世間ではマス・メディアにより、【邪馬台国論争】は畿内説有利の報道が飛び交い、
『なあんだ。邪馬台国って、やっぱり畿内=奈良の纏向(まきむく)辺りに在ったんだ?』
と思い込んでいる方が多いようですが、【邪馬台国畿内説】は、
実は極めて的はずれで、絶対に成り立たない間違った説なのです。
【邪馬台国畿内説】が成り立たない理由(その一)
『魏志倭人伝』に肥前国松浦郡【末魯国】の東南陸行五百里に在ると記される【伊都国】が、
筑前国怡土郡(福岡県糸島市前原)であることは、考古学的にもほぼ確定しています。
ところが『魏志倭人伝』には
女王國より以北は其の戸数・道里を略載可なりしも、
其の余の旁国は遠絶にて詳らかにし得ず。
と記された後に、次に・・国有り、次に・・国有り、と二十一の小国、
斯馬國、已百支國、伊邪國、郡支國、彌奴國、好古都國、不呼國、
姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、
鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國が、
が次々に並べられています。又、別の箇所には、
女王国より以北には特に一大率を置き、諸国を検察する。
諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都国にて治す。
国中において勅史(しし)の如きありと記されます。
つまり伊都国には【一大率】と呼ばれる警察機能を持った役所が置かれ、
女王国=邪馬台国以北にある二十一ヶ国の女王国連合=倭国を構成する小国群を監視し、
中国の刺史(しし)の如く恐れられていたと云うわけです。
すると、ここでもし仮に「女王国」=「邪馬台国」が「畿内大和」であるならば、
女王国の北に有る諸国とは、上記の『魏志倭人伝』に記される国名とはかなり違うようだが、
伊賀国、伊勢国、河内国、和泉国、摂津国、山城国、近江国、但馬国、丹波国、
丹後国、若狭国、播磨国、越前国、美濃国、尾張国、越前国辺りとなるでしょう。
ところが、『魏志倭人伝』に記される当時の交通手段では、
九州北部から邪馬台国迄に水行(二十日+十日)+陸行一月を要すはずですから、
邪馬台国の北にある九州から遠く離れた関西地方辺りの諸国を、
九州北部の伊都国に置かれた【一大率】が監察することはまず不可能だと思われます。
【邪馬台国畿内説】派の方にはこの問題について是非とも説明して貰いたいものです。
私は斯馬國、已百支國、伊邪國、郡支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、
對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、
巴利國、支惟國、烏奴國、奴國と云った反時計回りに連続する二十一国に、
邪馬台国へ至る道程中の六か国
(対馬国、一支国、末魯国、伊都国、奴国、不彌国)を
加えたものから重複する奴国を引いて、倭国の首都・邪馬台国と、
(伊都国から)遠絶にて詳らかに出来ない、
其の余の某国(私は国東国、大野国、海部国に比定)三国を足した、
計三十国が女王国連合=倭国を構成する諸国(小国)だと考えています。
このことを鑑みて作成した👇図の倭国地図からは、
伊都国に有る一大率が、女王国=邪馬台国以北に在る二十一の諸国を北面から、
南向きに睨んで監察している状況が、容易にイメージできると云うものです。
ここで、投馬國=殺馬国=薩摩国は、倭国=女王国連合には含まれません。
投馬国はその日程距離からも明らかに邪馬台国の南に在ります。
投馬国が邪馬台国の前に記され、戸数・道理が略載されるという理由から、
邪馬台国の北にある倭国=女王国連合に含ませてしまうと、
『魏志倭人伝』の行程記事による邪馬台国の位置が比定不能となるのです。
【邪馬台国畿内説】が成り立たない理由(その二)
伊都国は、女王国連合=倭国において国際貿易港の役割を担っていたと記されます。
京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国からの使者が倭国を訪れた時には必ず伊都国の港で
詔書や陽遺の物は捜露(そうろ)=荷揚げされ、一大率によって入国審査を受けた後、
一大率が責任をもって、倭国の首都邪馬台国に伝送し、
差錯(ささく)し得ず=紛失・破損等の重大問題は起き得なかったと記されます。
ところが、伊都国で一旦荷揚げされ、入国審査を通った陽遺の物を、もう一度荷造りして、
船に積み込み、水行を再開するなんてことが、現実的にあり得るでしょうか?
普通このようなことはほぼあり得ませんね。
伊都国の港で捜露された証書・陽遺の物はそのまま車に積み込まれると、
水行を利用することなく、陸行一月で首都邪馬台国へ伝送されたものと思われます。
ところが【邪馬台国畿内説】の場合は、
伊都国で一旦荷揚げされ、一大率によって捜露=入国審査を受けた詔書や陽遺の品は、
再び荷造りされると、もう一度船に積み込まれて、
遠い近畿地方に向けて、水行を再開せねばなりません。
そして水行二十日(投馬国?)+水行十日(難波?)迄の舟旅を経た後、
難波辺りの港で又も荷揚げされると、もう一度監察官に捜露される必要があります。
これは二度手間と云うよりも、伊都国における捜露=入国審査の意味が無くなり、
『魏志倭人伝』に伊都国の【一大率】が記されている意味もなくなるでしょう。
つまり【邪馬台国畿内説】は、『魏志倭人伝』に【一大率】が伊都国に置かれている
に記される意味を完全に無視しているわけであります。
【邪馬台国畿内説】が成り立たない理由(その三)
『魏志倭人伝』には【奴国】が「女王の境界尽きる所」と書いてあります。
つまり【奴国】は、女王国連合=倭国の構成国で、
しかも女王国連合の境界(端)を為していると書いてあるのです。👇図。
福岡市の志賀島から【漢委奴国王】銘の金印が出土していることから、
奴国は福岡市、春日市、那珂川町辺りの福岡市圏内に有ったことが解ります。
『後漢書東夷伝』には【奴国】が二つあったような書き方がされていますが、
私は、著者范曄が『魏志倭人伝』の解読を誤ったことによると考えています。
【邪馬台国畿内説】派の方は、【倭国】の範囲をどのように考えているのか、
もし可能なら、是非共納得のできる説明をして貰いたいものです。
【邪馬台国畿内説】が成り立たない理由(その四)
『魏志倭人伝』に女王国連合=倭国の南には敵国の狗奴国が存在すると記されます。
狗奴国は狗古知比狗(菊池彦)の官命からも球磨国(熊本国)であることは明白です。
【邪馬台国畿内説】派の方々はこの問題に関し、『後漢書東夷伝』を根拠に、
【奴国】を倭の極南界として、女王国の東の海を渡った倭種の国を【狗奴国】としますが、
この見解は、『後漢書東夷伝』の著者・范曄が、当時の時代背景に合わせて、
『魏志倭人伝』の記事を混乱して解釈したものでありましょう。
【漢委奴国王】銘の金印が出土したのは志賀島でありますので、
范曄の言うように、【倭の奴国】は倭の極南界ではあり得ません。
【邪馬台国畿内説】が成り立たない理由(その五)
考古学所見から明らかです。特に『魏志倭人伝』にも記される、
弥生時代の遺跡から出土する鉄鏃や鉄剣等の鉄製武器の分布は九州に偏っており、
同時代の近畿地方の遺跡から出土する鉄器の数を圧倒しています。
考古学所見については、今後詳しく調査した上で、又回を改めて書きたいと思います。
以上、(一)(二)(三)(四)(五)の理由により、【邪馬台国畿内説】は有り得ません。
私は女王国連合=倭国は九州北部の三十の小国が集まった連合国だと考えています。
倭国の首都・邪馬台国は筑後山門だと思われますが、それについては又次回。
P/S: 現代では、【邪馬台国畿内説】派の方々は、
『魏志倭人伝』の解読から、邪馬台国を畿内に求めるのは最早不可能と察したらしく、
『魏志倭人伝』の記載は邪馬台国の位置を詳細に検討しても絶対に成り立たない、
信用の置けないあやふやな歴史書と見做して、もう使用しないことに決めたようです。
そこで、邪馬台国の位置を考古学的所見のみで探ろうとしているようです。
ところがその考古学的所見でも、鉄器の出土数など、
【邪馬台国九州説】に有利な結果ばかりが続出してしまい、
現在【邪馬台国畿内説】が有利とされている考古学的所見は、
墳墓周囲の土器付着物などから計測される放射性炭素同位体年代だけとなりました。
ところが【邪馬台国畿内説】派は、放射性炭素同位体の年代を弥生時代中期に合わせる為、
年代を計る資料に、時代の新しく=正しく出る桃核などは決して用いず、
時代の古く出ることの多い、土器付着物ばかりを使用しているわけであります。
何故ならば、土器付着物は付着する前の年代が当然のように出るからです。
ここまで無理な説を並べて迄、【邪馬台国畿内説】派が、
【邪馬台国畿内説】を守りたい理由とは、いったい何なのでしょうか?