前回結局、古田武彦説も【邪馬台国】へ至る道程を巧く説明出来ませんでした。

 

しかしその他の説も、未だ道程記事を完全に説明できたと云う話は聞いていません。

現在の邪馬台国【九州説】派及び【畿内説】派、両派閥の見解は以下の通りです。

 

【邪馬台国畿内説】派の見解では、

『魏志倭人伝』自体が非常に曖昧な記述で出来た文献であり、

『魏志倭人伝』の記事から【邪馬台国】の位置を決めるのは最早不可能と考え、

今では考古学的所見のみから、【邪馬台国】の位置を比定しようと試みています。

この考えについて私は、「考古学的所見のみ」からだけでは、

所詮【邪馬台国】の位置比定は無理だろうと考えています。

但し【親魏倭王】銘の金印でも出れば、その限りではありませんが、

その場合も文献学的に、かなり狙いを定めてから掘らないと、

金印を上手く掘り当てることは相当困難な作業です。

 

これに対し現在の【邪馬台国九州説】派の方々は、

古田武彦氏の「日程距離帯方郡基点説」を流用する研究者が多く、

色々アレンジして、なんとか自説を説明出来るよう工夫を凝らしている状況です。

 

かく云う私は今迄古田説「日程距離帯方郡基点説」に反対の立場を貫いてきました。

それは『魏志倭人伝』の記載から判断すると、伊都国以降の日程距離は、

帯方郡使が伊都国で倭人から聞いた話を書き写したものと考えられるからです。

だからこれ等の日程距離は、伊都国を基点として考えるべきだと思うのです。

 

だが、此処で日程距離帯方郡基点説を使って、もし私が仮に

帯方郡から邪馬台国へ至る道程を矛盾なく説明出来てしまえば、

日程距離帯方郡基点説が本当は正しかった可能性があります。

そこで今から、この日程距離帯方郡基点説の証明に敢えて挑戦したいと思います。

 

 

私は元々の古田説の儘では【邪馬台国】へ至る道程を説明できないと考えています。

確かにこの行程図から、帯方郡から邪馬壹国へは

「南水行十日陸行一月」で至りますが、

帯方郡から投馬国へは「南水行二十日」だけでは至らず、

「南水行二十日陸行一月」が必要になってしまいます。

 

それと 郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓國を歴て、

は南乍は東、其の北岸、狗邪韓國に到ること七千余里。

の記載が、水行の途中から朝鮮半島内の陸行を示していることは絶対に有り得ず、

朝鮮半島内陸行説は完全に間違っていると私は考えています。

更に壱岐・対馬の島内を陸行することも殆ど考えられませんので、古田説の

朝鮮半島内、及び壱岐・対馬内陸行説は全て恣意的解釈だと思われます。

即ち、【日程距離帯方郡基点説】を用いた場合でも、

朝鮮半島や壱岐、対馬の島内を陸行せずに水行のみで辿るべきでしょう。

そうして考えた場合、【日程距離帯方郡基点説】は下図の如くなります。

 

 

即ち、韓国西海岸が水行七日=七千余里、

狗邪韓国-対馬-壱岐-末魯国間の渡海にそれぞれ一日掛かると考えられますが、

各渡海区間は千余里なので、水行三日=三千余里、

これ等を全て足して帯方郡-末魯国間が水行十日で一萬余里。

 

ここで、薩摩(さつま)国=殺馬(蔑字)国=投馬(略字)国と見做して、

現在の鹿児島県鹿児島市辺りに比定します(=古田説と同じ)。

だが、私の説は古田説と違って、末魯国-伊都国-不彌国間も陸行せずに水行し、

末魯国から九州北~東~南海岸を回って投馬国へ至る水行日程を併せて十日とし、

帯方郡-末魯国の水行十日を足すと、帯方郡-投馬国は水行二十日のみで到達します。

これで、帯方郡から「南投馬国へ至る水行二十日」が矛盾なく成立しました。

 

次に、帯方郡から「南邪馬台国へ至る水行十日陸行一月=萬二千余里」ですが、

帯方郡-末魯国間の水行十日=一萬余里に、

残りの末蘆国から邪馬台国へ至る陸行一月=二千里を足して、萬二千余里となり、

帯方郡から「南邪馬台国へ至る水行十日陸行一月=萬二千余里」がめでたく成立します。

 

この説では古田説と違って、韓国内と壱岐・対馬内の陸行が無くなった分、

末魯国以降の陸行距離が、まるまる一月=二千里分残ることになり、

末魯国-奴国間が五百里+百里=六百里であることから、

古田説のように、邪馬台国を奴国に比定することは不可能となります。

 

すると問題は、伊都国以降の千五百里、或いは不彌国以降の千三百里となります。

伊都国からの距離千五百里は、末魯国-伊都国間の五百里の三倍ありますので、

吉野ヶ里や天木・朝倉を邪馬台国とするには、短すぎてかなり苦しくなります。

・・・では筑後山門ではどうでしょうか。

末魯国-伊都国間の三倍よりはやや短い感じもしますが、なんとか成り立ちそうです。

但し、この場合、邪馬台国を豊前国宇佐辺りに置いても、

帯方郡から見れば南に位置することになるので、成立することになり、

こちらは、末魯国-伊都国間の三倍よりもやや長い距離と思われます。

この説では末魯国からの陸行一月を全て消費することなりますが、そちらも

距離の近い吉野ケ里や甘木・朝倉よりも、

まだ距離の長い筑後山門や宇佐の方が成り立ち易いと思われます。

 

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