行十日陸行一月と記されるのを、
古田説では、
邪馬台(壹)国へ至る日程記事は帯方郡を基点に置いたのに対し、
投馬国へ至る日程記事の方は不彌国を基点に置くと云う、
非常に自説に都合良い(恣意的な)解釈をしているようです。
つまり、古田説は特有の難解な解釈による読み方を駆使して、
『魏志倭人伝』の道程解釈を、結局は自説に都合よく纏めた結果、
重大な自己矛盾に陥ってしまったと云わざるを得ません。
例えば古田説では、邪馬壹国が博多に比定されるものの、
博多とは普通奴国のことであり、二万余戸を有すと記されます。
この奴国、及び戸数千余の不彌国に隣接して、
更に戸数七万余の邪馬壹(台)国を同福岡市圏内に置くには無理があります。
つまり、古田説はとても『魏志倭人伝』を素直に解釈しているとは思えない説です。
古田説では、帯方郡を船で出立した帯方郡使団は、
帯方郡使が上陸する度に乗ってきた船を捨て、
乗員が荷揚げした荷を運んで数百里或いは数千里も陸行し、
港に辿り着くと又新たに船を雇って、
荷を積んで航海を再開したことになりますが、
この時代に行く先々で手軽に船を調達できたとは、
ほぼ考えられません。
古田説の複雑怪奇な読解法は、
古田氏が非難してきた机上の学問そのものでしょう。
それに対し私は、
自分が帯方郡使になったつもりで、
『魏志倭人伝』を単純明快に読んでみました。
すると、多分帯方郡使は只一隻の船で、
帯方郡から末蘆国迄航行したに違いありません。
となると、
南投馬国に至る水行二十日、
南邪馬台国に至る水行十日陸行一月
と記される日程距離は、やはり、
共に帯方郡ではなく、伊都国を起点と考えた方が、はるかに自然です。
そうなると我々は再び、放射説に戻ってくることになります。
次回は、帯方郡使が倭国でどうしていたのかを考えてみたいと思います。
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